2026年5月31日日曜日

『仏教土着――その歴史と民俗』高取 正男 著

仏教と民俗宗教の関係を考察する本。

本書は、昭和45年のNHKラジオのFM文化講座「日本民俗学の課題」の一部をまとめたもので(それにしても昔のNHKFMは硬質なテーマを放送していた)、仏教が土着するとはどういうことかをいくつかの題材で考察している。

日本人の信仰はまことに雑駁としたもので、そこには仏教にない要素が多分に含まれていた。しかし多くの日本人は、正月や盆の行事、民俗芸能、日常生活の隅々にあった俗信をまさに仏教の一環であるとも認識してきたのである。西川如見は「町人嚢」のなかで「日本にての聖霊祭の躰も、一向に仏法のみを用いたるものにあらず、みそ萩、青萱の筵、土器(かわらけ)、麻(お)がらの箸など、唐天竺の様子にはあらず、神道の躰なりといへり(p.21)」と述べている。如見がこう述べているということは、一般的にはそれが仏法に基づくものと認識されていたことを示している。なお、そういう儀礼は神道のものだ、というが実際には神道でもなく、今でいう民俗信仰であった。

前近代の社会において、民俗信仰こそ民衆の生活を強力に規定していた。廃仏毀釈で仏教を全廃した旧苗木藩領(岐阜県加茂郡白川町)では、仏教を棄てて100年にもなっているというのに(※本書刊行当時)、その死後の世界についての考え方はほとんど周りの村と変わらない。これは、人々が仏教を棄てたつもりで捨てきれなかったというより、そもそも彼らの他界観が仏教の理論に基づくものでなかったからだと解釈できる。この強力な民俗信仰を無視しては仏教は土着できなかったはずだ、というのが著者の考えである。仏教は「民俗信仰と妥協し、さらにはそれと離れがたく結びついている(p.30)」。

しからば民俗信仰とは何か? これがなかなか難しい。民俗信仰には一貫した理論もそれを唱道した人物もおらず、とらえどころがない。例えば7歳までに死んだ子供の埋葬を大人とは違う墓地にしたり、家の床下に埋めるといった村があったが、これは何に基づくのか。明らかにその観念の基盤は仏教ではない。著者はこうした行動を「早く生まれ変わってほしい」とか逆に「遠くの仏の世界ではなく近くに留まっていてほしい」といった願望の現れとしているが、実のところその理由は不明というほかない。なお縄文時代の竪穴住居の入り口の床下に幼児の遺体が埋葬されていた例もあるそうだ。

民俗信仰と仏教の関係を考察するために著者がとりあげる題材が、鹿児島にあった「カヤカベ教」という民俗宗教である。薩摩藩では一向宗が禁じられていたため、一向宗を奉じる人々は隠れ念仏を行っていた(※著者は「かくし念仏」と書くが、ここではより一般的な「隠れ念仏」とする)。本願寺(本山)は秘密裏に信徒を組織していたが、弾圧が激しくなった時期に本山との連絡が途絶えた地域があり、そこでは独自の念仏信仰が発展した。そうしてできた信仰が霧島の牧園町・横川町にあった「カヤカベ教」の名で呼ばれるものである。

「カヤカベ教」は他称で、その教徒たちは「牧園横川聯盟霧島講」と呼ぶ。表向きは霧島講(霧島信仰、霧島修験)の形をとり、大正や昭和の初めでは霧島神宮側は彼らを「萱壁組合」とか「萱壁講」とか呼んでいた。このほか彼らは、カヤカベ教を「吉永どんの宗教」とも自称してきた。藩当局の弾圧がもっとも激しかった時期に教団を主宰したのが親幸という人物で、彼の俗名を吉永市蔵といい、その死後、教祖の地位をその直系の子孫で継承したことで「吉永どんの宗教」というようになったのだという。

カヤカベ教については、龍谷大学が昭和39年に調査団を組織して調査を行い、その結果は『カヤカベ かくれ念仏』(法蔵館)としてまとめられた。著者はこの調査団の一員であったため、本書ではカヤカベ教についてかなり詳しく紹介されている(一般向けの本では本書が一番詳しいかもしれない)。

カヤカベ教では、牧園が11、横川が6つの「郡(こい)」という組織に編成されていた。一般の平教徒は「御同行衆(ごずぎょうしゅう)」と呼ばれ、その中の信心堅固なものが「知識」に昇格し、さらに郡ごとに「郡親(こいおや)」というリーダーが選ばれた。法会や葬式はこの郡親が主宰する。数個の郡を統括するのが「中親」で、教団運営の相談役として「取次ぎ」がいる。調査の時点で、郡親20数名、中親8名、取次ぎ3名がいた。このほか調査以前には、霊媒的な役目と考えられる「杓取り」という女性がいた。これらの役職は一代限りで終身であった。親幸の妻靏亀(つるかめ)も霊媒的な体質で、彼女は後に親幸と別れてカヤカベ教の別派「権次法」をつくった。

カヤカベ教は基本的には浄土真宗の教義を踏襲しているが、「オツタエ」という口承で伝えられてきた説教(法話)が興味深い。これには「仏法のはじまりや天地の開闢、聖徳太子の治世、法然・親鸞の事蹟から石山合戦、さらにはこの教えが起こり、伝承する過程での宗教坊や親幸の事蹟など(p.85)」が含まれた全13種が伝えられている。また、独自の教義として鶏肉を絶対に食べないことがある(知らずに鶏肉を食べても浄土には行けない、という)。著者は、隠れ念仏を偽装するためにことさら戒律を強調した結果、このような教義が生まれたと考えている。このほか、「お書物」と呼ばれる文書が残されている(後述)。

カヤカベ教に入信するためには、郡の全員から承認を受け「ヒキイレ」という儀式を行う。その他生活全般にわたる様々な儀式が用意されているが、特に葬式は注目される。教徒が亡くなるとその衣類を郡親の元に持参し、その衣類を一種の御霊代としてお座がたつ。そして葬式を行い、夜に納棺する。さらに翌日、タユドン(太夫)などと呼ぶ神職を呼んで神式による葬式を行う。神葬祭は、明治以降に加わった偽装のための葬式と思われる。このように二重の葬式をするのは、浄土真宗が解禁された明治以降にも彼らが隠れ念仏をしていたからである。

「お書物」には、親幸が教徒たちに回覧させた文書が含まれており、これは一種の冥界通信であった。親幸は亡くなった教徒がちゃんと浄土へ行ったか知らせていた。面白いことに信心堅固なものほど短い時間で浄土へ到達するとされていた。親幸は3日ほど寝続けることがあり、そういう時に親幸は「霧島の神に連れられて浄土へ行っていたという(p.103)」。しかし彼は阿弥陀如来に近侍したのではなく、薬師如来・伊勢・霧島六社権現・聖大明神が阿弥陀如来の言葉を次々に取り次いで親幸に伝えた、というような形で書かれた文書が多い。かと思うと、「かいの崎(健崎)」の庄兵衛の父親の次太郎(過去の往生者)は阿弥陀如来に近侍しているとされ、この次太郎を取次ぎとして阿弥陀如来に相談がなされてもいた。

ともかく、教団内で何か相談事があると、親幸に願い、親幸から霧島六社権現、権現から伊勢、伊勢から阿弥陀如来といった形で願いが累次に取り次がれ、阿弥陀如来からの回答はこの逆ルートで伝えられた。教団の組織運営に関することはこうした手続きが厳重を極め、文政11年の「御状」はその極致である。曰く「(杓取りに復帰させてくれという)春菊とお末の願いについて、御聖大明神と上積大明神の二神が86人の供衆といっしょに、二度と取違いはさせないと起請文を書いて、霧島六社権現に願い、それを受け取った霧島権現は、自分たち一存ではできないといって、日向の大当の権現以下の三神と相談し、2516人の供廻りと起請文を書いて伊勢に願い、伊勢の神は5032人の供廻りと起請文を書いて、阿弥陀如来の取次役に願い、取次役は供廻り2万65人と言葉をそろえ、起請文を書いて如来に差し出した(p.112)」。この要望を受けた阿弥陀如来は、二人を帳面に書き込むと帳面を汚すことになるといって、新しく名簿を作り直すことを命じ、玉突き的に人事の変更が行われた。

これに対し著者は「こういう託宣類似のことが、真実をこめて書上げられている点に、当時、カヤカベ教徒のおかれていた状況が、悲しいまでに反映している(p.113)」とするが、その「状況」とは何を意味するのか。また詳細は割愛するが、カヤカベ教の人事はなかなかうるさく、先ほどの「杓取り」復帰が重大な問題となったように、複雑な組織機構を備えていた。そしてこのような重要文書は、普通教祖か中親のもとで保管されていると思いがちだが、実見できた3か所は全て女性の有力平教徒のもとであった。このことはカヤカベ教の組織が単純なピラミッド構造ではなかったことを窺わせる。

普通の民俗宗教は、全体として一貫した理屈がなく、特定の唱道者がおらず、宗教のための上意下達的な組織がない(ただし講のようなものはある)。そういう意味では、カヤカベ教はむしろ仏教諸派のような唱導宗教に近い。親幸という教祖がおり、教祖が伝えとされる物語が信仰の中核となっていたのは、民俗宗教というより唱導宗教の特徴だ。

親幸は霊媒気質で、見てきたように異界を話す人物だったのだろう。今でも鹿児島にはそういう人がときどきいる。カヤカベ教はまさに「吉永どんの宗教」すなわち「親幸教」であったのだろうと私は思う。カヤカベ教が、元来は隠れ念仏であったというのは疑い得ない。ところがカヤカベ教は京都の本山を不審のまなざしで見ており、「本来の教えを伝えているのはこちらだ」という意識が強い。これは何を意味するか。カヤカベ教は確かに弾圧されていたが、それは藩当局からではなく、本山からだったと考えた方が理に適う。

おそらく、隠れ念仏に対する藩当局の弾圧が激しくなった時期に、この地域の隠れ念仏信徒と本山との連絡が途絶え、そこに現れたのが親幸であったのだろう。親幸は阿弥陀如来とつながり、本山以上の権威を作り上げた。そして親幸自身の仕事であるかどうかはともかく、信徒を本山とは全く違う形に組織した。その組織原理は、秘密保持というよりは権威の演出に大きな力が割かれているように見える。また故人が浄土へ往生できたかの決定権を親幸が持ち、往生にかかった時間によって教徒をランク付けした。こういう教団を、本山が異端として排撃しないわけがない。鹿児島の一向宗弾圧は、常に行われていたわけではなく、激しく弾圧された時期とそうでもない時期がある。そうでもない時期には本山は信徒とそれなりにつながっていた(でなければ隠れ念仏自体が不可能である)。であるから、カヤカベ教を本山が矯正しようとした可能性は大きい。

とすると、カヤカベ教の幹部としては本山に対抗する必要があっただろう。そのために作られたのが、天地開闢からの歴史を物語る「オツタエ」や、累次の神仏の取次ぎだったように思われる。一見荒唐無稽な神仏の取次ぎは、親幸・教祖の超越的な権威を強調するためのストーリーではなかったか。少なくともこれは秘密保持とは何ら関係ないのは明らかで、むしろどこか遊戯的な要素も感じさせる。ちなみに取次ぎに登場する「聖大明神」はこの地域にある地元の神社の神である。地元の神社の神から阿弥陀仏までがつながり、それを手中にしていたのが教団幹部だった。

そして本山がいう真宗の教義は多分に理念的・形而上学的であるが、カヤカベ教のそれは即物的・具体的だ。「どんな悪人でも一度でも南無阿弥陀仏と唱えれば往生できる」といわれるより、「私が浄土に行って確かめたところ、故人は浄土まで3刻かかったがようやく到達できた。日頃の信心のおかげだ」といわれる方が納得感がある。この納得感を武器に本山に対抗して出来上がったのがカヤカベ教であったような気がしてならない。このように考えると、カヤカベ教は、藩政府だけでなく本山からも隠れていた隠れ念仏なのではないか。

この仮説を裏付けるように、はじめ龍谷大学の調査団が村に入った時、教徒たちは「ある種の恐慌といってよい状態(p.99)」となった。彼らは本山が「むりやりに「折伏」しに来たと判断した(同)」のである。藩政府からの弾圧を気にする必要がなくなった信教自由以降も彼らが隠れ念仏を続けたのは、本山の存在が都合が悪かったからと考えるほかない。

本山という理論的支柱から決別した時、土俗的なコミュニティがどう宗教性を発展させるかという実例がカヤカベ教なのかもしれない。カヤカベ教では、「真宗教義の土俗化したものという言葉だけでは説き明かせない厳しい宗教性が、教徒たちの日常生活を貫いていた(p.99)」と著者はいう。迷信といえばそれまでだが、先述の「鶏を食べない」をはじめとして、カヤカベ教では各種の生活規定(戒律)があり、それを厳しく守っていた。他方よく言われるように、真宗は仏教諸派の中では最も迷信を拒否した宗派である。真宗では阿弥陀仏の絶対性が強調され、それ以外を些事として退けた。結果として、真宗では他の仏教諸派がうるさく言うような細かい儀礼や生活規定をほとんど否定し、信心のみを強調した。真宗の根本である念仏すらも、ああしろこうしろという規定はなく、一生に一度でも唱えれば阿弥陀仏は必ず往生へ連れて行ってくれるという。

そして真宗では「(他力に頼るほかない)悪人こそ阿弥陀仏は救ってくれる」という悪人正機説を強調した。ところが、こうした真宗教義は、真面目に生きている真宗門徒にとってそれほど魅力的でも信仰しがいのあるものでもなかったように私には思える。もちろんそうした教義は、悪を重ねなければ生きていけない人々、自力救済はできそうもない人々に真正面から向き合って形作られたものではあった(それに真宗では、すべての人は悪人だと喝破した)。しかし真面目に生きている(と自認する)人からすれば、そうした教義は何か物足りない。日頃の生活で戒律を守り、信仰に身を捧げている人こそ救われる方がずっと信仰のしがいがある。つまり「信仰しがい」が自然に発展していったのがカヤカベ教だったのではないだろうか。少なくとも、南無阿弥陀仏と唱えるだけの抽象的な救済よりも、鶏を食べないなど具体的な戒律・生活規範を守れば救済されるという方が、内的な安心感(=これだけやっているのだから大丈夫という確証)を得やすかったと考えられる。

著者は「真宗教義の土俗化したものという言葉だけでは説き明かせない厳しい宗教性」がカヤカベ教にあるというが、むしろ土俗化しているからこそ厳しい宗教性が発展していったと考える方が自然である。

話が飛躍するようだが、日本の部活動ではおそろしく厳しい修養が行われることがある。厳格な上下関係、挨拶と礼儀、道具に対する手入れ、グラウンド・体育館の徹底的な清掃、まるで苦行のごとく自らを追い込むこと、先輩や親・指導者への感謝の強調、生活規律(服装・時間管理・身だしなみ)の遵守などは、ほとんど宗教のようである。そしてこれは、著者がいう「宗教の土俗化」を象徴的に表しているような気がする。スポーツ科学に基づいた指導を行う本当の一流校ではこういうことは少ない(と聞く)が、ちゃんとした指導者を得難い田舎の伝統校でこそこうした厳しい修養が行われることが多い。これは、合理的な指導・理論に基づいた訓練よりも、精神性や根性論が優先されがちな日本の「土俗性」を示しているのではないだろうか? かつて部活動生が丸刈りだったのも、得度に際し剃髪していた仏教の在り方と共通する心象があったように思う。このように、部活動には土俗性と宗教性が同居していたと私は考える。そしてカヤカベ教の変容は、部活動と通じるものがあるように思えるのである。

つまり、宗教の土俗化とは、高僧の高邁な理想が堕落してしまうことのように思えるが、実際には、民衆が自ら望んで宗教を「スパルタ式」にしていくことなのかもしれない。民衆は様々な生活規定・禁忌を生み出す。そして理論に通じた高僧がいないことで、そういう何の根拠もない「迷信」がいつまでも退けられず、徐々に規定が累積して生活ががんじがらめになってしまう。実際にカヤカベ教は、そういう状態に陥っていた節がある。彼らが龍谷大学の調査をしぶしぶながら受け入れたのは、「鶏精進をはじめ不可解な禁忌の数々を守り、深夜の儀式を維持する後継者の育成は、不可能になりつつある(p.100)」という現状があったからだった。「この宗教が早晩消滅せざるをえないことは、どのように信心堅固な老人でも、ひとしく認めるところ(同)」であったのである。「水は飲むべきだし、練習はやたらにすべきでなく適度な休息が必要」などといってくれる「権威」がない状態では、日本人の土俗性はどんどん迷信を生み出しそれが厳しく守られていく傾向にある、ということは部活動が示している。だからこそある種の部活動は特別な人にしか選ばれなくなるのである。カヤカベ教と同じように。

ところでカヤカベ教では、本山には親鸞の「カチビル」すなわちミイラが安置されており、心だけ浄土に行ったとしている。なぜ親鸞のミイラがあると考えたのか不明だが、著者は湯殿山の即身仏などと類比し、これは古い民俗に基づく観念(信仰上のアタヴィズム(atavism 先祖返り))ではなかったかと述べている。即身仏とは、自ら命を絶ってミイラ化することであるが、上述の部活動的土俗性と、自ら命を絶つという究極の献身が相性がいいことは首肯されることだろう。

ところで、カヤカベ教と部活動を類比することは大変失礼な見方であるかもしれないが、部活動で育まれた人間性は本物であるとも私は思う。ほとんど宗教的とさえいえる部活動での人格陶冶は、決して迷信でがんじがらめになった人間を生み出すのではない。むしろ合理的なスポーツ科学によるトレーニングによって人格が陶冶されるかどうかの方が怪しい。そちらの方がスポーツの技能は向上するかもしれないが、やはり挨拶・儀礼・感謝・報恩のような部活動的指導の方が、人格面では有効だと思う。同様に、理念的・形而上学的な本山よりも、カヤカベ教の方がもしかしたら宗教的にはすぐれた内実を備えていたかもしれないのである。それが迷信や禁忌だらけだというだけで。

これに関し、著者は呪術について一章を設けて考察しているが、そこで非常に重要な指摘がある。曰く「科学が事物に潜んでいる法則を運用するように、呪術は事物のなかにある呪力を利用して現実の目的を達成しようとするからで、呪力という超自然の存在を前提にしながら、それに対する礼拝や祈願を含まないのが呪術本来のありかたである(p.157)」。つまり呪術は元来精神的なものでなく、科学的な論理に基づいているというのである。

私は「水を飲むな」と言われた時代の人間だが、それは部活動生を苦しめるためでなく「水を飲むとかえって疲れる」というのが理由だと言われていた。「水を飲むな」という「迷信」は、「水を飲むと疲れやすい」という一応科学的な論理に支えられていたということになる。ところが、次第に「水を飲むな」は、「苦しさに耐えろ」という精神論にすり替わっていった節もある。このように、土俗性は科学を精神化してしまいがちだ。著者が「礼拝や祈願を含まないのが呪術本来のありかた」というように、実際には礼拝や祈願を含む呪術へと転化しがちだった。

これを土俗宗教と仏教の関係に応用して考えると、部活動に対する科学と、土俗宗教に対する仏教は同じ位置を占めていることになる。「水を飲むな」が近年否定されたのは、水を飲まないと熱中症になるという科学の力であった。同じようにカヤカベ教を否定しうる力を持っていたのは仏教すなわち本山なのである。だからこそカヤカベ教は本山から隠れた。広範囲に組織化され、他宗との論争で鍛えられた教理持ち、普遍的な力を持っている仏教諸派は宗教というよりは科学なのだ。西洋で近代の科学革命を担った人々の多くが神学の徒であったことも想起されよう。

そして、雑多な迷信に覆われてはいても、土俗宗教の方がより「宗教」的なのかもしれない。ではその「宗教」を支えていたものは何か。著者は「人間個々人の意志力は、えらばれた人以外はけっして強いとはいえない。にもかかわらず、あれほどの言語に絶する苦患を加えられながら、なおも不退転の信仰と結束力を保持しえたのは、そこに村の全生活がかかっていたからという以外にない(p.79)」という。彼らの「宗教」は、確かに村というコミュニティに支えられていた。つらい部活動に耐えられるのも、仲間と運命共同体になっているからだ。つまり彼らの「宗教」を支えていたのは教義ではなく、仲間・コミュニティの存在であったと考えられる。教義に基づいた部派宗教は今でもそれなりに存続しているものの、民俗宗教が事実上壊滅してしまったのは、それが依拠していたコミュニティの崩壊に基づくのだろう。仲間内でしか通用しない理屈で作られた民俗宗教は、人々の行動範囲が広くなるだけで存在が危うくなる。

かつての精神的な「部活動」も、健全でスポーツ科学に基づいた「地域スポーツクラブ」へと変わりつつある。それが宗教からの土俗性の払拭と軌を一にしているといったら大げさだろうか。

カヤカベ教から宗教の土俗性を考える啓発的な本。

※今回の読書メモでは仏教の土俗性についての考察を中心にしたため、「呪術と宗教」「楽園恢復の願い」の章についてのメモは割愛した。

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2026年5月15日金曜日

『死者の救済史―供養と憑依の宗教学』池上 良正 著

民衆宗教を死者への対応の視点から再考する本。

本書は、「救済史」を冠しているが歴史を述べるものではなく、著者の宗教についての考え方を述べるもので、前半は供養、後半は憑依について述べ、最後に供養と憑依が共通の土台に基づくものであるとしてまとめている。

著者の日本の民衆宗教についての基本的考えは、「苦しむ死者」「浮かばれない死者」の魂をどうにかして「安らかな死者」へと救済することが期待されていた、とするものだ。

しかし著者自身も控えめに述べているが、古代の日本人が死者を「救済を必要とする存在」として認識していたかどうかは定かでなく、この前提が成立していたのかどうか疑わしい。

次に、「苦しむ死者」「浮かばれない死者」への対応として2つのシステムがあったと著者は考える。第1に〈祟りー祀り/穢れ―祓い〉システム、第2に〈供養/調伏〉システムである。第1のシステムは、祟る死者を祀ることによって慰霊するか、もしくはその死者が穢れているとして祓うという考えを表しており、著者はこれは仏教以前からある在来のものであると見なしている。第2のシステムは仏教による対応である。そしてこの2つのシステムは排他的なものではなく、在来の第1システムの上に第2システムが付け加わって、多彩な死者との向き合い方が生まれたと著者は考える。

ここでも著者は、第1のシステムについて仏教以前に死者が祟ると考えられていた証拠はないと一応は述べるが(p.41)、それでもこうした考えが在来のものであったとして話を進めている。しかしながら、証拠がないものを前提にするのは腑に落ちず、「苦しむ・浮かばれない死者を救済する」という前提も含め、著者の考えは図式が先行しており、史実への立脚が薄弱であるように感じた。管見の限りでは、〈祟りー祀り〉が現実化するのは平安時代以降で(古代において祟るのは死者ではなく神である)、また〈穢れー祓い〉は古代には死者に対して適用される観念ではない(死・死体は「穢」の一つであったが、それを「祓う」という対処法がない)。このように、著者の措定する図式は堅牢なものとはいいがたい。

それはともかく、こうした考えの下に『日本霊異記』で「苦しむ死者」がどう考えられていたかを分析し、続いて『法華験記』『沙石集』などから、その対処法がどう変わってきたかが述べられている。その要諦は、読経・念仏・造像・写経のような追善行為によって、自業自得・因果応報という自己責任で個人の行いによって完結していた死後の在り方が、他者からの働きかけでどうにかできるものに変換したのだ、ということである。読経・念仏・造像・写経といった行為は、本来は仏や僧侶への供養(布施)なのであるが、これが「死者への供養」と変換されていることも注目される。なお、このことを著者は「死者との個別取引」と呼んでいる。

このような変換によって、死者は「仏法による済度を願う弱者の地位(p.79)」になったという。一方で、生きている側にとってみれば、苦しむ死者などにおびえる必要がなくなったということになる。悪霊が現れたとしても、仏法によって調伏=救済できるのであれば怖れるに足りない。実際、「信長、秀吉、家康などの武将は、多くの敵味方の将兵の屍のうえに政権奪取をなしとげたにもかかわらず、日ごと夜ごとに怨霊に悩まされるということは、もはやなかった(p.92)」。『太平記』などの軍記物には、怨霊などにおびえず「俺の施しによって成仏させてやる(p.101)」といった「平安時代の貴族たちとは、根本的に異なる精神性(p.99)」が描かれている。そして亡霊の方も「むしろ大般若経の読誦を受けたことに感謝して、成仏してしまう(p.108)」。

だからこそ幽霊・亡霊などを手軽に扱えるようになったという側面があり、近世には怪談・怪異文学が全盛期を迎えることになった。ただしそこに描かれる幽霊は、成仏だけを願う存在ではなく、自由奔放にふるまっている。能のようなある程度類型化した世界と民衆が考えていた幽霊の世界はちょっと違うようだ。

さらに、著者は目を世界の民俗宗教に転じ、「世界宗教の土着化」の問題を探るテーマとして死者の供養を考察している。イスラーム圏、ロシア、ラテン・アメリカが取り上げられ、これらの地域では世界宗教を受け入れつつも土着の考えと融合したあり方で死者を扱っていることが指摘される。いわゆる世界宗教では、個別の死者を弔うことに大きな意味を付与していないが、結局、人間というものは死者に対して何らかの慰霊を行いたくなるものである。

なお、キリスト教では死者の魂の行方は元来「最終審判における天国と地獄」とイメージされていたが、これでは遺族による慰霊・供養の余地はない。そこで中世では、「とりなしの祈り(代禱)」とよばれる生者の力添えによって、人が受ける苦しみが軽減されるような中間的来世である「煉獄」が考えられるようになった。仏教の地獄も時限的であって生者の働きかけで苦痛が軽減されるという意味では同じであるから、地獄と煉獄は共通の性格が認められる。そして煉獄の存在によって、キリスト教圏でも日本の民俗・民衆宗教と似たような「死者供養」が行われているから、「比較供養論」=「比較煉獄論」が可能になると著者はいう。

次に考察の対象になるのが「憑依」である。まず「憑依」という言葉が研究史においてどう使われてきたのかを述べ、キリスト教での神の啓示などが事例に挙げられてその問題が提起される。それを簡単に述べると、「憑依」というと悪霊や苦しむ死者が「憑く」もので、神や仏の示現を宗教者が受け取る場合は「憑依」とは表現されないが、その両者に実質的な違いはどれほどあるのだろうか? ということである。これは現代の研究者の持つバイアスであると同時に、史料にも見出せる固定観念である。怨霊やもののけ相手だと「つく」「くるふ」「霊病」「物ぐるひ」などと表現され、神の場合は「つく」「託す」「のる」「かかる」「おりる」などと表現されているからだ。もちろん、憑依と神託では若干違う部分も見られるが、共通性の方が大きいと著者は考え、その境界は不明瞭だという。

そこで著者は「憑依」という語をより広い意味で定義することを提案し(その定義自体はここでは割愛する)、ケーススタディとして『比良山古人霊託』が取り上げられる。21歳の女性に憑りついた比良山の大天狗との問答記録である。ここで著者は「憑依」の文脈から離れ、問答自体の興味深い点をいくつか指摘している。問答者は天狗から要人や知り合いが死後に得脱・往生できたかどうかについて聞き出そうとしているが、天狗はある種の人々を「天狗道に堕ちた」と言っているのが面白い。鴨長明『発心集』にも天狗になった僧侶の事例が掲載されているが、日本人は僧侶が得脱に失敗して転生する場所として「天狗道」をイメージしてきたらしい。元来、転生先には天道・人間道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六道しかなかったのだが、阿修羅道のような存在として「天狗道」が付け加わったのである。

仏法に帰依しているならば人間道以上に転生することが期待されるものの、行いがあまりよろしくない僧侶についてはそうなっていてほしくない、という人々の期待が「天狗道」を生んだのではないかと思わされる。そして天狗道は、僧侶であるにもかかわらず、現世に激しい執着と怨念を抱いて死んだものの行先でもあった。つまりキリスト教圏の人々が「煉獄」を必要としたように、日本人は天狗道を必要としたのかもしれない。天狗は、仏法に詳しく、験力があり、死後の運命や他界の様子について知っており、そして人に憑依する。このある意味なんでもありの「境界的性格(p.186)」が天狗道を特徴づけている。

そしてここで重要なことは、天狗道という仏教の経典には現れない存在が憑依によって一般人の口から語られ、それが職業的宗教者の言よりも重んじられていた、という事実である。これは他の文化圏でも当てはまる。人々は教理よりも憑依を通じて霊的世界を知れると考えていた。そして「仏教的世界」と「巫者的世界」は別に存在していたのではなく融合していた。

ここで著者は無住の『沙石集』『雑談集』を分析の対象とする。僧侶が「夢」で「示現」を受けるエピソードを示し、それが実体として憑依の一種とみられるにもかかわらず、その正統性をアピールするために「夢」や「示現」といった用語が使われているらしいことを指摘する。そして高僧に死人の霊が取り憑いた事例を示す。つまり憑依は巫女のような下級宗教者とか平信徒だけでなく高僧にも起こりうる現象で、やはりそれは霊的世界へのチャネルとして扱われていた。だからこそ職業的巫者である巫女が、仏僧に拮抗しうる力があるとして認められていたのでもあった。そうした女性は「一方では「霊病」などといわれながらも、一定の仏教的教義を武器に、絶大な評判を得ていたことが推察される(p.222)」。

「憑依」が霊的世界へのチャネルであるとするならば、「供養」もそうだというのが著者の考えである。そして憑依で重要なことは、物狂いの状態になった時に、「憑依した霊的存在に名前をつけ、体験それ自体の存在価値を言語化する行為(p.229)」を行えるか否か、ということである。つまり単なる物狂いになっただけでは錯乱と変わりない。それが誰それの霊であるということが合理的に解釈できるかどうかが大事なのである。

「苦しむ死者」を自らに憑依させて要求を聞き出し、それに応じて供養を行うということは、霊的世界と現実世界を合理的に繋いでいることになる。そこに、教理的な宗教が担えない部分が存在している。近代では、憑依は主流派の宗教からは排除され、いかがわしい存在と扱われがちであるが、かつては憑依を介して死者の世界と現世とを繋いだ行者的な人々が大きな役割を果たしていた。現代でもそういう霊能者は存在しており、本書では密教系の女性僧侶の活動が例として取り上げられている。彼女は、霊が今どうなっているかを代弁し、残された人にどうして欲しいかを伝える。それは、苦しむ霊を救済するというよりも、残された人(ここでの例は子どもを失った女性)を救済する行為なのである(著者は指摘していないが)。

それは、憑依や供養がどう発展してきたのかを示唆している。それは「苦しむ死者」を「安らかな死者」に変えるというより、生と死の世界を統合した解釈を提供し、死者に執着して苦しむ生者をこそ救済するためにあったのではないかということだ。憑依や供養といった「死者との個別取引」の回路は、本来はどうにもならない「死」という現実を、事後的に働きかけることによって救済することを可能とし、そしてそのことによって生者にこそ救済を与えたのである。

供養と憑依をキーにして死者と生者との関係性を再考する変わった視点の本。

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2026年5月7日木曜日

『悟りと葬式――弔いはなぜ仏教になったか』大竹 晋 著

仏教による葬式や追善がいかにして始まったか述べる本。

仏教は、本来は個人の悟りを求めるものであったが、徐々に葬祭や追善を担うようになった。つまり死者のためのものになっていった。これは日本だけでなく東アジアに広く見られる。

ではそれはどのようにして、なぜ始まったのか。本書は極めて広い視野で経典を渉猟し、その次第を明らかにしている。具体的には、スリランカや東南アジアに現存している上座部のパーリ語三蔵、インド本土に展開していた説一切有部の漢訳・蔵訳の三蔵、そして大乗仏教の諸文献を動員し、布施・葬式・戒名・慰霊・追善・起塔についてその始まりを述べる。

なお、本書では出家者と在家者を明確に区別して扱っている。日本の場合は在俗出家があったためこの区別はあまり意味がなくなったが、元来の仏教ではこの区別は重要だ。

「第1章 布施の始まり」では、布施を成り立たせている論理が述べられる。

仏教の元来の目標は、煩悩を断ち切って輪廻から脱することにある。では在家者が出家者に布施という贈与を行うのは、この目標にどのように位置づけられるのか。

出家者が出家するのは、煩悩を断ち切るためである。では在家者はどうか。在家者は、煩悩を断ち切ることはできないが、来世ではせめて善趣(天・人間)に生まれたいと願う。そこでインドでは出家者に布施をするという副徳を積むことによって善趣への転生が図られるようになった。この背景には聖者崇拝がある。なぜ聖者に布施を与えることが「大きな果/報酬(←本書に頻出する用語。ここでは善趣への転生を表す)」となるのか。その理由は経典には述べられていないが、聖者への帰依そのものが重要であったようだ。つまり布施は「決して、出家者が在家者に提供してくれるサービスに対する代価ではない(p.30)」。しかし後に、葬式、戒名、慰霊、追善、起塔を出家者が提供するようになり、布施がそれらに対する代価としての性格を持つようになった。

「第2章 葬式の始まり」では、仏教が葬式を担うようになった次第を4つのケースに分けて論じている。

4つとは、(1)出家者が出家者の葬式を行う、(2)在家者が出家者の葬式を行う、(3)出家者が在家者の葬式を行う、(4)在家者が出家者に布施を与えて引導させて在家者の葬式を行う、である。

(1)出家者が出家者の葬式を行う

インドでは元来、出家者の遺体は路傍に捨てられていたらしく、『摩訶僧祇律』には「捨て去るべき」と規定されてさえいる。だが在家者の遺体は捨てられておらず、出家者の遺体遺棄は在家者から白い目で見られていたと考えられる。そこで在家者との軋轢を避けるため、出家者は仲間の遺体を葬るようになった。

中国では出家者の遺体は遺棄されていなかったと考えられ、唐代の道宣は「法王(ブッダ)と転輪聖王(帝王)とはともに火葬による(p.40)」と指示している(『続高僧伝』)。通常の出家者は林葬によったらしい。また北宋では禅宗が広まり、その教団運営規則「清規」で出家者の葬送法が規定された。

日本では平安時代以前は土葬が行われていたが、平安時代では穢の思想から死体遺棄が行われた。しかし出家者の遺体は火葬されるようになっていった。

(2)在家者が出家者の葬式を行う

インドでは、亡き出家者が阿羅漢である場合に在家者が出家者の葬式を行うようになった。『ディーガ・ニカーヤ』大般涅槃経では如来と転輪聖王を葬式することが述べられている。スリランカを訪れた法顕も阿羅漢の死者を在家者の国王が行ったことを報告している(『高僧法顕伝』)。またその際、四つ辻に塔を建てることも行われたらしく(『根本説一切有部毘奈耶雑事』)、遺体供養とは葬式と起塔とを含む概念であった。

南方(スリランカ)では、出家者は自らが聖者であると主張することが律によって禁じられていた。よって亡き出家者が聖者かどうかはわからなかったが、周囲の人によって聖者であると目される場合は葬式が行われるようになった。

中国でも同様であるが、これはインドや南方からの影響ではないらしい。中国では在家者と出家者がともに葬式を行ったと思われる。智顗の葬儀の場合は出家者と在家者が遺言に基づいて彼の遺体を龕に納めて墳墓に保存した。

日本では、在家者が出家者の葬式を行うことはほとんど考えられなかった。そもそも日本では聖者と目されるような出家者はあまり現れなかった。

(3)出家者が在家者の葬式を行う

インドでは、亡き在家者が阿羅漢である場合に出家者がその葬式を行うことが説一切有部において考え出された。しかし阿羅漢でない場合は葬式の対象とならなかった。8世紀には後期密教の『グヒヤサマージャ・タントラ』などに基づき、異生(=凡夫)の場合も出家者が葬式を行うようになった。

中国でも、インドからの影響ではなく、異生の葬式を出家者が行うことが考え出された。その最古の例は5世紀に曇遷が在家者の葬式を行ったものである。唐においては道宣が在家者が父母兄姉の場合に出家者がその葬式を行うことを認めている。

日本でも、中国からの影響ではなく、異生の葬式を出家者が行うことが古代に考え出された。

(4)在家者が出家者に布施を与えて引導させて在家者の葬式を行う

これはインドでは考え出されなかった。インドでは家庭行事において出家者に布施を与えて儀式を行ってもらうことはあったが、引導(亡者を導く)はしなかった。

南方でも同様である。僧侶が葬式に呼ばれても、それは引導のためではなく悪魔を追い払うためだった。

中国では北宋の初めころから在家者の葬式に出家者が訪れるようになったが、これは法語を与えて道理に気づかせることが目的であった。禅宗の出家者は悟り体験によって聖者の力を持っていると見なされており、その力が期待されていたが、これは引導そのものではなかった。

引導が考案されたのは日本においてである。その確実な最古の記録は9世紀の醍醐天皇の葬式である。さらにそれに先立って『都氏文集』には仁寿2年(852)に出家者に呪願させて在家者の葬式をしたと見なせる記録がある。引導は、元来は阿弥陀仏や勢至・観音に亡者を導くことをお願いするものだったが、鎌倉時代に禅宗が伝来すると、掩土や下火にあたって亡者に法語を与えることがそのまま引導であると考えられるようになり、そうした儀式は多宗派も模倣した。

「第3章 戒名の始まり」では、戒名が与えられるようになった次第を2つのケースに分けて論じている。

2つとは、(1)出家者が戒を授ける時、(2)出家者が亡者に戒を授ける時である。

(1)出家者が戒を授ける時

インドでは、戒名は考え出されなかった。仏典では十代弟子は氏族名や本名で呼ばれており、あだ名でよばれていた出家者も記録されている。所属部不明の『増一阿含経』ではブッダが比丘たちに本名で呼ぶことを禁止しており、後になって出家者が改名することも見られたが、授戒の際に名前が付けられたのではない。

授戒の際に名前を与えることが考案されたのは中国である。中国では北朝において出現した『梵網経』(5世紀)に基づいて、南朝で菩薩戒を授ける時に菩薩名を与えることが考えられるようになり、これが隋へと受け継がれた。これは、成人の時に字(通称)を与える習俗が応用されたとみられる。しかし唐以降は、菩薩名は廃れていった。

日本では、中国の習慣を引き継いで『梵網経』による在家者の授戒に菩薩名を付けることが行われたが、平安時代以降はほとんど行われなくなった。そして、室町時代に瑩山紹瑾の門流が『菩薩戒』の菩薩戒と菩薩名を与えてそれが広まり、遅くとも15世紀には在家者向けの授戒会が開かれて名を与えられたことが確認できる。

※在家者への菩薩戒の授戒のみの話で、出家者の場合は別に考慮が必要。

(2)出家者が亡者に戒を授ける時

出家者が亡者に戒を授けることはインドではなかった。亡者へ戒を授けることはタイ、チベット、日本に特有である。南方では死者の魂が付近に留まっていると思われていたため、出家者は在家者の要望に応えていたようだ。

亡者に戒名を授けることは日本で考え出された。臨終出家の最古の例は淳和天皇ないし仁名天皇で、臨終出家でも戒名は与えられた。死後出家の最古の例は九条兼実の息子、良通であ(1188)、死後出家でも戒名は与えられた。臨終出家や死後出家は出家としては多分に形式的であるが、出家者は速やかに涅槃にいけるという聖者崇拝がその背景にあった。浄土真宗や日蓮宗では、出家しなくてもすぐさま浄土へ転生して仏になるとされていたものの、やはり亡者に戒名を与えていた。

「戒名」は日本において生まれた言葉で、元来は法諱・法名・法号と呼ばれていたが、江戸時代に使われるようになった。戒を授けることと同時に与えられるためにこのような名称になったと思われる。そして、死後出家の際に与えられる名として戒名という言葉が生まれた(つまり戒名は「死後戒名」であった)と考えられるが、生前に与えられる法諱・法名・法号も江戸時代に戒名と呼ばれるようになっている。死後出家・死後戒名は江戸時代以前からあったが、これが一般化したのは『宗門檀那請合之掟』の影響であるとしている。

さらに日本では、鎌倉時代に位牌が宋から伝えられると、位牌に院号・位号(居士など)・置字(霊位など)を使ってランク付けされることが行われた。なお中国では位牌は出家者のためのもので、在家者には「神主(しんしゅ)」が用いられたが、日本では出家者・在家者ともに用いられた。

なお位牌において戒名にランク付けが行われたことは真言宗の頼勢により『引導能印鈔』(1669)で批判されている。ちなみに「居士」が元来寺院のスポンサーを表す言葉であるように、位号などは生前の身分によって付けられた。しかし本来は出家すれば在家時の身分は無関係になる。よって死後戒名に院号や位号をつけることは、亡者を在家者のままに留めることとなるから「矛盾している(p.118)」と著者は批判している。

「第4章 慰霊の始まり」では、慰霊という概念を整理し、5つのケースに分けて論じている。

まず慰霊とは、「すでに悪趣へ転生している亡者に布施を供えること、あるいはさらに善趣へ転生させること(p.121)」と定義している。5つのケースとは、(1)在家者が亡者に布施を供える、(2)在家者が出家者に布施を与えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる、(3)在家者が出家者に布施を与えて亡者を悪趣から善趣へ転生させる、(4)出家者/在家者が布施に呪文を唱えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる、(5)出家者/在家者が亡者に呪文を唱えて悪趣から善趣に転生させる、である。一見してわかりにくいが、布施を与える対象が亡者なのか、出家者なのか、そして亡者の転生先が餓鬼道であるかどうかがポイントとなる。

(1)在家者が亡者に布施を供える

インドでは、亡者にお供えものをするという土着習俗があった。仏教ではそれを取り入れ、餓鬼道に転生している亡者にお供えをすることで餓鬼道での飲食物が提供できると理論化した。

(2)在家者が出家者に布施を与えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる

インドでは前項の習慣が発展し、餓鬼に布施を与えることで善趣へ転生させることができると考えられるようになった。上座部の『ペータヴァットゥ』では、餓鬼に布施を与えるという慈悲によって与えた人はやがて善趣に転生し、餓鬼自身もただちに善趣へ転生するらしきことが書いてある。これは聖者崇拝がその基盤にあると考えられる。

(3)在家者が出家者に布施を与えて亡者を悪趣から善趣へ転生させる

さらにインドでは、餓鬼道以外の悪趣(地獄趣、畜生趣)にある亡者も出家者への布施で善趣へ転生させられると考えられるようになった。『盂蘭盆経』にそのことが述べられている。布施の対象は、仏・独覚・声聞・十地の菩薩であり、亡者や施主が善趣へ転生できる理由も、聖者が「定」に入ることの利益であるとされる。なお同経は以前中国で作成された偽経であるとされていたが、近年は偽経ではないと考えられている。

中国では『盂蘭盆経』に基づいて、出家者に布施を与える盆が使われるとともに、亡者の慰霊を行う中元節が成立した。

日本では古代に盂蘭盆会が伝わり、7月15日に出家者に布施を与えていたが、これがやがて亡者へ布施(供物)を与えるように変化して「お盆」となった。

(4)出家者/在家者が布施に呪文を唱えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる

だんだんややこしくなってきたが、ここのポイントは「呪文を唱えて」という要素である。これもインドにおいて土着習俗に基づいて考え出された。7世紀頃の初期密教(『救抜焔口餓鬼陀羅尼経』)ではこのような考えが生まれていた。筆者は指摘していないが、呪文が登場したのは、聖者の存在感が弱まってきたことを感じさせる。聖者が定に入る功徳によって善趣へ転生するという考えのリアリティが低下し、呪文の効果だとした方が人々に受け入れられるようになったのではなかろうか。

中国では『救抜~経』が伝わり、餓鬼道のみならず悪趣から善趣への転生が可能と考えられるようになって、そのためのマニュアル(『施諸餓鬼飲食儀軌』、『施諸餓鬼飲食及水法幷手印』、『瑜伽集要焔口施食儀』など)が数多く作られた。中国では悪趣にいる亡者を呪文によって善趣へ転生させる需要が大きかったのではないかと感じさせる。

日本でも中国から『救抜~経』が伝わり、同様の考えとなった。

(5)出家者/在家者が亡者に呪文を唱えて悪趣から善趣に転生させる

これもインドで考え出され、7世紀頃の初期密教に属する『仏頂尊勝陀羅尼経』において説かれた。また『不空羂索神変真言経』でも光明真言などの呪文が善趣への転生に有効だとされている。

前出の経典が中国に伝わると、呪文によって亡者を善趣に転生させることが行われるようになったが、本書に掲載された事例は全て葬式の際に呪文を唱えるものである。明確ではないが、こちらは葬式の儀式として広まったため、広く亡者の慰霊という意味では布施を行う(4)の方が主流となったようである。

日本でも前出の経典が伝わって同様の展開となり、特に葬式の際の土砂加持が普及した(明恵が普及に力を入れた)。呪文(真言・陀羅尼)に力があるならば、わざわざ出家者に布施を行って呪文を唱えてもらう必要はなく、在家者が呪文を唱えれば十分ということになるが、江戸時代の臨済宗の悟り体験者たち(至道無難、盤珪永琢)はその見解に否定的だった。つまり呪文は出家者(聖者)が唱えてこそ意味があると思われていたようだ。

「第5章 追善の始まり」では、2つのケースに分けて追善の始まりについて考察している。

まず追善とは、亡者が未だどこへも転生していない間(通常49日間)の間に、亡者に善を追加してやることで、通常は「出家者に布施を行うという副徳を亡者に振り向ける」という形で行われる。2つのケースとは(1)在家者が出家者に布施を与えて追善を行う、(2)在家者が出家者に布施を与えて追善に類することを行う、である。

(1)在家者が出家者に布施を与えて追善を行う

インドにおいては、慰霊は行われたが、追善は行われていない。つまりすでに悪趣に転生した亡者を善趣へ転生させることは可能であったが、未だどこへも転生していない亡者を何らかの儀式によって善趣へ転生させることはできないと考えられていた。そもそもインドの大部分の部派では中有(中陰)を認めず、転生は速やかに行われると考えられていた。説一切有部と唯識派では中有を認めており、その期間は49日間であるとすることが多い。しかし説一切有部と唯識派でも他者による追善は考えられていない。

追善が考え出されたのは中国である。中国では『梵網経』により三七日、七七日の追善が行われるようになった。具体的には経典の読誦・講説・斎会(出家者に食事を与える)である。追善は『梵網経』の後にも継承されるとともに、七日おき(累七)に追善を行うという習俗が確立した。そして本来の追善は中有の間だけに意味があるが、儒教の祖先祭祀の習俗に影響されて「百日、小祥(一年の喪の終わり)、大祥(三年の喪の終わり)」も仏事として行われるようになった。

日本でも持統天皇の七七日の斎会を嚆矢として追善が行われ、聖武天皇では一周忌が行われている。鎌倉時代には三十三回忌まで含めた十三仏事が成立した。室町時代には、十三仏事でなく、十三年の間毎年年忌の斎会が行われることもあった。

(2)在家者が出家者に布施を与えて追善に類することを行う

ここでは南方の事例のみが述べられている。南方は上座部圏なので先述のとおり中有を認めず理論的に追善はありえない。ところがタイやベトナムでは死後七日目に「七日供養」と呼ばれる事実上追善と同様のことが理論的な裏付けなく行われている。

「第5章 起塔の始まり」では、3つのケースに分けて起塔(塔を建てること)の始まりを論じている。

3つとは(1)出家者が出家者の塔を起てる、(2)在家者が出家者の塔を起てる、(3)在家者が在家者の塔を起てる、の3つである。なお、ここでいう起塔は、一般的に塔を建立することではなく、誰かのために(墓としての)塔を建立することを意味している。

(1)出家者が出家者の塔を起てる

墓標としての塔を起てることはインドで考え出された。上座部の『ディーガ・ニカーヤ』大般涅槃経では、ブッダは如来・独覚・声聞・転輪聖王は塔に値すると述べている。それは、塔を見て心が浄らかになり、それによって天界に転生するからだという。ここで転輪聖王も含まれているのが注目される。このように元来は塔に値するのは悟りを開いた人に限られていたが、悟りを開いていない人にもそれは徐々に拡大された。

説一切有部のヴィマラークシャ(4-5世紀)の聞き書き『五百問事』には、「その遺骨を収めて亡者のために俱攞(くら)と呼ばれる塔を作ることがある。形は小塔のようであり、上に相輪がない」とある。「俱攞」とはkula(塚)の音写であるという。後期密教の実践マニュアルでも同様の記載がある。この時期には塔の建立は異生まで拡大されている。

異生の出家者の塔を特に望んだのは、比丘尼であったらしい。しかし元来は聖者の記念碑的なものであった塔を異生にまで起てることには比丘からは抵抗があったようだ。「比丘尼が出家者の塔を起てては感傷に浸り、比丘とのあいだで問題が起こったことはいくつかの部派に共通して伝えられている(p.193)」。

中国においてはインドとは独立に出家者が出家者(異生含む)の塔を起てることが東晋の半ばまでに自然に考え出され、唐にも受け継がれた。『禅苑清規』では夭折の出家者は火葬した遺骨を普同塔(共用の塔)に、高徳の出家者は遺体を結跏趺坐させたまま龕に納めて塔の地下に入れることが記されている。高徳の出家者の場合の塔はかなり大きいことが予想される。

日本では、なかなか起塔の習慣は生まれなかった。平安時代には出家者の廟を建てることは行われており、比叡山には最澄の廟があった。円仁は「比叡山には最澄の他に廟を造るな」と遺言していたが円仁の廟も比叡山に造られ、後にその廟の前に法華経を安置した塔も起てられた。しかしこれはあくまで法華経を安置する塔であって墓塔ではない。良源は天禄3年(972)に、自らの墳墓の上に真言を安置した塔を起てるよう遺言した。これは墓標の性格が強いが、それでも真言のための塔である。出家者が出家者の塔を起てるようになったのは、鎌倉時代に禅宗によって中国から伝わってからと考えられる。

(2)在家者が出家者の塔を起てる

亡き出家者のための塔を在家者が起てることはインドで考え出された。これはブッダが在家者に起塔の作業を任せたためとも考えられる。『根本説一切有部毘奈耶雑事』には、「阿羅漢の塔は相輪が四重」などその形態についての規定も見える。なお、聖者の遺骨に供養(布施)を行うことでその福徳によって天界への転生や般涅槃すると考えられていたが、これには異論もあったとのことである。

南方での状況は複雑であるが、基本的にはインドでの起塔が継承された。

中国でも、亡き出家者が聖者である場合は在家者によってその塔が起てられるようになった。南朝の劉宋にいたインド人出家者グナヴァルマン(求那跋摩)が亡くなった時は、出家者と在家者がともに「白塔」を起てている。智顗の場合も遺言に「二つの白塔を起て、見る人に菩提心を発させよ」とあり、「白塔」が起てられた(円珍はその墳墓を見ている)。起塔は亡き出家者が聖者である場合が中心で、聖者の記念碑的な性格が強かったようにも思われる。それにしても「白塔」とは何だろうか。

日本の場合は、在家者が出家者の塔を起てることはほとんどなかった。

(3)在家者が在家者の塔を起てる

インドでは、一般的ではなかったが土俗習俗に基づいて在家者が在家者の塔を起てることがあった。ただし本書にある事例は貴族の場合のみであるため、「土俗習俗」というよりは、記念碑的なものであった可能性もあると思った。

南方では在家者の塔は起てられていない。

中国では、唐において在家者の塔が起てられるようになり、北宋においてまとめられたとされる『臨終方訣』では在家者の葬式について窣堵波(ストゥーパ)の中に安置するという葬法が述べられている。

日本では、在家者の墳墓の上に呪文(陀羅尼)を安置した塔が起てられるようになった。文献上最古の事例は仁明天皇で、平安時代には天皇の陵の上に塔を起てることが行われた。醍醐天皇、御一条天皇、堀河天皇などである。在家者が在家者の墓として、五輪塔や宝篋印塔などの塔を起てるようになったのは鎌倉時代で、これらは「従来、日本において始まったと考えられていたが、近年、北宋の時代の中国において始まって、日本へ伝わったと考えられるようになっている(p.221)(石田尚豊、吉川功)」。ただし塔に遺骨を納入することは日本で始まったらしい。

「結章 葬式仏教の将来」では、これまでを総括し、仏教が葬式のためのものになったのはなぜなのかまとめている。

その結論は、「在家者が聖者崇拝を背景としてそれを願い、出家者が土俗習俗を背景としてそれに応えたから(p.226)」である。布施・葬式・戒名・慰霊・追善・起塔は、いずれも在家者が聖者を慕う気持ちを具現化したことが契機となっているのである。

とすれば、現在の日本において葬式仏教が衰退しつつあるのは、出家者が世俗化したことによって聖者を慕う気持ちがなくなっていることも一因であると考えられる。一般的には、葬式仏教の衰退は「家」の分解という社会経済的な側面から語られがちだが、著者は出家者の質がその本質にあると見る。本書に述べられる明治期の高徳な僧侶・西山禾山が執り行う葬式は、「確かにこういう人に葬式をしてもらえるなら、今の人も葬式をしたいと思うかもしれない」と思わせるものである。

そして、「出家者の悟りのための宗教と、在家者の葬式のための宗教とはまったく矛盾しない(p.232)」と著者は考え、むしろ高徳な出家者の出現こそ葬式仏教の復興に必要だと考えている。

「付録 『浄飯王般涅槃経』の真偽をめぐって」では、現代の日本で出家者が在家者の葬式を行ってよいという根拠として使われてきた同経について述べている。同経は中国の南北朝時代に流通したものである。本書では同経の全訳を掲載し、その文言を先行する経典(『大智度論』など)と比較することで、「中国において、ブッダもまた父の葬式を行った孝子であることを主張するために作られた、偽経であると考えらえる(p.256)」と結論づけている。

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本書は、インド・南方・中国・日本を横断して葬式仏教の来歴を語るものであるため一つ一つの項目は簡潔であるが、同時に緻密でもある。葬式仏教というと、日本の仏教の特質の一つとして捉えられがちで、その来歴も日本で完結する形で考察されることが多い。ところが本書では、仏教発祥・伝来の地ではそれぞれ仏教が葬式を担うようになった次第が述べられており、蒙を啓かれた思いである。ただし、それはインド、中国、日本と伝わってきたのではなく、断絶も見られる。特に中国は、インドから葬式仏教が伝わったというよりは、独自に葬式仏教が発展したという性格が強い。日本の葬式仏教は中国から伝わった部分も多いだけにこの点は注意が必要だと思った。

また、著者は葬式仏教の基盤には聖者崇拝があると述べるが、これはインド・南方・中国・日本を横断して概括的に言えるとしても、日本の状況にぴったりあてはまるとは限らない。というのは、葬式仏教として最も成功した宗派である浄土真宗を考えてみると、親鸞その人が「非僧非俗」を標榜し、浄土真宗では今でも「同朋」(宗教指導者と一般信徒、というのではなく門徒はみな平等、というような意味を含む)という言葉が使われるように、浄土真宗の葬式は必ずしも高徳な僧侶のありがたさで広まったわけではない。葬式仏教の創始は聖者崇拝によったとしても、それが広まった要因はまた別に考察する必要がある。

なお葬式や起塔の対象に、インドにおいてすでに「転輪聖王」が含まれていたことは気になった。転輪聖王とは仏教的な理想の帝王であるが、実際には現実の統治者にも適用された。つまり葬式仏教の対象に転輪聖王を含めたことは、仏教が世俗的統治者と融和的な姿勢にあったことを示唆する。日本の中世では王法仏法が相即不離であるとされたが、これは決して日本社会の特質ではないのである。葬式仏教について考察する上でも、日本の歴史だけを考えるのではなく、東アジアへも目を向けて共通の土台に基づいて考察することが非常に重要だと痛感した。

葬式仏教の来歴をかつてない視野で解明した労作。

【関連書籍の読書メモ】
『葬式仏教』圭室 諦成 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html
仏教が葬式を担うようになった次第を述べる本。葬式仏教論の嚆矢である名著。

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