2026年9月28日月曜日

伊藤 七日 著『前夜 of きいろいおうち浮遊記』・『沖縄移住記 果報(かふー)を探して 8 years』

北海道から沖縄に移住した女性が、車一つでZINEを売る旅に出るまでの記録。

通常、この読書メモは一記事に1冊だけだが、今回は2冊取り上げる。『前夜 of きいろいおうち浮遊記』と『沖縄移住記 果報(かふー)を探して 8 years』の2冊である。これらは内容的に関連しているし、その方が書きやすい。

さて、この2冊の本は、先日ひょんなことから出会った女性から直接もらったものと買ったものである。『前夜〜』はフリーペーパーで、『沖縄移住記』は本なのだが、どちらもこの女性の日記的エッセイである。そして現実の時間は『沖縄移住記』→『前夜〜』だが、このメモでは私が読んだ順に『前夜〜』から書く。

この女性は、車中泊して本を売りながら西日本を旅するという。

一応、西日本各地で開催されるZINEフェスでZINEを売るということを目的にしているが、本当の目的は「自分でいられる方法を探すこと」だ。この『前夜 of きいろいおうち浮遊記』は、この旅に出る直前までの心の動きが書いてある。 

彼女は北海道から沖縄に移住して暮らしていた。しかし仕事に追いまくられ、四六時中頭から仕事のことが離れなくなり鬱一歩手前になる。

そして仕事を辞め、本を売る車中泊ツアーに出ることを決心する。彼女は35歳。「35歳で、沖縄ではそこまで悪くない待遇の仕事を捨てて、やりたいことを追いかけてまた放浪の身になろうだなんて、多くの人にとってドン引きだって、わかってる(p.3)」と自ら言う。

35歳でこんなことをやるなんて遅すぎる、といいながら、彼女はこの思いつきを実現することに邁進する。このあたりは読んでいて引き込まれる。この無鉄砲な車中泊ツアーを計画しているのが20代の若者なら、きっとこのZINEはワクワクする計画を練る楽しい文面になっただろう。しかし彼女は、自らの思いつきを肯定しながらも、自分がどうしようもない行き止まりに向かっているのではないかという客観的な視点が頭のどこかにある。つまり、彼女は考えなしに無鉄砲な冒険をするほど若くなく、世の中というものを知っている。にもかかわらず、彼女はその不確かな旅の終わりに期待することしかできない。

もちろん、このZINEはそういう悲愴な内容ではない。むしろ彼女は新しい世界へ踏み出すことに高揚している。それに鬱になりかけながら仕事を続けるより、そこから逃避する方がよほどマシなのは確かだ。自分が壊れてしまったら何の意味もない。だが何にせよ、ただ楽しいだけの旅の前夜なのではなく、ほんとうはやるべきでないかもしれない、いや、やらない方がいいのはわかっているが、それでもやってみたい、という思いがこの前夜記の読後感を複雑にしている。

『沖縄移住記 果報(かふー)を探して 8 years』は、『あさひかわ新聞』に月イチで連載したものをまとめ加筆修正したもので、彼女が沖縄に移住してからの8年間の記録である。

詳しくは書かれていないが、彼女は大きな悲しみを抱えて北海道から沖縄に来たらしい。それは新天地を求めての楽しい移住ではなかったように思うが、彼女自身は「お気楽な移住」だと言う。

しかし彼女の生活はお気楽ではない。彼女は転々と仕事と居住地を変える。それは、ある程度の安定が訪れようとすると、自ら「これではいけない」とその場所から移動してしまうという性分があるからのようだ。まるで積み木遊びを永遠に続けてしまう子どものように、彼女は積んで崩してを繰り返す。

一方で、彼女は「地に足がついた暮らし」にも憧れる。というより、単に放浪が好きなのではなく、「地に足がついた暮らし」に憧れながら、彼女はそういう生き方が出来ないから面白い。もし放浪が好きなだけの人だったら、こういう文章にはならない。

彼女は、まるで泳ぎ続けなければ死んでしまう魚のように進歩や向上を求め、新しい考えや世界の見方を吸収する。もちろんそれ自体は素晴らしい。だが傍目には、彼女は癒しがたい飢えを抱えているようにも見える。彼女はどんなに素晴らしいものを手にしても、そこに安住することを拒否する。

途中、コロナ禍で釣りに没頭するところがある。

ここは、大昔に読んだヘミングウェイを思い起こさせた。ヘミングウェイには『老人と海』(これは釣り文学の傑作だ)だけでなく、多くの釣り文学がある。それはただ狙った獲物を釣り上げるだけでなく、釣りに託して人生を語るものだ。だがヘミングウェイにとって釣りは本気で取り組むゲームではあったが、であるからこそ比較的気楽なものだったと思う。しかし彼女にとって釣りは、ゲーム的なものであったようには思えない。大げさに言えば彼女は「生きている実感」を求めて釣りをしていたのではないか。

『前夜〜』では、私は彼女のことを単純に現代の生活(特に仕事!)に疲れた人と思い、そこから逃避するために車中泊ツアーをするのかと思っていた。しかし本書を読んでみると、彼女にはそれ以上の陰翳がある。

だいたい、『前夜〜』では35歳でこんなことをやるなんて遅すぎる、と自嘲していたが、20代の頃の彼女もどんどん新しい場所に飛び込んで冒険している。もう20代でやりつくしたではないか、と傍観者としては思う。しかし彼女はそれでも満足できない。きっと一生満足できないような気がする。しかもそんな自分を一段高いところから眺めて、「やれやれ」と思う客観性を彼女は持ち合わせている。このメタ性が、はっきりとは書いていないが文章の端々にある。それがこのエッセイを極めて立体的なものにしている。

しかも「やれやれ」と思いながらも、彼女はいつも自分を肯定する。というより、一生付き合っていかないといけない存在(=自分)を嫌いになってもしょうがない。ならば好きになろう、というような覚悟がある。だから癒しがたい飢えを抱えながら、それを肯定し、むしろいつまでも貪欲であり続けたい、と自己規定する。彼女はとても前向きだ。しかしそれすらも、どこか「自分に言い聞かせているような感じ」を仄かに残す。この多重性が本書の大きな魅力である。 

ちなみに、彼女はとても文章が上手い。最近読んだZINEの中では一番上手いと思った。本書には空白期(2023年5月〜9月)があり、それは別の本『くるま旅日記!』にまとめてあるという。こちらも買っておけばよかったと後悔した。

2026年9月21日月曜日

星野元豊・石田充之・家永三郎校注『親鸞(日本思想大系11)』

親鸞の主著『教行信証』。

私は数年前『教行信証』を読もうとしたが、その時は準備が足りないと痛感し、まずは源信『往生要集』、法然『選択本願念仏集』を読んだ。親鸞に繋がる浄土教思想発達の重要な2冊を読んで準備はできたと思い、このたび『教行信証』を開いた。

【参考】『往生要集』の読書メモ
https://www.shokeishuyu.com/2024/10/blog-post_11.html

【参考】『選択本願念仏集』の読書メモ
https://www.shokeishuyu.com/2025/02/blog-post_24.html

しかしながら最初に告白しておくと、私は『教行信証』を5%くらいしか理解できなかった。『往生要集』や『選択本願念仏集』は意外とわかりやすい。特に源信の筆は極めて論理的だ。彼の文章にはまず主張があり、その根拠となる経典論書が引用され、次にそれに対する予想される反論、それへの反駁と続いて、必要に応じて源信自身の疑問や私見が整然と述べられる。さらに源信自身よくわからないということについては正直にそう書いてある。耳慣れない専門用語は大量に使われているが、論理の流れは極めて平明である。法然の場合も、主張、私釈(自身の解釈)、問答などは源信に倣った構成である。

しかし『教行信証』はそうではない。経典論書の引用ばかりが延々と続く箇所があり、親鸞がそれらの引用で何がいいたいのかわからなくなる。かと思うと畳みかけるように親鸞の主張が述べられたりする。そもそも『教行信証』の本当の書名は『顕浄土真実教行証文類』であって、「文類」とは経典や書物の文章を集めたものであるから引用が多いのは当然であるが、『往生要集』や『選択本願念仏集』のような整然とした引用ではなく、いわば研究ノート的な長大な引用が行われ、そこから一種の飛躍によって親鸞の思想が開陳されるという構造になっている。

しかも、親鸞の思想そのものも源信や法然とは異質である。源信や法然は、「どうすれば往生できるのか(浄土へ往けるのか)」ということについて考究した。大雑把に言えば、源信は「観想念仏を行うことが必要だが大事なのは信じる心」、法然は「称名念仏は下根の人だけでなく全ての人に有効であり、念仏以外の行は捨てるべき」といったことが主要な主張だ。彼らは主に念仏の方法論について考究したのである。しかし親鸞は彼らの考えを下敷きにしつつも、「往生するとはそもそも何なのか」「なぜ人は往生できるのか」「往生したら人はどうなるのか」といったことについて考えた。つまり親鸞の思想は多分に思弁神学=スコラ哲学的なのである。こうした考察は、大陸における浄土教の先駆者善導などにも窺え、法然もその思想を受容していた。しかし法然の段階ではそうした形而上学的な疑問よりも、往生の方法論(念仏は有効なのかどうか)がずっと重要であったためそれほど議論されていない。ところが親鸞の頃になると念仏の有効性が確立した(と親鸞は思っていた)ためか、それを支える形而上学的思惟にまで手が届くようになったということなのかもしれない。少なくとも本書からは、形而上学的な思惟を好む人物としての親鸞を強く感じた。

『教行信証』は次の6部構成になっている。
(1)顕浄土真実教文類
(2)顕浄土真実行文類
(3)顕浄土真実信文類
(4)顕浄土真実証文類
(5)顕浄土真仏土文類
(6)顕浄土方便化身土文類(本・末の2部構成)
これらはそれぞれ「教巻」「行巻」「信巻」「証巻」「真仏土巻」「化身土巻」と呼ばれている。なお、書名が『顕浄土真実教行証文類』で「信」を欠いているのは成立の事情が影響しているらしい。

まずこの構成を見て思ったことは親鸞は「真実」にこだわりが強いということである。これは、当時真実でない教えがはびこっていた、ということではなくて、権実(ごんじつ=仮と真)の枠組みの話である。仏教には相互に矛盾するような内容の経典が多い。例えばA経では「誰でも成仏できる」といい、B経では「成仏は難中の難である」といったような具合である。仏教では経典を釈迦の説いた教えとしているが、このように矛盾する主張をどう考えたか。仏教思想家たちは、釈迦の教えは目の前にいる人の理解力(機根)や状況に応じたものだったと考え、多くの教えを「方便」だとした。先の例では、「本当は成仏は難しいが、そうすると多くの人は修行しないので、誰でも成仏できるという教えを方便として説いたのだ」と整理するのである。実際にはもう少し複雑だが(=教相判釈の枠組みも必要)大雑把にいえばこういうことだ。

そして、顕密仏教では念仏を方便と見なしていた。親鸞が生きていた頃の顕密仏教では往生には莫大な作善が必要だと考えられ、また往生は難しいこととされていた。しかしそれでは多くの人が浄土を希求することはない。だから釈迦は方便として念仏の教えを説いたのだと考えたのである。これは自然な解釈である。ところが親鸞はこの見方に真っ向から反対した。親鸞は「釈迦在世中はそうであったかもしれないが、現在は末法の世であり念仏以外の仏法はもはや有効ではなく、むしろ末法では念仏こそ真実の教えなのだ」と考えた。そのうえ念仏の教えにも真と仮があると考え、阿弥陀四十八願のうち第18願を真実と見なした。親鸞は念仏の教えの内部にも権実の腑分けを行ったのである。

(1)教巻

教巻は非常に短い(3ページ)。「教え」については、親鸞に主張すべきことはあまりなかったということなのだろうか。世間一般に流布されていた教えは親鸞から見ても正しいものだったということなのかもしれない。なお、冒頭に「二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり(p.15)」とあるのは著名であるが、親鸞は最初から「還相(げんそう)」つまり往生したものが現世へ還ってきて人々を導くという考えを提示しており、これは『教行信証』全体を通じたテーマとなっている。

(2)行巻

当時、念仏は行(修行)ではないという風潮があったのだろうか。親鸞は「世間の人は~と言っているが本当は…」のような言い方をあまりしない。本巻でもどういう点が当時の社会常識であり、またどの点が親鸞の思想に基づくのかよくわからないのだが、論理展開を見る限り親鸞は「念仏は行であるに他ならない」ことを強く主張している。

ところで私は一部しか読んでいないが、明恵の『摧邪輪』は『教行信証』の成立の有力な契機の一つとされる。明恵は法然没後に『選択本願念仏集』を読み、それを『摧邪輪』で邪説として退けた。ここでの法然批判の中心は「念仏の教えには菩提心(さとりを求める心)がない」ということである。そもそも往生したいというのは、浄土という安楽な世界へ行って永遠の楽しみをむさぼりたいという自利の心である。そこには悟りを得たいという気持ちも、人々に功徳を廻向したいという利他の心もない。様々な仏教的実践の一つとして念仏があるならばよいが、念仏だけすればよいという専修念仏の場合はそうした大乗仏教的実践が何一つないことになる、というのが明恵の批判だったようである。これに対し、親鸞は反論してはおらず、そもそも『摧邪輪』の引用もない。しかし行巻には明恵に応えているようなところがある。

親鸞の主張は、「念仏による往生は、自らが安楽な世界に行きたいということではなく、往生することで悟りを得ることが究極の目的であるのだから、念仏は大乗仏教的な行に他ならない」ということである。もちろんこれは親鸞の独創ではなく、すでに中国浄土教の道綽『安楽集』に「もし人、菩提心の中に念仏三昧を行すれば、一切の煩悩、一切の諸障、ことごとくみな断滅す(p.36)」とある。また往生すればさとりを開けるという考えは源信・法然も持っていた。しかし彼らの場合、往生して阿弥陀仏に近侍することで次第にさとるという考えだったのが、親鸞では念仏をしたその時に正定聚(さとりを得ることが決まっている地位)につき、往生すると即時にさとりを得る(往生即成仏)と考えた。つまり往生と成仏に即応の関係を見、往生を願うこと=さとりを願うことである、と整理したのである。

さらには、往生を願うことそのものが、浄土へ往きたいという自らの意思によるものではなく、阿弥陀仏が人々を救うために名号(称名念仏)を選んだことによる帰結(回向)によるものであるとし、それ自体が仏の行であると考えた。「これ凡聖自力の行にあらず。(中略)みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし(p.53)」と親鸞はいう。この「念仏成仏」は善導の言葉で、普通は念仏は往生のためと思っているが、むしろ仏によって導かれ成仏する(さとりを得る)、というのが真宗なのである。

そして本章の最後には、阿弥陀の誓願(四十八願)についても、「真実の行信あり、また方便の行信あり(p.64)」として権実の枠組みがあることを簡単に触れている。ここでは真実の行の願を「諸仏称名の願=第17願」、真実の信の願を「至心信楽の願=第18願」であるとしており、それ以外を方便と仄めかしている。

さらに本章の末尾には「正信念仏偈」が置かれている。「正信偈」は、真宗では聖典として読誦されるものであるが、私はずっと「正信偈」は『教行信証』の内容を要約したものだと思っていた。ところが思った以上に「正信偈」は唐突に『教行信証』に挿入されており、内容的にも行巻との関連は薄い。「正信偈」では、まず阿弥陀如来に帰依することの素晴らしさを述べた後、七高僧(龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、法然)と呼ばれる中国浄土教からの系譜が讃嘆されるが、特に七高僧については行巻ではまとまった記述はない。どうして「正信偈」を行巻に挿入したのか、親鸞の意図はよくわからない。

(3)信巻

信巻の冒頭には特別に「序」が置かれている。これは信巻が独立して執筆され、後に『教行信証』に編入されたことを示唆しているのかもしれない。そうでなくても信巻には特別な位置づけがあるようである。

この「序」の冒頭、親鸞は「信楽(しんぎょう)を獲得することは如来選択の願心より発起す(p.71)」という。「信じよろこぶという境地に達することは、仏のはからいである」というのである。それなのに「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ふて金剛の真信に昏し(同)」と嘆いている。「定散」とは、浄土を観ずる「定善」と日常的な善行である「散善」を意味する。どちらも、浄土教において行うべき善行とされていたが、親鸞はこれを「自心」すなわち「自らの意思で行うもの」と軽んじ、阿弥陀仏の計らい(他力)である「金剛の真信」こそ重要だとする。しかし法然は『選択本願念仏集』で定散両門の意義を消極的ながらも認め、それによる往生を否定はしていない。ところが親鸞はこれを一歩進め、定散両門は「迷い」であるとしている。一般的には、自らの意思で行う善行の方がよいに決まっているが、親鸞はこれを顚倒させ、仏のはからいに任せる方が尊く、むしろ自らの意思などは低次元のものだとしている。

本文に入ると、特に信巻は難解に感じる。議論の要諦が私には見えてこない。そしてこのあたりから、親鸞独自の訓読が頻出するようになる。よく知られる通り、親鸞は経典論書の引用にあたり、無理としかいいようがない訓読を行った。原典の意味を自らの主張に引き寄せて引用したのであり、ある意味では改変に近い行為である。どのような引き寄せを行ったのかというと、大雑把に言えば「〜すべき」という文を「仏が我々に〜させている」とか「仏が〜した」と読み替えた。

ところで「信」の問題は、源信以降大きくクローズアップされている。源信は「行」とともに「信」が重要だと考え、『往生要集』では心の在り方が往生には重要であると(特に後半になるほど)力説している。『観無量寿経』でも、往生には①至誠心(しじょうしん)、②深心、③廻向発願心の3つを備えなければならないとされ、法然は『選択本願念仏集』で特に②を「深信の心」であるとし、「疑ひなく」「一心にただ仏語を信じ」ることが重要だと強調した。また③廻向発願心については、善根を積み重ね、それを「皆真実の深信の心の中に廻向して」往生を願うことだといい、有名な「二河白道の譬え」でも、周囲の人々の「そんな危険な道をゆくのはやめろ」という声に惑わされず進む(信じる)ことが重要だとしている。

しかし親鸞はこういった「信」の在り方を根底からひっくり返す。親鸞はこれまでの「信」をめぐる議論を表立っては否定せず(というより、親鸞は法然の教えを忠実に継承していると自認していた)、これまでの論説を確認するように引用している。「二河白道の譬え」は引用でなく親鸞独自の説明で述べ、法然の譬えをじっくり確認している。しかし、先述のとおりこのあたりでは引用の訓読が微妙に改変され、徐々に論述が親鸞の思想へカーブしていくような感覚がある。源信・法然の段階では、「行」はもちろん大事だがそれに「信」が伴うことが必要、という感じだったのが、親鸞は「信」のみに価値を置く。例えば「涅槃の真因はただ信心を以てす(p.84)」という。ただし親鸞の認識は「信」も「行」も阿弥陀仏から与えられたもので渾然一体ということのようである(このあたりがハッキリとは読み取れなかった)。そして一般的にいう「行」は「雑毒(p.88)」などと斥けられ、むしろ浄土には障りとなると言っている。

そして議論は「信」から「心」に移り、至誠心について「この心則ちこれ不可思議不可称不可説一切大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく(p.87)」という。この心は、私たちの心ではなく、阿弥陀仏の心なのである。我々凡夫の心についての議論がいつのまにか阿弥陀仏の心の話になっている。ちなみに親鸞は「欲生心成就(第18願の文)」を「至心廻向してかの国に生まれむと願ずれば…」ではなく、「至心廻向したまへり。かの国に生まれむと願ずれば…」と読み替える。元の文では「心を至す」のは衆生だが、親鸞では「心を至す」のは如来である。親鸞の場合、常に主体性は仏の方にある。

さらに親鸞は「回向利益他の真実心」について涅槃経を引用し、「(前略)真実と言ふは即ちこれ如来なり、如来は即ちこれ真実なり。真実は即ちこれ虚空なり、虚空は即ちこれ真実なり。真実は即ちこれ仏性なり、仏性は即ちこれ真実なり(p.87)」という。これは引用であるが、このトートロジー的な言説は親鸞らしい部分である。なお親鸞は、源信や法然のように理路整然と論述するのではなく、いわば同じところをぐるぐる回るように論述し、しかもいつも同じような場所にいきつくような感覚がある。その行き着くところの一つが涅槃経であるようだ。ここで「虚空」が入っているところも注目される。親鸞ならずとも当時の仏教思想の根本には「空」の思想がある。「信」にしろ「心」にしろ、あるいは浄土にしろ、究極は「空」であり「無為」であるということは本書全体に仄めかされている。

それはともかく、「至心・信楽・欲生、その言(ことば)、異なりといへども、その意(こころ)これ一つなり。(中略)真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく(p.94)」と述べ、急に「真実の信心は、必ず名号を具す」という。なぜ名号が伴うのか、別の箇所には名号の重要性が述べられるが、ここでは何の説明もない。法然は「名号は易行なるがゆえに庶民でも実践可能だから、如来はこれを選び取った(選択した)」と考え、その考えを親鸞も継承していたから説明が省略されているとも考えられるが、親鸞における名号の意味は法然とは大きく違っている。くり返しになるが、それは凡夫が自力で行う精一杯の行なのではなく、如来によって廻向された結果なのだ。

このように議論が中途半端になっているように見えるが、さらに話題は菩提心についてに移る。菩提心には「竪」と「横」があり、またそれぞれ「 竪超(じゅちょう)・竪出」、「横超(おうちょう)・横出」があるという。細かい議論は省くが、「竪」は顕密仏教による自力の菩提心で、「横出」とは定散両門など念仏の中でも自力の菩提心、そして「横超」が「これ乃ち願力廻向の信楽、これ願作仏心といふ。願作仏心即ちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり(p.95)」という。かみ砕いて言えば、「横超」は阿弥陀仏の廻向によって与えられたもので、それは「仏になるべく願う心」に他ならないから大菩提心なのだ、と親鸞は言う。しかしその論拠はちりばめられた引用からはいまいち明らかでない。しかし親鸞はこのあたりでは緻密に論証するのではなく、「十念」とは何か、「一念」とは何か、など補助的な議論を立て続けにしている。

結局、親鸞のいう「心」とは何なのかが問題だ。善導は観経疏で「この心作仏す。この心これ仏なり、この心の外に異仏ましまさず(p.100)」と述べるが、親鸞はこの言説を引用しながらも、その「心」を巡る言説は堂々巡りをしているような気がする。そして究極のところでは「ただこれ不可思議不可説不可称の信楽なり(p.95)」のように、「人智を超えたものだから議論はできない」と言っている。ただ、源信や法然に比べて、親鸞が「心」について考えに考え抜いていることだけは確かだ。ともかく「念仏の衆生は横超の金剛新を窮むるが故に、臨終の一念の夕べ、大般涅槃を超証す(p.107)」るのである。ちなみに源信は『往生要集』で「臨終の一念は百年の業に勝る」とし、臨終の作法を事細かに述べたが、親鸞は臨終についてはほとんど重視していない。念仏者の往生は臨終を待たずともすでに決まっていて、臨終はそれを「超証」するだけである。

こうした議論の後、親鸞は涅槃経の長大な引用を行う。阿闍世(あじゃせ)王の物語である。この物語の引用は、信巻全体の3分の1にも及ぶ。阿闍世王は、無実の父を殺したことで後悔に苦しみ、ひどい瘡(かさ)が出来てしまう。その苦しみに耐えかねる様子を見て、いろいろな人が訪れて阿闍世王に語りかける。最初は大臣、その次に家臣が次々と訪れる。彼らは、阿闍世王を責めるのではなく、「そんなことを気にする必要はない」と言う。さらに耆婆(ぎば)という当時のインドの名医も登場するが、彼は「悔悟の念を抱いているとは素晴らしい。あなたは教えられずして阿耨多羅三藐三菩提(さとりの心)を得ている」などという。さらには釈迦が登場し、そもそも全ては空であり実体はないのだから、殺人もまた非有であるなどといい、阿闍世は救われる。

この物語が挿入されたのは、悪人は救われるのかどうか、という問題への補助線なのだろう。しかしながらこの物語では、阿闍世王は確かに父を殺したが、彼は大変に後悔しており、その点を多くの人が認め、「そこまで苦しむのならもうあなたの罪は償われた」というような言い方をする。つまり阿闍世は完全な悪人とはいえない。だからこそ救われた。一方親鸞はこの物語を受け、「難化の三機、難治の三病(=五逆・謗法・闡提)は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀(こうあい)して治す(p.129)」という。阿闍世王の物語は、罪を犯しても懺悔・悔恨が重要だというメッセージだと思うが、親鸞は「阿弥陀仏にすがれば救われる」と繋げる。この繋がりがどうもしっくりこない。確かに阿闍世王は仏によって救われた。だが彼の中に救済が内在していたという感じが強いのである。

また、『大無量寿経』には、往生の対象として「唯除五逆誹謗正法(ただし五逆と誹謗正法を除く)」とあり、五逆や謗法は救済の対象から除かれている。しかし親鸞は経典を引きつつ、五逆(父殺し・母殺しなどの殺人罪等)は往生できると述べる一方で、誹謗正法は重罪であり往生は不可能だとする。かと思えば、「ただ如来それこの二つの過(とが)を造らむを恐れて、方便して止めて往生を得ずと言(のたま)へり。またこれに摂せざるにはあらざるなり(p.134)」といい、五逆・謗法を除くのは方便だという。親鸞は、五逆・謗法も救われてしかるべきだと考えているが、経典論書の引用では答えが出ていないようだ。一般的には五逆・謗法など往生できなくても仕方がないと考えられていたはずだが(なにしろ、普通の人にとっても往生は不確かだったのだから)、親鸞はここで全ての人を包摂しようと格闘しているように見える。

(4)証巻

冒頭、親鸞は真実の「証」について「これ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり(p.139)」という。これはすでに語られてきたとおり、浄土に至るということが「無上涅槃」すなわちさとりそのものであるという宣言である。そしてさとりを得た往生人は、還相回向して人々を救うのである。

ここで興味深いのは、還相回向とは一体どのような存在として人々の前に現れるのかということだ。我々は往生人を仏に準じる存在としてイメージしているが、親鸞の還相回向はそういうものではないらしい。親鸞は「もし人、ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に三界に生まれて衆生を教化せむと願じて、浄土の命を捨てて願に随ふて生を得て、三界雑生の火の中に生まるといへども、無上菩提の種子、畢竟じて朽ちず(p.141)」という。つまり、還相回向といっても、仏のようになった往生人が蓮台に載って救いにやってくる、というより、浄土の命を捨て現世へ生まれ変わって、また人生をやり直すというイメージが近い。しかしそれでも無上菩提(さとり)の種は失われていない、という。この親鸞の考えは経典論書に基づかないもののようだが、極めて興味深い。

親鸞は形而上学的思考を好んでいるが、怪力乱心を語らない。超自然現象などを信じないのである。親鸞はあくまで現世的・即物的に見える。還相回向といっても、それは生まれ変わりという即物的現象に依拠している。こういった、ある意味では科学的な発想をした人は親鸞以前にはいなかったのではないだろうか。例えば曇鸞は『往生論註』で「還相とは(中略)生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かへしむるなり(p.143)」というが、具体的なイメージが不明だ。

親鸞は、往生したらどうなるのか、というイメージを追求していく。当時の人は往生すればきらびやかな世界にゆくと思っていた。現代でも「浄土に行けばその人にとって一番よかった時代の姿になれる」などという俗説がある。確かに死ぬ間際の弱った姿で浄土へ行ってもあまり楽しそうでない。ところがこういう安易なイメージを親鸞は採用しない。僧肇の「法身は像(かたち)なくして形を殊にす(p.148)」を引用し、「法身の世界」について考察する。その議論を約すれば、法身(さとりの身)は具体的な姿を持たない究極の真実だ、ということだ。であるから現世で法身を認識することは不可能で、あくまでも応身(仏が人々と救うためにその資質や能力に応じて現れた姿)しか認識はできない。往生人、すなわち無上菩提を得た人も同じで、この真実の世界に赴くために具体的な形象を持たないということになる。これを親鸞は「清浄法身(p.151)」といっている。

しかしながら、具体的な形象を持たないというと、全く人間のイメージから隔絶しているし、では我々が拝んでいる阿弥陀仏とか薬師如来とかいう仏像の意味は何なのだということになる。ここで親鸞は「諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。(中略)この二の法身は異にして分かつべからず(p.149)」という。つまり仏像の姿は「方便法身」であって、これも法身であるが、方便として姿を現したのだという。こういう理念操作が親鸞の面白いところである。

ここでは方便と真実が一体であるとしているものの、親鸞が真実をより重要視しているのは言うまでもない。浄土の有様もこれと全く同じである。道俗の人は浄土を安楽な世界だと思っているが、実はそうではないという。それどころか「ただかの国土の受楽無間なるを聞きて、楽のための故に生まれむと願ずるは、またまさに往生を得ざるべきなり(p.152)」と親鸞はいう。そもそも往生を願うことは如来の廻向、全くの他力によるのではなかったのか、と言いたくなるが、浄土の安楽に惹かれて往生を願うのではダメだと親鸞はにべもない。むしろ「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すが故に(同)」往生を願わなくてはならない。何か先の議論と違う感じがする。そして親鸞は「かの仏国は即ちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり(p.152)」と、浄土を「方便」と言い切る。

人々がイメージする、きらびやかな宝に満ちた安楽世界としての浄土は「方便」なのだ。真実の浄土は、一切の形象を持たない真実・真如・無為の世界である。後に親鸞は『正像末和讃』で「自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば うたがうつみのふかきゆえ 七宝の獄にぞいましむる」と詠んでいる。「七宝の獄」とは、七宝(七種類の宝)が満ちた牢獄なのであるが(後出)、そこは一般的には極楽とイメージする場所であろう。しかし親鸞にとっては、そこは人々が表面的な安楽を楽しむだけの低次元の場所であり、本当の救済ではないと考えている。

最後に曇鸞の『往生論註』を引用し、「五種の門(五果門)」が解説される。この五門とは、元来は自利と利他の因行によりさとりを得ることを5つの漸次的段階で述べたものだが、これを親鸞は他力によって往生した者の段階的な証しとして読み替えているようだ。この5つの詳細は割愛するが、最後の五門が「薗林遊戯地門(おんりんゆげちもん)」というもので、「応化身を示して、生死の薗、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る(p.157)」という還相回向の相である。このように、往生することは大涅槃へ至ることであり、そしてより高次には人々を救うという利他行に他ならないというのが親鸞の考えなのである。

(5)真仏土巻

真仏土巻では、先の証巻で簡単に触れた真実の浄土の様子が説明される。なお真仏土巻に入ると急に読みやすくなる。

冒頭、真仏土は「光の世界である」ことがこれでもかと縷述され、仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏壇過度人道経(←耳慣れない経典)を引用し「阿弥陀仏の光明は殊好なること、日月の明よりも勝れたること、百千億万倍なり(p.163)」という。ここは少し引っかかる。光のような形象については、「方便法身」ではないのかと思うのだ。それよりも「真の浄土は無である」と言われた方が先ほどの議論と整合して理解できる。そしてこの光明には人々を導く力があるのだという。続いて(同経の引用の続きで)「世間諸有の婬泆・瞋怒・愚痴のもの、阿弥陀仏の光明を見たてまつりて、善をなさざるはなきなり(p.164)」などという。これは引用とは言え、信巻や証巻での言説と全く違って面食らう。親鸞は阿弥陀仏の光明で善をなす、などという言説をいかにも拒否するように思うのだ。人々が善をなすのは阿弥陀仏の廻向なのだと親鸞ならいいそうだ。「光明」と「廻向」という表面的な違いであるが、この違いは大きい。ここでは思弁的思惟は影を潜め、なんだか俗説を真に受けている感じさえする。私の実感としては、真仏土巻は親鸞が最初に書いたもののような気がする。それで読みやすいのかもしれない。

このように始まったところで、また涅槃経(北本涅槃経)のそれなりの分量の引用がある。涅槃経は親鸞にとって非常に大事なもののようである。この引用の中で「涅槃の性は無苦無楽なり(p.167)」とか「涅槃の性、これ大寂静なり(同)」とかいい、やはり涅槃(さとり)の世界が無為であるという主張がなされる。「親鸞が戻ってきた」という感じがする。また涅槃経の引用に「衆生の根性に決定(けつじょう)あることなし(p.170)」という。これは、衆生には確たる性質(根性)がないから、さとりを得られるかどうか定まっていないという意味である。当たり前のことのようであるが、こういう人間観は親鸞の基盤にあると思われる。だからこそ阿弥陀仏の計らい・廻向が重要になってくるのである。この涅槃経引用部分によって、冒頭の俗説的な雰囲気が改められる。

しかし、その後は教・行・信・証巻の論旨を繰り返すような記述が続く。もし真仏土巻を最初に執筆したとすれば、ここは親鸞の思想の萌芽的な部分なのかもしれない。これに続く部分では、またしても阿弥陀仏が光明の仏であることが繰り返される。曇鸞『讃阿弥陀仏偈』では「法身の光輪、法界に遍じて、世の盲冥を照らす(p.178)」という。これは先ほどの仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏壇過度人道経と似てはいるが、阿弥陀仏の光がすでに世界に満ちている、としている点で思弁的であり親鸞的である。同偈は続いて「無対光」とか「歓喜光」「無称光」などといって阿弥陀仏の光を讃嘆し、「光によりて成仏したまふ(p.197)」という。これは先ほどの「阿弥陀仏の光明で善をなす」と似たような言説であるが、その光が世界に満ちているという前提ならば証巻までの思想と接続できる。

続いて、善導の『観経疏』に基づき、阿弥陀の浄土が「報」なのか「化」なのかと問題提起する。「報」とは「報土」の略で、「報土」とは「報身」のいる場所である。「報身」は「法身」と似ているが、願を立ててそれが成就したことで仏となった身、という意味である。しかしながらここでいう「報土」「報身」とは、真実の世界であることを企図しており、「化」すなわち「化身」「化土」とは方便の世界であると理解できる。さらに親鸞は「有仏無仏、諸法の性つねに空なり。性空なる、即ちこれ涅槃なり(p.182)」と述べて、こうした議論を「空」と接続する。その後、この浄土が「報法高妙にして小聖かなひ難し(p.182)」という。「報身・報土は非常に高く妙なるものなので、初地の位に至らない菩薩のような小聖は入ることができない」というのである。にもかかわらず凡夫がなぜ入れるのか。それを親鸞は「仏願に託するに由りて(同)」入れるのだといっている。

さらに善導の『法事讃』により「極楽は無為涅槃の界なり(p.183)」と引用し、浄土に至ることでさとりを得るという議論が再び続く、その後「無量光仏、無辺光仏、無碍光仏、…」と阿弥陀仏の「光」の異名を連ね、ほとんど唐突に「しかれば如来の真説、宗師の釈義、明かに知んぬ(p.184)」として「安楽仏国に到れば、即ち必ず仏性を顕はす。本願力の回向に由るが故に(同)」と結論づける。これは前半の議論の蒸し返しであるが、おそらくこちらの方が先に執筆されたのであろう。そして最後に、「また仏土について真あり仮あり。選択本願の正因に由りて、真仏土を成就せり(p.185)」として真仏土が光の世界であると同時に虚空の世界であると述べている。そして「仮の仏土とは…」として「方便化身・化土」があると述べて真仏土巻を終えている。

(6)化身土巻 

化身土巻は2つの部分に分かれている。親鸞の真筆ではどちらも同じ標題「顕浄土方便化身土門類 六」を持ち、のちに2番目の方に「六末」と記入されたために便宜的に「本」と「末」と区別しているが、ここでは見出しでは分けないこととする。

「本」では、『教行信証』の中でも最も親鸞らしい議論が展開される。それは、すでに述べたように阿弥陀四十八願にも権実(仮と真、方便と真実)の枠組みを適用して腑分けしていくというものである。その入り口はまず「懈慢界(けまんかい)」である。浄土にまでは到らない行者がいく仮の浄土「化身土」が「懈慢界」だ。これはもちろん親鸞の発案ではなく、中国浄土教から見られる。ここは一見すると浄土のようなきらびやかな世界なのであるが、真理というものが欠けている場所なのである。

ではどのようなものが浄土行きに不十分なのであろうか。それは浄土を願いながらも「疑惑して信ぜず。しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生まれむと願ぜむ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れ(p.191)」るのである。つまり阿弥陀仏の力を信じず、自力の修行を行って浄土を願うものがいくのが懈慢界である。ここは「七宝の牢獄(同)」とされる。宝が満ち溢れている場所で、そこで苦しむというものではないのだが、ただしそこでさとりを得るということがない。私の様な凡夫にとってみれば懈慢界の宮殿で十分であり、無為の世界である真仏土などはよくわからないのであまり行きたいと思わない。そしてこれは親鸞在世当時の人々にとっても似たようなものだったと思う。親鸞は先に「楽のための故に生まれむと願ずるは、またまさに往生を得ざるべきなり(p.152)」と釘を刺しているが、これは一般的には安楽を求めて往生を願う人が多かったことを示している。真の世界に行きたいというのはいわば宗教的天才のみではないだろうか。

そもそも懈慢界=化身土がなぜ構想されたのか。こういう誘惑的な方便の浄土を構想せずに、最初から無為虚空の浄土だけを設定する方が教えとしてはずっとわかりやすい。しかし化身土は必要なのである。なぜなら、『観無量寿経』では浄土の有様を観想念仏することを勧めているが、この経典に述べられる浄土の有様が財宝が溢れた場所なのである。真仏土は無為虚空のものであるのに、どうして財宝が溢れた場所を人々に説くのか、ということになる。この矛盾を解消するには権実によるしかない。親鸞は、『観無量寿経』で説かれた浄土の様子は方便であった、と整理するのである。冒頭に述べたとおり、親鸞は「末法では念仏こそ真実の教えだ」と考えたが、親鸞の思想の行き着くところ、念仏の教えも全てが真実とは見なせなくなったのである。実は浄土三部経と呼ばれる『阿弥陀経』『大無量寿経』『観無量寿経』の記述のかなりの部分が、親鸞の思想とは整合しない。親鸞はこれらの経典を権実の枠組みで整理する必要を感じたに違いない。

そこで「ここを以て三経の真実は選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、即ちこれもろもろの善根を修するを要とするなり(p.200)」ということになる。つまり、三経(三部経)の本体(真実)は「選択本願(第18願)」を中心としたものであって、それ以外は善根を勧めるための方便だ、というのである。これはかなり過激な主張ではないだろうか。さらに親鸞は、具体的にどこが方便なのかということを考察していく。その中心は「心」である。これもくり返しになるが、「行よりも信、心の在り方が大事」というのが親鸞までの思想家たちの到達点であったが、これが方便なのか真実なのか、それが問題になる。

ところで「心の在り方が大事」といえば、莫大な作善などと違い誰でも実践可能のように思うが、我々凡夫が心の在り方を自ら律していけるのかどうか、極めて頼りない。というか、心を十分に律していけるなら聖道門(修行によってさとりを得ようとするやり方)が実践可能である。末法の世では聖道門の実践は不可能だから浄土門(念仏)に頼る他ない、という理屈だったはずが、念仏には「心の在り方が大事」でこれが実践可能だとすれば聖道門も可能ということになり矛盾する。

さらに詳細は割愛するが、『大無量寿経』と『観無量寿経』では三心、『阿弥陀経』では一心とありどちらが真実なのかという問題提起がされ、種々考察がなされた後にこれらが同じ意味であることが解明される…のだが、私にはその理屈がよくわからない。ともかく心の議論を一通り行った後、「いま三経を按ずるに、みな以て金剛の真心を最要とせり。真心は即ちこれ大信心なり(p.204)」と述べ、経典に述べられる「心」は「金剛の真心」即ち阿弥陀如来から回向されて与えられた「大信心」であるから、人間の意志力によるものではないと結論付けられる。

そしてこのあたりは大変難解というか、議論が見えてこないところがある。様々な経典の内容を細かく方便に分類していくのだが、方便と真実が入り乱れてわけがわからない。ちなみに親鸞が方便・真実の弁別で重視したのは阿弥陀四十八願のうち以下の3つである。

第18願(念仏往生の願)
たとひわれ仏を得たらむに、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん、もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

第19願(至心発願の願)
たとひわれ仏を得たらむに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。 

第20願(至心廻向の願(植諸徳本の願))
たとひわれ仏を得たらむに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳本を植ゑて、心を至し回向して、わが国に生れむと欲わむ、果遂せずば正覚を取らじ。

このうちまず第20願について考察し、これが方便であるとする。名号を聞けば往生するのだから真実ではないかと思うが、親鸞は「信」の問題を取り上げて議論している。そして第19願についても「もろもろの功徳を修して」というところが問題なのだと思うが(例によってよくわからない)、そもそも自力の功徳があると思っている時点で思い上がりだ、というような態度が親鸞にはあり、これも方便とされている。結局、古来浄土教思想家が重視した上記3つの誓願のうち、真実は第18願のみであり残りは方便ということになる。全部で48ある誓願全てについては考察されていないが、親鸞の言い方は「第18願のみが真実」という雰囲気が濃厚だ。

では第19願や第20願を信じて善根を積んだ者はどうなるのか。これが「懈慢界」に行くわけなのである。彼らは「疑惑して信ぜず」だったわけではないのに浄土へ行けないのはおかしいと思えるが、親鸞の立場からはたとえ念仏(名号)を熱心に称えていても「おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号(名号)を以ておのれが善根とするが故に信を生ずることあたはず(p.214)」なのである。 念仏を善根と思っているようなやつには本当の「信」が生まれない、という。

阿闍世王の物語の部分で、私は「親鸞はここで全ての人を包摂しようと格闘している」と書いたが、このあたりでは逆に、往生できる人について厳しく弁別しようとする雰囲気がある。そもそも「化身土巻」は、浄土三部経という根本経典にすらメスを入れて真仮を弁別しようという巻であるが、救われる人についても「少しでも自力があればダメ」と切って捨てているようなところがある。しかし私にはなぜ親鸞がそのような峻厳な態度を取らざるを得なかったのか、本文の記述ではいまいちわからなかった。

そして親鸞は次に聖道門がこの末法の世では有効ではないということを熱弁する。法然においては末法の認識はそれほどでもなく、聖道門も滅尽するのは末法一万年の後だ、としていた。つまり法然の時点では聖道門も有効だったのである。ところが親鸞は「聖道の諸経は(中略)すでに時を失し、機に乖けるなり(p.215)」という。これが親鸞独自の認識なのか、親鸞の頃には社会的にこういう認識になっていたのかはわからない。ちなみに親鸞は「すでに以て末法に入りて六百八十三歳なり(p.217)」といっている。なおこのあたりの議論は極めて平明であり、思弁的ではない。

そして親鸞は「末法には、ただ名字の比丘のみあらむ。この名字を世の真宝とせむ(p.220)」という。「末法にはただ名ばかりの僧侶しかいないのだから、この名ばかりの僧侶を宝としよう」というのである。そして末法の世では、破戒とか無戒というのも意味はないのだから、「破戒・無戒ことごとくこれ真宝なり(p.221)」という。何か開き直りという感じがしないでもない。よく知られる通り親鸞は「非僧非俗」を標榜し(これは権力者から僧としての立場を剥奪されたために言ったことで、自らの意思で非僧になったのではないが)、堂々と妻帯した。末法であるためにそもそも戒は無意味になる、というのがその思想的根拠だったかのようにこの部分は読める。

ちなみにこの末法の考察によって「本」は終わっているが、ここはあたかも全体が終わったかのような雰囲気がある。

「末」では、「天神に帰依せざれ(p.226)」という議論が全体を通じてなされる。 この部分は私はそれほど興味を持っていないので率直にいうと斜め読みした。

いうまでもなく、仏典にも様々な鬼神が登場する。あるいは仏法を護持し、あるいは仏法を誹ったり修行者を邪魔したりする。そんな中で悪鬼神を崇拝するなというのは当たり前のことだが、では仏法を護持する存在をどう捉えるか。親鸞は大方等大集経巻六月蔵分「諸天王護持品」を引用し、大梵天王をはじめ様々な存在が世界を護持していたことを述べる。となればこうした神々を崇拝してもよさそうなものだが、そうした世界は「漸次に劫尽き、もろもろの天人尽き(p.236)」ていった。そして悪世の世になっていき、ついに釈迦が生まれて仏教の教えを説いた。大梵天王らはその教えに靡き、仏教に従うようになったのだという。つまり、今の世ではわざわざ世界を護持する神々を崇めなくても、神々が仏法に従っているのだから仏法さえ尊べばよいではないか、というロジックである。

しかも世は末法である。首楞厳経では「わが滅度ののち末法の中に、この魔民おほからむ、この鬼神おほからむ、この妖邪おほからむ(p.244)」といい、人々を惑わす鬼神が多いとしている。だからこそ多くの経典では「邪神・外道に帰依せざれ(p.245)」(地蔵十輪経の引用)など、鬼神を祀らないように誡めている。明解に言っているわけではないが親鸞は「鬼神に帰依しても救われることはない」といいたいようである。

ところで、親鸞当時の神祇と仏法の関係は本地垂迹説によって連結されていた。にもかかわらず、本巻には本地垂迹説が全く登場していない。例えば、人々は八幡神を阿弥陀仏だと見なして祈りを捧げていた。こういう場合はどうなのか。親鸞は意図的に本地垂迹説を無視していると私は思う。それは、基本的に「文類」すなわち引用が中心の本書のスタイルにおいて、十分にテキストが揃わなかったという事情もありそうだが、私の実感としては「本地垂迹説に深入りしたくなかったのでは」という気がする。本地垂迹説は仏典とは全く違う体系の理論であり、その融通無碍さによって親鸞の思想は容易に熔解してしまう気がする。そもそも、本地垂迹説は権実の枠組みを基盤としている。仏の世界を真実としつつも、真実は凡夫には理解しがたいので(和光同塵=その光を和らげて)、神として垂迹して人々を救う、というのが本地垂迹説の基本的構造である。こうして現れた神としての仏を「権現(ごんげん)」といい、それは「権(仮)に現れた」という「方便」の姿である。このロジックは、念仏の教えすらも方便と見なす親鸞の理論とバッティングする。二重三重に「方便」を重ねることになり、一応思弁的に理論を構築はできても屁理屈的になるような気がする。こうしたことから親鸞は本地垂迹説を意図的に無視したのだと思う。

続いて親鸞は老子と孔子を取り上げる。意外なことに親鸞は仏教の方が遥かに優れている、とは言い切らないのだが、儒仏を対比する数々の言説を引用し、徐々に仏教の優位性を仄めかしている。そして最後に論語を引用し、孔子の言「人いづくんぞよく鬼神に事へむや(p.257)」で論考を閉じている。

最後に、標題はないが後書きの部分がある。「聖道の諸教は行証ひさしく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛りなり(p.257)」から始まり、ここからは法然一門が興福寺(とそれに応じた院権力)から弾圧されたことの怒りがほとばしっている。『教行信証』の中で親鸞の個人的な体験が激情をもって書かれているのはここだけである。最後から2つの引用を紹介しておこう。最後から2番目が道綽『安楽集』から「(前略)前に生まれむ者は後を導き、後に生まれむ者は前を訪(とぶら)へ(後略)(p.259)」という有名な一文。そして最後が華厳経「もし菩薩、種種の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすことありとも、菩薩みな摂取せむ(同)」。道綽『安楽集』は理解できるが、なぜ最後が華厳経の偈なのか。これはしっくりこなかった。しかもここでは「種種の行を修行する」とか「善・不善の心を起こすことありとも」といった、親鸞が超克してきたものが述べられている。主語が「菩薩」なのもよく分からない。これまでさんざん凡夫と如来の関係について述べてきて、なぜ「菩薩」の修行について述べるのか。そして種々の行は捨てて本願のみに帰依し、如来の回向による信にまかせよ、というのが『教行信証』の要諦ではなかったのか。

敢えて解釈すれば、この菩薩は法蔵菩薩(阿弥陀如来がまださとりを得る前の名前)なのではないか。もちろん華厳経の原文では法蔵菩薩について述べているわけではないだろうが、親鸞がここに法蔵菩薩を重ねたとしたらどうか。阿弥陀の四十八願はこの法蔵菩薩の時の誓いであるから、この偈は「法蔵菩薩が、真実と方便が入り交じった一見不審にも思える誓願を立てるという修行をしているのを見て、世間の人はよくわからないと思う心を起こすかもしれないが、法蔵菩薩=阿弥陀仏はそれもみな認め包摂してくれるのである」ということを含意しているのかもしれない。だとしたら私も包摂された一人である。

*****

私は『教行信証』を読んで、親鸞の思想について語る本が汗牛充棟をなす理由がわかった。法然の思想について語る本はほとんどいないのに、人は親鸞については熱く語る。第1の理由は、親鸞の思弁的思考は解明しがいがある、ということだ。源信や法然の思想は、分かりやすいが、まさにそのために考究するしがいがないのかもしれない。一方、親鸞の思想ははっきり言ってわからない。わからないから考究したくなる。第2の理由は、親鸞自身、その思想が揺れ動いているということである。『教行信証』は、場所によってかなり雰囲気が違う。そして親鸞の言っていることも微妙に違う。一貫した著作というよりは、論文集的といってもいい。そこから親鸞の思想を抽出する作業はそれだけで面白そうだ。

しかしながら、真宗教義について専門的に学ぶ必要がない私にとって、親鸞の思想に付き合うことはかなり面倒なことでもあった。『教行信証』は、私の読んできた本の中でも五指に入る読みづらい本だ。冒頭に5%しかわからなかったと書いたのは誇張ではない。今少し読み直してみると、特に最初に読んだ部分については2回目の読書でかなり違った理解が得られるような気がするが、正直なところもう読み直す気は起こらない。このメモにもずいぶん見当外れなことが書いていると思うがご寛恕願いたい。

ところで、「5%しかわからなかった」身としては僭越だが、親鸞の思想には矛盾があると思った。縷々述べた通り、親鸞は「自力があっては真の浄土へはいけない」と強調する。『教行信証』は教え諭すような著作ではないから、「だから自力を捨てよ」という言説は意外に見られないが、「自力から離れて他力へまかせよ」という論旨であることは明らかだ。しかし人はどうやって他力へ移行できるのだろう。これが「自力の限界をさとって、主体的に他力を選ぶ」ということなら、「自力(自らの意志力)によって他力へ移行する」ということに他ならない。他力に向かうためには自力が必要だということになると矛盾している。そもそもそれができるなら聖道門が実践可能ということになってしまう。

『歎異抄』で親鸞は、悪人は他力を頼むほかないから往生できる、「自力の善人」は善行を積むという自力から離れがたいから往生から遠い、という主張をしているが、「自力の善人」がどうやって自力から離れられるかという議論はやはりない。「衆生の根性に決定(けつじょう)あることなし(p.170)」という前提から考えると、我々凡夫は他力にしろ自力にしろ自ら主体的に選べるようなものではないと考えるのが自然だ。とすると、「自力の善人」にとって救われる道はないのではないか。といっても、懈慢界も方便とはいえ浄土には違いなく、阿弥陀仏が救わないというのではない。しかし経典には阿弥陀仏は(五逆・謗法は除き)全ての人を救うとあるのに、親鸞はそこに自力・他力の区別を持ち込んで真の救済を限定的なものにしているのは間違いない。親鸞は阿弥陀仏の広大な慈悲・回向の力を強調しながら、その力に与れるのは一部の人だけだという結論に達している。阿弥陀仏の力を信じ切れていなかったのは親鸞その人なのではないか。

その点、阿弥陀仏は帰依する人々を「信・不信をえらばず」全て救う、と考えた一遍の方がよほど論理的に一貫している。『教行信証』は形而上学的な思弁の果てに、自力と他力、方便と真実のどんづまりへと行き着いているようにも見える。

もっとも『教行信証』は親鸞の到達点ではなくむしろ出発点的な著作である。晩年、親鸞は多くの和讃をつくり、人々を教え導き、その中で思想が円熟して「自然法爾(ほうに)」という境地へ辿り着いた。私はまだ「自然法爾」がいまいちわからないが、上述の矛盾点が解消されている可能性は高い。

ただ、こうした疑問があるにしても、今は『教行信証』を読めてよかった、というのがありのままの感想である。日本の思想史における高峰の一つであることは間違いない。

形而上学的に往生を理論化した浄土教思想の高峰。

【関連書籍の読書メモ】
『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。

『選択本願念仏集』法然 著・大橋 俊雄 校注 
https://www.shokeishuyu.com/2025/02/blog-post_24.html
法然の主著。専修念仏教団を生み出した、念仏至上主義の書。

『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著
https://www.shokeishuyu.com/2024/01/blog-post.html
厳密な史料批判に基づいた親鸞の生涯。歴史学における親鸞研究の到達点。 

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2026年8月10日月曜日

『日本古代の国家と仏教』井上 光貞 著

古代から鎌倉時代までの仏教を概観する本。

私が本書に興味を持ったのは、平雅行氏の『日本中世の社会と仏教』がきっかけである。そこでは、本書と『日本浄土教成立の研究』(井上光貞氏が本書の前に書いた本)が検討の俎上に載せられて批判された。批判の要点としては、第1に平安浄土教と法然との思想的違いを明確にできていない、第2に平安浄土教への理解が足りない、第3に浄土教の発展を中下級貴族の没落と関係させて述べた、などである。

【参考】『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著
https://www.shokeishuyu.com/2025/01/blog-post_19.html

本書は1971年の刊行であり、50年以上も前の本であるから(『日本中世の社会と仏教』刊行の時点でも)内容が古くなっていることは当然だが、あえて批判の対象となるということはそれが強力なドグマとして受け取られていたことを意味する。そんなわけで特に平安浄土教についてどう説明されているか気になって本書を手に取った。

本書は3部構成で「前篇 律令国家と仏教」「中篇 王朝国家と仏教」「後篇 鎌倉仏教と国家」となっているが、私の関心は中篇にあるので、前篇と後篇は簡略なメモとする。

「前篇 律令国家と仏教」では、古代国家における仏教の様相が語られる。

本書は「国家と仏教」という大きなテーマを掲げるが、著者は意外と概説はせず、象徴的な事例を選んで詳説するというスタイルをとっている。

本篇第1章では、十七条憲法と三経義疏が紐解かれる。特に三経義疏については類書に比べかなり詳しい。

第2章では中国・朝鮮の仏教が俗権の支配下にあったことを述べ、続いて古代日本の律令制でも同様に国家が仏教機構を統制していた(僧綱制)と指摘する。しかし「唐では国家権力が直接教界を統制する形態にまで進んでいたが、日本は国家権力が、教界の代表者を通じて統制する形態を学んだ(p.39)」。また国家は豪族が設立した氏寺を一定の基準で官寺化し(食封有る寺、定額寺)、また私寺の存在を否認した。続いて僧尼令の体系について詳しく述べ、また国分寺の整備について詳しく検討している。

第3章では行基と鑑真について述べる。著者は大仏については簡単に済ませ、むしろ行基が各種の社会事業を行って民衆に受け入れられたということを重視している。道鏡についても簡略である。「国家と仏教」という視点からは、大仏建立や道鏡政治の方が重要に思われるが、著者がなぜここを簡略に済ませたのが詳らかでない。

第4章では、まず光仁・桓武朝において仏教の統制が強化され年分度試制が創始されたことを述べ、次いで最澄の改革を取り上げている。ここで著者は最澄の「一切皆成・法華一乗」の主張について「一切衆生の平等を主張しつづけたことは仏教の歴史上重要な意味をもつ(p.98)」としている。また最澄の戒壇設立運動にも詳しく触れる。第3章で鑑真について取り上げたのも戒壇・戒律に関係があるからのようだ。空海については『三教指帰』、『秘密曼荼羅十住心論』とその要点を記した『秘蔵宝鑰』、『性霊集』などが詳しく紹介され、空海の思想は自らの完成を目指すものであるものであると同時に世俗道徳と妥協(恩の強調など)したものであることが指摘されている。著者は「空海の視座の高さは日本古代を通じて第一級(p.124)」としつつも「しかしそのあまりにも現実的な思考には、最澄にみられるような批判的精神が欠けていた(同)」と評価している。

「中篇 王朝国家と仏教」では、摂関・院政期における仏教の動向について述べる。

第1章では天台浄土教と貴族社会について述べるが、その冒頭で律令時代にも阿弥陀仏像や阿弥陀堂が造られたことについて「そのほとんどは自己の魂の救済のためのものではなく、死せる親族等の追善のためのものであった(p.133)」とあり疑問を持った。それらが追善のためのものであったのか、これは別に確かめてみたい。

さて、著者はまず天台浄土教の発達について確認する。天台浄土教は智顗の説が基盤となり、最澄が六祖堪然以降の天台宗を移植し、さらに円仁が五大山念仏三昧を唐から伝えたことで発展した。ちなみに円仁の遺命によって始まった不断念仏は8月の11日から8日間行う年中行事的儀式である。そして天台浄土教は文人貴族に受け入れられていった。

さらに著者は空也を詳しく取り上げ「空也の念仏勧進は、民間浄土教の発達上画期的なもの(p.142)」と評価している。ただし空也の念仏は民衆には大きな影響を与えたが、「空也の念仏は、叡山の学僧や文人貴族の天台浄土教のそれとは著しくちがって(p.140)」いた。それでも天暦時代には貴賤の広い支持を得た。

一方、空也の活躍と同時期、良源は藤原師輔の護持僧になって、横川楞厳院に法華三昧堂が草創された。浄土教は摂関家に受容されたことで非常に隆盛する。そして良源門下には多数の学僧が輩出された。良源が師輔の子の尋禅を引き立て、結果として良源没後に天台座主となったことは異例な人事であったため、叡山の門閥化に道を開き、またそれに対する反発が起こった。結果として叡山は山門と寺門に分裂することになった。

次に千観と慶滋保胤が取り上げられる。千観は天台僧で、後に空也の教えにより遁世したとされる。応和2年(962)の『十願発心記』の他、千観には数多くの著作があり、しかも彼は教団を組織して厳しい禁欲生活をしていたようである。また彼は「文献的にたしかめられる最初の和讃(p.149)」である阿弥陀和讃をつくっており、、浄土教の大衆化も示している。空也に次ぐ浄土教実践の先駆者と言えよう。一方、慶滋保胤は「観学会」という結社をつくっているが、これは3月・9月の15日に法華経を講ずるのを聞き、経中の一句を題として詩を作り歌を詠じ、あわせて阿弥陀仏の名号を称えるものであったらしい。千観と比較すると保胤の実践は文人貴族的だが、保胤はまた「権門勢家の造寺造塔のむなしさを鋭く批判(p.151)」もしている。彼は後に出家して観学会は解散されたが、時を同じくして比叡山横川に二十五三昧会が結成されている。これにも保胤は関与した。著者は千観と慶滋保胤に共通して「教団の世俗化・貴族社会の門閥化に対するはげしい批判的精神(p.153)」があるとしているが、どちらかというと「空也ー千観」の民衆的浄土教と「良源ー慶滋保胤」の貴族的浄土教という2つの系譜として理解しうるように感じた。

さらに著者が「名利の外に魂の自由と一切衆生の救済を求める精神運動(p.153)」のピークと位置づけるのが良源の弟子である源信とその著書『往生要集』である。『往生要集』は後世へ大きな影響を与えた著作である。著者は『往生要集』の内容を詳しく紹介し、源信が菩提心を強調していることを指摘している。単に往生を願うばかりでなく菩提心が重要と言っているのは、後年、明恵が法然の『選択本願念仏集』に対して菩提心が閑却されていると激しく批判した(→『摧邪輪』)のを想起すると興味深い。

源信は『往生要集』執筆後先述の二十五三昧会に加入したが、社会的活動を停止したわけではなく、むしろ旺盛に著述を行い、また宋の仏教界との交流によって疑問点を解消しようと試みるなど意欲的に活動した。彼は名利への関心を持たなかったが貴族からの名望は高まり、特に藤原道長は源信を慕っていた。また源信は遁世後に「霊山釈迦講」という結社を別に作っておりこれが興味深い。これは釈迦像を本尊に、毎朝釈迦を供養し、また毎月晦日、法華経を講じる講でその講衆は600人もいたそうだが、「源信の晩年にはじめた講が、阿弥陀講ではなくて釈迦講である(p.165)」のは何を意味するのであろうか。本尊が釈迦仏であり法華経を中心とした信仰であったことは、原点回帰的なものがあるのかもしれない。著者は二十五三昧会がごく限られた人のためのサークルであったのに対し、霊山釈迦講は「上は貴顕から下は在地人を包含する(p.167)」人々に開かれた(=実践可能な)ものであったという点を重視している。

摂関期には貴族が出家し、また浄土教の実践を行うことが広まった。花山天皇も出家し、二十五三昧会に結縁している。そしてこの時代に特に盛んになったのが阿弥陀堂の建立である。摂関・院政期には寺院・堂舎の建立が非常に盛んになったが、著者は特に阿弥陀堂に注目してその建立を表にまとめている。特徴的なことは、摂関期においてはそのほとんどで丈六阿弥陀像が、院政期になると九体丈六阿弥陀像が祀られていることである。かなり巨大な阿弥陀像を建立するのが普通になっていたのである。そのピークは12世紀前半の白河・鳥羽院政期である。ところで著者はこれらの「阿弥陀堂には死者の追善のために造られ、周忌の法会を営むことを本体とするものも少くな(p.182)」いと述べるがこれは本当か。院政期の周忌は3回忌までが普通であったと思われるが、3年のために堂舎を建立するとは思えない。一体貴族たちは何のために阿弥陀堂が必要だと思っていたのだろう。著者は「無常の現世に極楽浄土の幻想を享受しようとする頽廃的な心理にねざすものであろう(p.184)」というが、わかったようなわからないような説明である。しかし奥州藤原氏の藤原清衡が建立した平泉中尊寺金色堂は、確かに須弥壇下に清衡の遺骸が納められているので追善の目的があったのは確かであろう。

一方、叡山の方では「有力山門僧の出自をみても、ほとんどが受領層以上の子弟、座主の半数は摂政・大臣家の出自というように著しい門閥化を示し(p.185)」、教団の門閥化が進んだことで学問・故実の秘伝下が進んでいった。その趨勢の中で本覚思想を基調とする中古天台が発達した。そして「院政期には一般に天台教団の学問が衰微したので、浄土教上見るべき著作も、天台にはほとんどみられなくなった(p.188)」。その例外として真源の「自行念仏問答」と皇覚の「枕雙紙」(ともに伝源信撰)が取り上げられるが、著者は「千観・源信時代のそれのようなリゴリズム(厳格主義)がみられなくなっている(p.189)」とし、「この時期の仏教史の真の担い手(同)」を地方民間布教僧ではないかと問題提起するのである。

第2章では、説話集を題材に平安期の民間仏教が詳説される。平安時代になると、度牒制など律令時代にあった民間仏教を抑制する種々の規制がなくなり、「既成教団から独立した民間布教者の活動が自由になってきた(p.195)」ため、民間布教者の聖・上人の活動が活発になった。その様相を説話集により窺うことが本章の目的である。

『日本霊異記』の著者の景戒は薬師寺沙門とはいいつつも妻子がおり貧しい生活を送っていた人と思われ、彼は「官寺の大僧よりも慈悲にあふれた私度沙弥の乞食業に強い同情をいだい(p.198)」ており、教団と一定の距離があったことが窺える。またそこには「たとえ悪果を得ても近親・縁者の功徳によって容易に悪報を解除される話(p.200)」が多い。また地獄や閻魔の話も多く、そこには唐の『冥報記』と『金剛般若経集験記』の影響が看取される。

さらに著者は『日本霊異記』において現れる、沙門・沙弥・優婆塞などの非公式な(国家に僧侶として扱われない)僧侶の呼称を検討し、それらの呼称が本来の意味(=私度、在家信者など)を越えて使われだしていることを示すと同時に、民間仏教者を類別する心象があったことを指摘している。

『日本霊異記』に見える在家信者は、「貴族が少くて、大部分が郡司や富豪、及び公民である(p.205)」。これは、律令時代には在地の郡司層が仏教受容に重要な役割を果たしたことを示唆している。また最も多く見られる経典は法華経である。

次に検討されるのは往生伝と験記である。中国では、「金剛般若経・法華経・華厳経など特定の経典ごとに編まれた説話集(p.209)」があり、『法華験記』もその系譜に位置付けられる。『法華験記』では『日本霊異記』と同様に前世に悪業を犯したものが法華経の功徳で今生には持経者になるなどの話が実に多いが、『霊異記』とは違ってそこには「原罪的な罪業感が濃厚であって(p.211)」、法華経によっても簡単に罪障を消滅させられはしないという暗さがある。よって『法華験記』には苦行者が多く登場し、「経典の読誦・書写によってただちに賊難・水難を免がれることのできる楽天的な霊異記とは全く性格を異に(同)」している。

ここでも著者は僧侶の呼称について着目し、「聖・上人・仙」の用語が「沙門」とともに普通に使われるようになったことを指摘する。しかしその意味は沙門と同じではない。院政期には何々聖と呼ばれるものが非常に多くなるが、正式な僧侶ではない、という否定的な含意があった沙門とは違い、むしろ「聖・上人」は高く評価されるようになったと思われ、また「聖・上人たちが、一つの宗教的社会層として形成されてきたことを示(p.215)」している。また聖と上人の違いについては、「阿弥陀聖・小田原聖などと固有名詞的によばれたものには山林修行、苦行、遊行、入水、焼身など、異常な宗教的霊力や行為を示す行者が多いのに対して、上人には都市や農村に定着し、隠棲して自利の業を積み、又は説法などによって人々の尊崇を集めたものが多い(p.215)」と指摘している。そして『法華験記』の世界は、「上人的ではなくて聖的(p.216)」である。『法華験記』の説話には山岳を舞台とするものが多く、先述の通り苦行的な持経者が多い。また『法華験記』には在地武士層が数多く登場し、例えば合戦で矢が当たらない、観音が身代わりになり傷を負わなかったなど、現世的な利益を目的とした「在地武士層の仏教——ここでは法華信仰——の原初的な状態を示している(p.219)」と考えられる。

次に『今昔物語集』から特に地蔵信仰が検討される。『今昔物語集』には、地蔵菩薩が地獄に救済者として現れ、弁護人として訴えてくれる、という説話が散見される。地獄から救い出された後には阿弥陀如来に頼るという筋も多い。それらの説話には貴族性が希薄で、郎等武士が登場することが多い。そして南都北嶺の寺院はほとんどなく、庶民の集う寺が目立っている。「地蔵信仰がとりわけ下層の身分に厚い(p.226)」のである。ちなみに『今昔物語集』には様々な仏教説話が含まれているが、なぜ地蔵説話のみを取り上げたのか著者は説明していない。

次に院政期の往生伝が取り上げられる。院政期には大江匡房『続本朝往生伝』、三善為康『拾遺往生伝』・『後拾遺往生伝』、沙弥蓮禅『三外往生記』、藤原宗友『本朝新修往生伝』などが相次いで書かれた。これらは全て文人貴族の作であり、『今昔』などの説話集と違う性格がある。それは説話集では「地獄の責苦や冥官の裁判、人が畜生に転生する話など、いわば民間信仰的な色彩の濃厚な輪廻転生思想がひろくみられたのであるが、一般に往生伝では、この種の話が稀薄(p.229)」であって、例えば『法華験記』の覚念伝では虫であった前世で法華経文も一部を食い破ったことが宿業となっているという話が主となっているのに、為康はこの話を『拾遺往生伝』に取り上げながらその部分を全く削っている。「教養ある知識人としての筆者はそれに興味をもてなかったからであろう(同)」 。地獄や六道輪廻に対する恐怖から往生を希求したわけではないようだ。為康はそれよりも念仏によって往生ができるかどうかということに関心を注いでいた。それは「日々に念仏や読誦を重ね、厳しい精進を自己に課しながらも、不往生の不安から脱却できなかったためであろう(p.231)」と著者はいう。

そして往生伝には下級の僧侶はあまり登場せず、顕密の大寺院、特に叡山が中心となっている。ただし大寺院に属しながら本寺を離れて別所に移り、そこで行いをする別所上人が登場して人々から崇められており、「浄土教の発達は本寺よりもむしろ別所に移った観を呈して(p.235)」いる。また院政期往生伝ではより下級の僧侶が多くなっており、また地方在住のものも多く見出され、東北・北関東・中国地方西部を除いて全国に及んでいる。つまり浄土教は院政期には全国に広まっていた。鎌倉仏教が浄土教を広めたのではなく、「あらかじめ日本の各地に、主として天台宗の浄土信仰が諸信仰と混同した形で広まっていた(p.239)」のである。なお在家信者も貴族社会がメインではあるが中流貴族および下級官人が登場してきている。

第3章では、別所念仏について述べている。院政期には別所が64箇所あったことが確認される。叡山の別所の大原、高野山の別所、天王寺の念仏別所などである。大原は摂関期から確認できるがその歴史を劃したのは良忍で、彼は手足の指を切燃して仏経を供養したことでも知られる念仏上人である。良忍の伝記的事実ははっきりとはわからないが、融通念仏を教導したとされている。融通念仏とはそれぞれが称える念仏が互いに融通し合って往生の機縁となるという念仏の捉え方である。

高野山は、正暦5年(994)に諸伽藍がほとんど全焼してから衰微していたが、様々な努力を経て、中興の祖明算の頃からは大寺院としての風格を取り戻した。どうやらこの復興の過程で、聖・上人僧がかなり高野山に入ったらしい。この別所聖人が高野山でかなりの勢力となり、真言宗の僧侶と並んで高野山を構成する要素になったようである。覚鑁はれっきとしたエリート僧であったが、なぜかこうした念仏上人の阿波上人青蓮の下に身を寄せた。そしてやがて高野山の改革を目指し、挫折して紀伊根来に逃れるのである。ともかく高野山の別所聖人は浄土教の一つの中心となっていたようである。

次に天王寺念仏宗が取り上げられる。「天王寺の西大門は極楽の東門であるとする信仰が発生し、伽藍の西方外側の地域が浄土教霊跡とされ、願生者が巡歴・集合するようになり、あわせて天王寺そのものも、貴賤の参詣を得て盛大となった(p.259)」。特に白河院政期の永暹上人は注目される。彼は出雲鰐淵寺から出て、「大仏事を修すること六度、そのたびごとに足指を切って燃燈供養し(中略)百万遍念仏を修すること数を知らず(p.260)」という苦行者で、多くの人に念仏を勧めた。また鳥羽院政期の出雲上人は京の貴賤の熱狂的な信仰を得て百万遍念仏の大規模な念仏衆を組織していた。これは衆徒が毎年一度ずつ入れ替わり立ち替わり昼夜不断に念仏を続けたもので、法皇や女院もこの念仏衆の一員であった。彼の念仏は「勇猛之念仏」で少し妖しいところがあったらしく、藤原頼長は「其の説、正直に非ず、怪となすに足る」(台記)と冷ややかである。しかし彼は組織者としては一流で、その40年後にも念仏衆は続いており、後白河法皇は天王寺に参詣して念仏三昧院に泊まり百万遍念仏に参籠している。栄西は『興禅護国論』で「念仏宗は先皇勅して天王寺に置く、今の尊卑の念仏はこれ其の余党なり」と述べている。天王寺の別時念仏は「「念仏宗」といわれるほどの大きな組織を京都・近郊の願生者の間につくりだした(p.263)」が、残念なことに「すぐれた教説と伝統を生みださなかった(同)」。

本章の動向を私なりにまとめると、天台浄土教には「円仁ー良源ー源信ー往生伝」の貴族的浄土教が京畿周辺に興隆した一方、地方や庶民世界には「空也ー千観ー説話文学ー良忍(融通念仏宗)ー天王寺念仏宗」の民間的浄土教が広まり、それが次第に重なって鎌倉仏教につながっていった、という図式となる(後述)。 

「後篇 鎌倉仏教と国家」では、鎌倉仏教の動向を専修念仏と日蓮を中心に述べている。

第1章ではまず法然と『選択本願念仏集』について述べ、それが『往生要集』の引用していない善導の観経疏の文を発見して専修称名の確信を得たものであったとしている。法然は武士からの帰依を受けたが鎌倉幕府からは弾圧された。ただし法然を強く批判した興福寺に対して、朝廷は法然に対しては同情的であった。なお法然は伽藍は否認し居所を草庵と読んだが、縦の師弟関係は重んじたのが後の親鸞と違う。

ところで、法然の門下から出た幸西はいわゆる一念義を説いた。阿弥陀仏の名を称え、その願力の謂れを聞いて領解するのを一念といい、この一念領解の心の起こるとき往生は決定するという考えである。これは十悪・五逆も障りないとされ、造悪無碍に陥りやすかった。

次に親鸞ついて述べ、『教行信証』について検討を加えている。これを「選択集と比べる時、最も中枢的な特色は、真宗教学でもいっているように、回向の観念の転換(p.301)」であろうとし、念仏は自ら行うものでなく、阿弥陀仏の回向によって可能になるものというのが独自の教説であった。また親鸞は「往相回向ノ心行ヲウレバ、則ノ時ニ、大乗正定聚ノ数ニイルナリ」(教行信証化身土巻)というように、即得往生、すなわち現世において死後に必ず成仏する位に定まると強調しているが、これは中古天台の本覚法門の影響があるようである。親鸞の教えは武士、さらには農民など一段と下層の人々に親近的であり、またその教えは法然のような説教調ではなく「自分もともに悩めるものとして語りかけている調子(p.312)」がある。しかしながら親鸞の教えは念仏以外を認めないものであり、当時の常識であった神仏習合を否定して神祇不拝を伴ったために種々の軋轢を生んだ。

第2章では日蓮と一遍が取り上げられる。日蓮は国家に対して諫暁を行って弾圧された。しかし日蓮は迫害をうけることによって我が身の正しさを確認している。さらに日蓮は法然を激しく批判したが、「禅宗は天魔波旬の説」「大小の戒律は世間誑惑の法」といって禅・律も非難している。とにかく批判・非難のエネルギーはすごい。しかし意外にも日蓮は儒教道徳・封建道徳は大事にしており、その門弟・檀越を「一門」の語で表している。日蓮は家庭道徳を強調しており、「法華信仰と祖先や父母への報恩は一体のものであると考え(p.350)」ていた。「日蓮の理想は、家族・親類・縁者がみな法華経の信者となり、かれらの上にたつ主君もまた信者たるような世界であった(p.353)」。

また論述の中心ではないが、日蓮は墓を重視している。見延を去る際、お世話になった南部六郎三郎実長に「いづくにて死候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(身延沢)に立させ候べく候」(波木井殿御報ー433号)と述べ、また伊豆の檀越南条氏の墓にわざわざ参って懐かしんでいる。いわゆる鎌倉仏教の祖師には墓を重視する性格が薄いが、日蓮は例外のような気がする。日蓮は死の直前に高弟6人を「本弟子」と定めているが、死後彼らは輪番で身延の墓所を守ることとしており、これも日蓮の姿勢の表れであろう。

また日蓮は自分の信者は仏になると言っていて、家族3人がまとめて入信した際「三人ともに仏になり給、ちちかた(父方)、ははかた(母方)のるい(類)をもすくい給ふ人となり候」(兵衛志殿御返事−291号)と述べている。

次に一遍については、南無阿弥陀仏と称えれば「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」全ての人が救われるということと、全てを捨てなければ生死を離れることは出来ないという単純明快な確信が強力な行動原理となった。そして「念仏をする衆生がそのままに阿弥陀仏であるという機法一体の所説(p.366)」が形成された。一遍の念仏は、信心などとは無関係に救われる・仏になれるという易行を基調にしつつ、自らは苦行を行い、自らに同行するもの(時衆)にも厳しくそれを求めた。つまり一遍の念仏には易行と苦行が同居していた。また他の専修念仏運動が神祇不拝を主張していたのに対し、一遍は積極的に神社に詣でた。これらは融通念仏宗の影響が大きいのではないかと著者は指摘している。

*****

本書は全体として、冒頭に述べたように概説というより象徴的な事項の詳説という性格が強く、書き下ろしの本なのだが論文集のような性格が強い。著者はあとがきで「日本古代仏教の中から鎌倉仏教のうまれてくる過程を一貫した観点で扱ってみたいという年来の課題(p.405)」に取り組んだというが、その「一貫した観点」が私には明確には摑めなかった。

特に「国家と仏教」を銘打ちながら、本書には国家論が稀薄なのが不思議だった。古代において大仏建立と道鏡がほとんど取り上げられていないのは先述したが、例えば摂関院政期の国家が主導した寺院建立の動向(六勝寺など)も非常に簡略であり、寺院や僧侶の国家制度の変容なども一瞥はされているが詳述はされない。そして後篇にいたっては国家の要素は皆無といっていいほどである。むしろ著者は、国家と少し距離のあるものについて力を込めて描いている。後篇で、鎌倉仏教の中でも最も国家と遠かった日蓮と一遍について取り上げたのはその象徴である。また、本書には社会経済的な視点もほとんど見られない。この時代を語る上で荘園制は避けて通れないと思うが、本書には荘園制についてもほとんど述べるところがないのである。こういう次第であるから、私としては、著者のいう「一貫した視点」は、むしろ国家の外を向いているような気がした。

ところで、本書は古い本であるから額面通り受け取れない部分がある。一番大きいのは、1975年に黒田俊雄氏が「顕密体制論」を発表し、鎌倉時代においてもいわゆる鎌倉仏教は少数勢力であって、依然として「顕密仏教」が力を持っていたというのが通説となったことである。つまり「鎌倉仏教のうまれてくる過程を一貫した観点で扱ってみたい」という問題意識自体が、それほど意義のあるものではないということになる。もう一つが、顕密仏教の改革を企図した人々が「遁世僧」であったということが本書にはほとんど書かれていないということであるう。「遁世」という用語は本書にも登場するものの、さほど強調されていない。現在の学説では「鎌倉仏教」という枠組みよりも、「顕密仏教」と「遁世僧」の関係が重視されている。

そういった難点が本書にはあるが、「中篇」は個人的には面白く読んだ。特に説話類から民間的な浄土教を検討するという手法はなかなかエキサイティングであった。しかしながら、「円仁ー良源ー源信ー往生伝」の貴族的浄土教と「空也ー千観ー説話文学ー良忍(融通念仏宗)ー天王寺念仏宗」の民間的浄土教という二つの浄土教があったという井上氏の見立ても、平雅行氏によって批判されている。例えば井上氏が民間的浄土教(※氏の用語では、「民間浄土教」)の嚆矢として扱う空也についても、文人貴族は高い関心を有し実際「空也誄」が源為憲によって作られている。逆に源信の『往生要集』でも観想を第一義としつつ、それを実践しえない人にも様々な(より簡易な)行を勧めている。この二つの系統は截然と分けられない。平氏は「ここにあるのは二つの浄土教ではなく、一つの仏教、一つの浄土教観における達人宗教と大衆宗教との二元的・階層的構造である(『日本中世の社会と仏教』p.53)」と述べる。民間にも浄土教が広まったのは、民間が独自にそれを発達させたというより、顕密仏教が民間を包摂していったと認識した方がよいとし、貴族と民間の浄土教の実践に違いがあったとしても「思想の違い、宗教の違いを必ずしも意味してはいない(同書p.54)」という。確かに貴族と民間の浄土教は大枠ではほとんど違いがなく、二つの浄土教があったとは言いづらい。

しかしながら、「円仁ー良源ー源信ー往生伝」系統と「空也ー千観ー説話文学ー良忍(融通念仏宗)ー天王寺念仏宗」の系統に細かい違いが存するのも事実で、その細かい違いが面白い。二つの浄土教はなかったかもしれないが、「浄土教の受容の仕方には二つあった」というのが本書を読んだ私の感想である。例えば現在でも、純文学と大衆文芸(エンタメ)には截然とした区切りはないし、同じ著者が純文学とエンタメの両方を書いていることもあるが、これを受容する読者の側には純文学とエンタメには異なる心理・向き合い方があると思うし、そういう違いを細かく見ていくのが文芸批評の醍醐味ではなかろうか。そういう意味で、井上氏の「二つの浄土教」の視点は、多少の修正が必要であるにしても有効ではないかと思うのである。ただし「○○は純文学と言えるか」というような問の立て方がしばしば不毛であるように、個別の事象(例えば空也)が貴族的浄土教なのか民間浄土教なのか、といった考究はおそらく有効でなく、大まかな二つの流れがあったと考えるのがよいと思った。

「国家と仏教」の視点は薄弱だが、平安浄土教を独自の視点で語る労作。

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著
https://www.shokeishuyu.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。専修念仏教団と顕密仏教の関係を詳細に明らかにした労作。

『阿弥陀聖 空也――念仏を始めた平安僧』石井 義長 著
https://www.shokeishuyu.com/2025/11/blog-post.html
空也の評伝。初めて空也の生涯を実証的に明らかにした労作。

『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。

『選択本願念仏集』法然 著・大橋 俊雄 校注
https://www.shokeishuyu.com/2025/02/blog-post_24.html
法然の主著。専修念仏教団を生み出した、念仏至上主義の書。

『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
厳密な史料批判に基づいた親鸞の生涯。歴史学における親鸞研究の到達点。

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※本文で引用したのは岩波書店日本歴史叢書版。

2026年7月31日金曜日

「細君」坪内 逍遥 著(『坪内逍遥・二葉亭四迷集 新日本古典文学大系明治編18』所収)

坪内逍遥の中編。

坪内逍遥はその後半生をシェイクスピア全集の翻訳に傾け、また小説よりも戯曲・演劇に力を注いだので、『細君』はその合間に書かれた例外的な作品ということになる。

今から見れば古色蒼然としたこの小説を私が読んだのは、明治時代の人々の生活実態やその心情が知りたいと思ったからなのであるが、意外にもここに描かれる「夫人」の心情は今の女性と大差がない。

主人公の「夫人」は、社会的な地位はあるが浮気で愛情のない夫との家庭生活に倦み、しかし金銭的に厳しい実家との板挟みになって離婚に踏み出すことができない。この状況からは、女性が自活できない明治の家父長制全盛期の様子が窺えるのであるが、ではこの女性が単にモノのように扱われているかというとそうでもないのが面白い。というのは、「夫人」自身、打算による結婚をしているのである。「夫人」は学生の頃から「負惜みの強いのと愛嬌の乏しいので人に知られ」ていて、友達を冷ややかに批評するばかりで全く真心に欠けており、当然男性にモテるということもなかったが、「見事立派に片附て鼻をアカして見せやうと」し、「夫の人柄には好(このみ)はない。只中等より以上の宅(うち)へ縁附いて元の友達の顔が見たい」、つまり、身分以上の男と結婚して友達を見返してやりたい、というだけで結婚相手を決めたのである。

しかし案の定、家庭は冷ややかで、お金はそれなりにあっても「夫人」にとっては万事が不如意であり、夫が支配権・決定権を持っている状態に甘んじるよりは、貧乏でも自由に生きた方がよいのではないかと考えるようになっていった。

こういう状況で「夫人」の心情を作者が説明する文章がまた面白い。曰く「夫人は最早小説を弄ぶ十六七の娘にもあらず、又西洋の女にもあらねば、学校に在りし時とは違ひ同権又は愛情と云ふ事を雛形の通りには思はねども」、それでも思い悩んでいたという。この小説が発表されたのは明治22年であるが、すでにこの頃、学校では「男女同権」や「男女の愛情を基盤とした婚姻」といったことが教えられ、それを「雛形」のように思う観念があったということになる。しかしそれが現実とは違うという認識もあったわけである。

この感覚は現代でも同じようなものではないだろうか。一応、男女同権は当然のこととされてはいるものの、未だに家事負担は女性に大きく偏っているなど男女同権とは程遠い現実があり、女性自身しょうがないことだと諦めている。そういう感覚をすでに「夫人」は持っているのである。男女同権の教育と、それが理想に過ぎないとする諦観は意外と早くから浸透したようだ。

ちなみに、この頃の小説の会話文は初めの括弧(「)はあるが終わりの括弧(」)はない。会話文の終わりには「ト言いつゝ」などと必ず「ト…」があるのでさほどわかりづらくはないのだが、最初は慣れなかった。

最後に小説としての面白さについていうと、最初の方はあまりドラマチックではない作品だと思ったが、徐々に筆が乗ってきたのか後半はなかなかスピード感があり、特にラストはシェイクスピアばりに劇的な悲劇となっていて読みごたえがあった。

明治20年代の上流階級の生活実態を活写した作品。

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2026年7月24日金曜日

『明治東京畸人伝』森 まゆみ 著

谷根千の人々を描いた作品。

著者は、季刊誌『谷中・根津・千駄木』、通称「谷根千」の編集人である。この雑誌は地域の話題を取り上げる雑誌だが、地域にあるものを紹介するだけでなく歴史的に深掘りする特集が組まれており、本書はそこで取り上げられた地域ゆかりの人物について、雑誌の記事を補筆して書かれたもののようである。また特に畸人とされる人ばかりを取り上げているのではない。

よって、『明治東京畸人伝』というよりも、『明治谷根千人物誌』とすべき内容である。

さて、谷根千とは、皇居の北東に位置した下町的区域で、南・東は上野公園と東京大学、北・東側はJR(日暮里・西日暮里)、西側は駒込までのエリアであり、その面積はだいたい約1.5km四方くらいと思われる。この狭いエリアに、まさに多士済々の人物が暮らしていた。

こういう本の面白いところは、何の脈絡もなく人物が登場することである。何しろ、その共通点は谷根千に住んでいた、ということしかないのだから。もちろん、パリのモンマルトルのように、ある地域に特定の業界の人々が集まることはある。しかし谷根千の場合は良くも悪くも、いろんなタイプの人々が入れ代わり立ち代わり暮らした。

明治初年に写真館を開いた横山松三郎、宝丹という薬を売りまくった守田宝丹、最初期のピアニストで派手なパフォーマンスによって人気を得、ベルリンとウィーンに渡って絶望し自殺した久野久(くの・ひさ)、岡田式静座法という健康法・修養法で人気となった岡田虎二郎、藪蕎麦の元祖三輪伝次郎、とんでもない貧乏なのにサトウハチローの面倒を見ていた(同居させていた)詩人の福士幸次郎、『尋常小学読本唱歌』を編集し新作唱歌のリーダーだった吉丸一昌(「早春賦」、「おたまじゃくし」など)、ハーフの芸者春日とよ、上野公園一筋の名物園長古賀忠道、女遊びが激しい文筆家の物集高量(もずめ・たかかず)など、大文字の歴史を学んでいてはあまり登場しない人々が次から次に取り上げられるのが面白い。

とはいえ、やっぱり知っている人物が登場するといろいろ参考になる。一番面白かったのは幸田露伴が名著『五重塔』のモデルにした谷中五重塔(天王寺五重塔)の話である。谷中五重塔は昭和32年7月6日に放火心中で焼けて失われた。この五重塔の心柱が懸垂式で上からぶら下がっており土台には接していなかったとか、谷中共同墓地はこの五重塔があった天王寺の境内だった(土地が新政府に接収されて墓地にされた)といったトリビアルな話題が興味深かった。この他有名な人物としては、村山槐多、サトウハチロー、河口慧海、川端康成、北原白秋、三遊亭円朝などが取り上げられている。ちなみに章立てられてはいないが、森鴎外、宮本百合子、朝倉文夫(彫刻家)も谷根千に住んでいた。

そして本書の掉尾を飾るのが渡辺治右衛門である。明治の末での東京の地主は、1位が岩﨑家(22万1千坪)、2位が三井家(17万2千坪)などと続き、5位だったのが渡辺治右衛門(6万3千坪)だ。今では知る人も僅かだが、渡辺治右衛門は東京で五指に入る地主だったのである。渡辺家はもともと海産物問屋だったが、土地への投資で巨富を築き上げた(大概の金持ちがそうだが)。そして渡辺銀行を創業。金融業としては良心的な商売をしていたらしい。ところがこの渡辺銀行が一夜にして倒産する。

若槻礼次郎内閣で蔵相を務めた片岡直温(なおはる)が国会答弁中、むかっ腹を立てて「ただいま渡辺銀行が倒産した」と言ってしまったのだ。これは、直前に渡辺銀行から手形の決済が難しい旨の連絡を受けていたことを受け、つい口を滑らせて話を盛ってしまったもので、実際には渡辺銀行は別の銀行から融資をうけて事なきをえたものの、国会で「倒産した」と言われた打撃は大きく、とんでもない取付騒ぎが起こった。もちろん、手形の決済ができないくらいのなので経営が傾いていたことは事実であったが、預金者が大挙してお金を引き出しに来たのでどうしようもなくなったのだ。さらにこの騒ぎは他の銀行までも飛び火し、19行が倒産あるいは休業に追い込まれた。「わずか数日の間ではあったけれども、銀行の取付けが洪水のように市中のすべての銀行の前に殺到した時の物凄さは、今ふり返ってみても怖ろしいほどであった」と大阪毎日新聞経済部長だった下田奨見が述懐している。

ともかくこの騒ぎで預金がなくなってしまった(結果的に引き出せなかった)人が多く、谷根千では「ワタナベヂエモン」に対する恨みは激しい。しかし渡辺家の人たちは総じて良心的で、政府の失言によって倒産した部分もあったにもかかわらず政府を糾弾するようなこともせず、財産のほとんどを失いながらもそれなりに矜持をもってその後を生きた。

本書を読みながら、地縁というものの面白さを改めて感じた。地縁を中心に歴史を見ると、歴史の流れとは違ったところに目が行く。例えば鹿児島でいうと加治屋町をこんな風に描いたらどうなるだろう。よく知られる通り、加治屋町からは西郷隆盛や大久保利通、大山巌、東郷平八郎など明治の偉人とされる人がたくさん出た。だが、西郷家の隣、大久保家の隣にはどんな人が住んでいたのだろうか。それで明治維新が修正されるとは思わないが、これまでの明治維新とは違った断面が見えそうである。

地縁にこだわって歴史と人物を語る好著。

【関連書籍の読書メモ】
『五重塔』幸田 露伴 著
https://www.shokeishuyu.com/2018/05/blog-post_20.html
幸田露伴の若き日の傑作中編小説。

『チベット旅行記』河口 慧海 著
https://www.shokeishuyu.com/2015/05/blog-post.html
黄檗宗の僧侶によるチベット滞在の記録。チベットに興味があろうがなかろうが、エンターテインメントとして読める第一級の旅行記。

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2026年7月5日日曜日

『墓と石塔の中世―石に刻まれた死者供養』狭川 真一 著

石塔の造立について語る本。

石塔の造立については分厚い研究の積み重ねがある。本書は石塔研究の最前線をまとめるとともに、著者が携わったいくつかの事例を紹介し、石塔に対する観念について考察するものである。

石塔が本格的に造立されるようになったのは中世であるが、奈良時代にも石仏や摩崖仏があった。特徴的なのは、それらは硬い花崗岩製であり、東大寺との関係がある奈良周辺に造立されているということだ。これは新羅からの渡来系石工が作った可能性がある。

平安時代前期(8~9世紀)には軟らかい凝灰岩性の石塔がそれらとは別の系統として現れた。これは奈良・京都を中心としていたようだ。奈良時代から平安時代前期の石塔は、「数は少ないがほぼすべてで、山寺の小さな伽藍を構成する仏塔として造営されたもの(p.11)」で、具体的には舎利が安置されていたと思われる。

平安時代中期には、福島県磐梯町にある慧日徳一廟塔とされる五重塔が建立されており、これは個人の廟所としての伝承を持つ古代唯一の石塔である。

このように古代にも石塔の造立は行われたが、散発的かつ少数であった。それが変わった契機と思われるのが、治承の乱(1180)で東大寺や興福寺が灰燼に帰し、その復興事業が行われたことである。東大寺の復興を担った重源は宋から技術者を登用し、その石材加工技術が東大寺復興後に広まっていくのである。日本に定住した伊行末の作品は全て花崗岩が利用されており、その後の伊派の作品はやはり全て花崗岩である。ここで日本の石材加工は、軟質の凝灰岩利用から硬質の花崗岩利用に転換したと見られる。文永2年(1265)から弘安8年(1285)に行われた216基の高野山町石をすべて木造から花崗岩製に作り替えるという大事業は、硬質な石材加工技術の定着を象徴的に表している。

「石塔の種類と特徴」では、石塔の種類ごとにこれまでの研究がまとめられる。

層塔は最も古くから造立された。軸部と笠部を別々に作る別石式と、両者を一石で作る一石式がある。一石式の最古の例としては奈良市塔の森六角十三重石塔、鹿谷寺(ろくたんじ)の十三重石塔がある。別石式の最古の例としては、奈良の龍福寺五重石塔(天平勝正3年(751))がある。奈良時代のものは木造建築としての塔を模しているが、平安時代後期以降は簡略化したフォルムとなった。初期の石の層塔は、飛鳥・奈良時代に建立された木造の塔が廃絶した後、その代わりに建立されたと考えられている。

笠塔婆は、方形柱状の塔身に笠石を置いたものである。最古の例として熊本市円台寺の建久4年(1192)銘のものがある。『餓鬼草子』には木造の笠塔婆が描かれており、木造がより古い形態だったと思われる。最近、木造の残存・出土事例がいくつか知られるようになった。例えば石川県珠洲市野々江本江寺遺跡の出土品(12世紀後半以前)などである。

宝塔は、円筒状の塔身の上部にくびれがあり、その上に笠部と相輪を持つ。宝塔はほとんど石造で木造の例は少ない。多宝塔は宝塔が複数の層を持っており、石造の事例はほとんどなく基本的に木造である。宝塔の最古の例としては、京都市鞍馬寺京塚から出土した保安元年(1120)銘のものがある。岩手県平泉町の願成就院宝塔も古い。これら古い事例は、経塚の標識として造立されたものと考えられる。大分の国東塔とよばれる仏塔も宝塔の一種と認められる。これは塔身に納経をしていたと推測される。

五輪塔は、最も数多く作られた仏塔と言える。『大日経』などの経典に平面的に書かれたものが立体化されたものだが、立体化の考案者やその背景は未だ謎である。図案としての最古の例は、法勝寺(承保3年(1076)創建)出土の軒丸瓦の文様にある。当初は宝塔との区別が明確でなかったが、表面に梵字が記載されることで五輪塔が確立したと考えられている。その最古の例は、兵庫県姫路市の経塚から出土した瓦製五輪塔で、天養元年(1144)のものとされる。また石造五輪塔としての最古の例は、岩手県平泉町の中尊寺釈尊院墓地の五輪塔で仁安4年(1164)の銘がある。これは火輪以下の内部が空洞となっているので舎利の奉安が想定されるが、初期の五輪塔には奉籠孔がなく造立目的が不明なものもある。

宝篋印塔は、基礎・塔身・階段状の笠・相輪で構成される複雑な形態の塔で、宝篋印陀羅尼を収めたことから名称がついたが、名称としての最古は正安3年(1301)の銘のもので、それ以前の名称は不明である。宝篋印塔の祖型は、かつては銭弘俶塔とされたが形態的な隔たりが大きく疑問である。著者はこの祖型は阿育王塔であると考え、その成立は『高野山縁起』に記される明恵の髪爪を収めた塔婆と見なしている。宝篋印塔は京都で発祥したと見られ、最古の例として京都府生駒市輿山往生院宝篋印塔の正元元年(1259)がある。

板碑は、薄い石材の上部を山形に加工して二本線と梵字を刻んだものである。在銘最古の例としては、埼玉県熊谷市の嘉禄3年(1227)のものがある。ただしこれは梵字ではなく三尊仏である。板碑の源流については様々な説があったが、石川県珠洲市野々江本江寺遺跡(前出)から木製板碑が出土した。これは12世紀後半を下るものではない。また鳥取県米子市吉谷亀尾前遺跡からも同様の資料が出土していたことが判明した。これらの出土品から考えると、板碑は陀羅尼を収めるためのもので、上部の二本線は宝珠が変形したもののようである。

無縫塔は、卵型の塔身が須弥座に置かれたもので中国に祖型がある。最古の事例は京都市の泉涌寺の俊芿の墓塔で、以後僧侶の墓塔として用いられた。

「墓に石塔が建つ」では、墓塔が立てられるようになった事情が考察される。

京都府長岡京市の西陣織遺跡は、11世紀後期の火葬墓跡で、墳墓状の頂上に相輪が置かれたと著者は考え、これは「仏塔と墓が直接的に関係する初期段階の事例(p.62)」だという。京都市東山区の六波羅政庁音羽・五条坂窯跡でも墳墓や笠塔婆が確認された。「これらの墓遺構は11世紀中ごろから12世紀中頃の間に営まれた計画性を持った墓地群であり、中央の空閑地を挟んで一定のエリアを占有する一族の墓所であろうと推定(p.65)」された。

他の遺跡の出土品も踏まえ、著者は墓と近接した最初の石塔形式は笠塔婆であると考える。比叡山横川には全部で5基の笠塔婆があり、良源(985年没)、尋禅(988年没)、邏賀(998年没)、源信(1017年没)、覚超(1034年没)の墓塔である。全て花崗岩製で、塔内に陀羅尼が納められていたと考えられる。後世に復刻した可能性もあるが、これらは「10世紀後期から11世紀前期にはすでに墓と石塔が接近して造営されていることを示唆する(p.68)」。

天皇家の場合、仁明天皇に至って陵寺が成立した。陵寺とは陵墓の兆域と寺院の境内が一致するものである。また御一条天皇の墓に陀羅尼を蔵めた石の卒塔婆を建てたという記録が『類聚雑例』長元9年(1036)にあり、墓と石塔が一体になったことがわかる。そして白河上皇、鳥羽上皇、近衛天皇は木造の三重塔の下の石室などに遺骨・遺体が埋葬されている。「この段階で、明らかに木造の仏塔が釈迦の舎利を埋納するのではなく、天皇の遺骨あるいは遺体を埋葬する施設に変化している(p.71)」。これらが塔の画期である。

また同時期に、皇族や貴族も仏堂内への埋葬が行われるようになった。皇室関係者の遺骨が次々に埋納された円光院の事例は興味深い。仏堂内に埋葬する事例を一般に「墳墓堂」という。なお現存建物で墳墓堂と考えられるものは中尊寺金色堂のみである。

源頼朝や北条義時も墳墓堂に埋葬された。頼朝の墳墓堂は「法華寺」と呼ぶ寺と認識され、火災のつどに再建されたことがわかっている。また北条義時の墳墓堂も火災に際して再建された。これらの事例からは継続した祭祀が行われたことが窺える。北条氏では三代執権の北条泰時までは墳墓堂が作られたことがわかっている。

その後の動向が窺えるのが足利氏の墓所である栃木県足利市の樺崎寺跡である。この寺跡には同時期に9基あるいはそれ以上の五輪塔が造営されている。この遺跡では、12世紀末からしばらく墳墓堂が造営され続けてきたが、それが急に五輪塔に置き換わったと思われるのである。頼朝や義時の墳墓堂は継続して祭祀が続けられていたが、一般には財政的な負担から墳墓堂の再建はされなかったと思われる。また複数の墳墓堂の維持管理にも大きな負担があったであろう。そこで著者は「樺崎寺では13世紀後期~14世紀前半頃に墳墓堂を廃止し、いっせいに石塔墓に変更したのではないかと推定(p.84)」する。石塔墓にすることにより、樺崎寺は足利一門の墓所を永久的なものとして整備できたのである。また樺崎寺にはこれらの石塔と離れた場所に、一族の中で大型五輪塔を建立できなかった者を合葬したと思われる無種子の五輪塔があり、墓所の在り方が窺えて興味深い。

熊本県玉名市の宇佐市の一族墓所も同様の事情が窺える。ここでは3基の五輪塔の造立日が文応元年(1260)で揃っている。これは宇佐某が先祖二代の五輪塔を造営するとともに自身の逆修塔を建立したものだが、それは宇佐某がこの地を一族墓所と定めて文応元年に整備したことを物語っている。この墓所のその後の発展を見ると、14世紀には妻の墓塔が見られるようになり、領主個人から夫婦を供養する形になっていったようである。そして墓所は「継続的な支配を視覚的に誇示する装置(p.93)」となった。

奈良市都祁来迎時にある多田一族の五輪塔群を見ると、14世紀の五輪塔は数が大きいが少なく、15世紀になると造立数が増え、16世紀には小型化・量産化・規格化が進む傾向が看取できる。これは16世紀以降には五輪塔が商品的に生産されていたことを示唆するものである。

一方、僧侶の墓はそれに先立つ10世紀末頃から造営されており、天皇や皇族が仏塔に埋葬された時期と同時期から存在する。先述の笠塔婆に続いて、12世紀には五輪塔が高僧の墓所に採用されるようになっている。その例として、文覚(鎌倉時代前期)、重源(1206年没)、貞慶(1213年没)がある。俊芿の一派が無縫塔を採用しているほかは、鎌倉時代前期は僧侶墓は五輪塔が中心である。

墓塔としての五輪塔の普及に大きな影響があったのが西大寺流律宗である。その開祖叡尊の墓塔は3メートルを超える五輪塔で、現在地が間違いなく当初の立地であるとともに、この地が叡尊の荼毘所(火葬場)でもある。叡尊の没後(1290年)まもなく宝瓶に納めた遺骨が埋められ、その上に五輪塔を建てたという記録がある。なお大阪府羽曳野市には叡尊の分骨塔と思われる五輪塔もある。叡尊の弟子の忍性の墓所は、鎌倉の極楽寺にあり、叡尊よりは少し小さな五輪塔で遺骨を収めた舎利瓶が納められていた。また分骨塔も奈良県の額安寺にあり、こちらも舎利瓶を伴っていた。その後の律宗の墓塔を見ると、「歴代墓所造営はかなり計画的に実施されているようで(p.113)」ある。つまり祖師の叡尊を最大の大きさで作り、その後墓塔の高さを抑え、しかも分骨・合葬・追葬などがある程度体系的に整備されている。先ほどの武士の墓所の造営が墳墓堂→石塔群へというやや場当たり的な経過をたどっているのと比べ、最初から石塔を中心に考えていた様子が窺える。

また、奈良市の唐招提寺には中興覚盛上人のものとされてきた五輪塔があり、これも西大寺系のものである。この五輪塔の解体修理が行われたところ、忍性と親交のあった中興二世の證玄のものとわかった。この五輪塔の地下には特殊な銅製蔵骨器が埋納されており、半分ほどは證玄の遺骨が入っていたが、その上には計画的に弟子の骨が追葬されたことが分かった。この例からは、死して師匠の元にいたいという観念があったことが理解できる。

「共同体の墓と石塔」では、共同納骨について考察される。

大型の五輪塔を造れる人間はわずかであったが、その他大勢はどう葬られたのか。その一つが合葬である。12世紀後期からは、大きな甕を埋置し、そこに火葬骨を埋納した事例が見られ、また岩手県本町II遺跡でへは火葬骨を埋納する大きな土坑がある。しかしそれらの墓は上部構造はあっても簡易なものだったと考えられ、恒久的な石造物はなかった。

これが五輪塔を中心にした合葬に変化していく。早い事例として、長野県飯田市の文永寺の墓がある。ここには弘安6年(1283)に石室の内部に五輪塔がある構造物が造営されている。特徴的なのは、その下部に骨を埋納するための甕が埋められていることである。これは、まず甕の納骨が12世紀後半に始まり、1283年にその上部に石室・五輪塔が設置され、その後も納骨が継続されたと考えられている。このような経過で総供養塔への合葬が15世紀頃まで続いたようである。

ここで著者はケーススタディとして奈良県山添村の中之庄墓地を取り上げるがここでは割愛する。また西大寺流律宗の動向について、三重県の伊賀地域(山添村が隣接する)での総供養塔の文化を検証している。律宗は、墓地に総供養塔として無銘で大きな五輪塔を造立し、そこに合葬するという文化を広めた。例えば伊賀では14世紀に阿弥陀寺へ西大寺流律宗が入り、徐々に広まっていった。一方、伊賀では宝篋印塔が造立された地域と五輪塔が造立された地域はあまり重なっておらず、宝篋印塔は別の宗教集団によるものであることが確実である。

しかし西大寺流律宗は総供養塔の文化を広めた立役者であっても、律宗が嚆矢となったわけではないらしい。例えば千日墓地十三重石塔、大阪府太子町の東福院墓地の層塔など、共同の納骨施設を有するものが見られ、「墓の要所に石塔を建立し、塔下に納骨するという形態が13世紀には始まっていた(p.144)」。しかし「造立の背景にはどういう教団や人々が活動していたのか、現状では不明と言わざるを得ない(p.145)」。ともかく「12世紀後期から13世紀前期頃に近畿の一部でこうした発想が生まれ、14世紀には大和を拠点として各地に広まっていった(p.146)」のである。

「霊場と石塔」では、高野山への納骨を中心に納骨信仰を述べる。

高野山への納骨行為は11世紀後半ごろから始まり、奥の院への納骨は12世紀末ごろから始まった。奥の院に納骨した最古の例は、治承3年(1179)の俊寛である。また身分の高いものは子院を建立してそこに納骨した。またそれ以前から尼法楽が埋納した経塚(天永3年(1113))に代表されるように埋経が行われていた。納骨の風習を広めたのは聖たちで、彼らは勧進活動の一環で各地で納骨を勧め、多くの人から少量の骨を預かって小型の容器に入れて納骨した。13世紀になると石塔内に納骨を行う事例が登場し、やがて膨大な石塔が建立された。そのピークは14世紀中頃から末ほどである。

14世紀中頃までの石造五輪塔には水輪部分に納骨孔があったが、室町時代以降の五輪塔には納骨孔を有するものが少なくなる。石塔の中へ納骨するという形式が急速に廃れ、代わりに素掘りの穴に少量の遺骨を埋納してその上または近くに石塔を建立するという形になっていったようだ。さらに一つの石から簡略に五輪塔を切り出す一石五輪塔が流行した。その傾向は次のようにまとめられる。(1)13世紀から14世紀前半には納骨孔がある少数の五輪塔が建立された。(2)14世紀前半から15世紀中頃まで、納骨孔がない五輪塔が大量に建立された。そのピークは14世紀末から15世紀初めである。(3)15世紀中頃から一石五輪塔が現れて非常に大量に建立され16世紀末には低減した。ピークは16世紀初頭である。(4)16世紀末からは近世の大型五輪塔が建立されるようになった。

なお最古の一石五輪塔は、大阪府貝塚市半田墓地にある応永6年(1399)のものだが、一石五輪塔は無銘のものが数多く、動されているものがほとんどのため、「実のところ本来の使用方法は具体的にはわかっていない(p.179)」。著者は逆修(生前に供養を済ますこと)が一定割合を示すことや、13世紀以降に埋納容器が小型化することを踏まえ、「石塔による納骨が始まるがそれは初期段階にとどまり、その後は拝殿への納骨が中心になった(p.181)」と考えている。つまり石塔と納骨は別々の場所でなされた、という考えである。

「中世都市・村落と石造物」では、都市と村落の墓地の在り方について考察している。

都市については、福井県敦賀市での石塔・石仏を分析し、15世紀にはかなりの石塔が作られるようになったこと、石塔がレリーフタイプになっていったことが述べられ、ケーススタディとして坂ノ下遺跡が取り上げられる。ここは12世紀後期から16世紀後期頃の中世墓である。一方、近隣の永建寺脇祠堂と鋳物師町会所横には、石造物が寄せ集められている。さらにこの両者の間に来迎時墓地があり、ここにも小規模ながら中世後期の石造物がある。これらから見える中世都市の墓地の様相は何か。これらは近世の寺壇制度の下の墓とは違う個人の墓だった可能性があり、都市域の外に立地した、しかも近世の墓標を含んでいないという特徴がある。つまり中世墓地は、近世の墓地の枠組みとはちょっと違い、近世に入って廃絶したと思われるのである。問題はその違いが具体的には何だったかであるが、著者ははっきりとは書いていない。

著者はさらに奈良市東部の中世墓塔がある場所を自転車で回って調査しており、その結果から抽出すると(1)石龕仏と舟形五輪塔が大半を占める、(2)近世のものを含む場所はない、(3)寺院や境内墓地とは無関係に存在している、(4)概ね町内に一カ所の単位で存在している、などがいえる。著者は「これらの石造物群は町内の祭祀に起因する資料であること、その祭祀は18世紀には終息もしくは下火になっている考えられる(p.203)」としている。そしてこれらは「中世後期から近世前期にかけての頃の葬送供養が、町内という単位の共同体の仕事であったことを意味している(p.206)」という。具体的には、死穢を避けるための無常堂があり、死期が近づくとそこへ運んで最期を看取り、死後は共同体の力で近在の墓所へ埋葬し供養の標識となる石造物だけは無常堂付近に安置する、という流れを著者は想定している。そしてそれらの石塔・石仏は寺院墓地に取り込まれることはなかった。

しかしながら、著者のこの想定には疑問が残る。それは、死穢を避けるための無常堂にわざわざ死にそうな人を運んでいるのに、共同体で葬送をしたらその参加者が死穢になってしまうということである。死穢を避けるならば葬送は家族親類で行わなくてはならないと思う。とすると、むしろ近世の町が成立した時に、中世からの墓地を整理して町内ごとにまとめたと考える方が筋が通る。いずれにせよ、中世までの墓地と近世以降の墓地には断絶があるということがこれらの事例から言える。

中世村落の墓地については、滋賀県多賀町の敏満寺石仏谷遺跡と京都府与謝野町の地蔵山遺跡について取り上げている。敏満寺石仏谷遺跡は12世紀後半ごろに成立した墓地遺跡で、当初は墳丘墓であったが、15世紀から五輪塔が建立され、16世紀には石仏・一石五輪塔が多くなっている。近隣の墓地を見ると、14世紀や15世紀に宝篋印塔・五輪塔の建立が見られ、16世紀にはやはり石仏・一石五輪塔となる。地蔵山遺跡は、13~14世紀ごろに塚墓の造営にっはじまり、15世紀には仏教的石造物が建立され、16世紀が主体となっている。面白いのは16世紀で造墓が断絶することである。これは造営主体だった国衆とその家臣団が没落したことを表しているのかもしれない。面白いのは、地蔵山遺跡には寺院の形跡がないことである。

「中世墓の終焉と石材の転用」では、石材の転用から墓と石塔の観念の変遷を推測している。

中世に成立した城には、石垣などに石造物が転用されていることがよくある。例えば奈良県大和郡山市郡山城跡、兵庫県神戸市兵庫城跡などである。京都府福知山市の福知山城跡では、石造物の最新の年号は天正3年、石垣の構築は天正7年であり、わずか4年の差しかない。これは何を意味するのか。著者は「石塔が供養の対象となっている時間(中略)が数年程度の短いものだったのではないか(p.238)」というが、石造である以上ある程度の期間存続を期待したことは間違いなく首肯しがたい。また、著者は墓地の強制接収(敗者の一族の墓の破壊など)ではなく、機能が停止した墓地の石材を運んできたと考えるが、その根拠も定かでない。

一方、神奈川県小田原市小田原城跡にある池の護岸には、五輪塔や宝篋印塔の部材が大量に使われている。その総数2000点のうちほぼ60%が未使用品であった。つまり石塔が大量生産されており、それが余っていたことが想像される。

しかし江戸時代以降には、城の石垣などに石造物が転用される事例は激減する。また、京都市大雲院跡の調査では、844基の石造物(墓塔)がまとめて整然と埋められていたことがわかった。これは火災の後に行われた墓地整理に伴うものと考えられる。中世では石垣などに転用されていたのに、整然と処分したのは「16世紀末から18世紀初期頃の100年強の間に、人々の墓石に対する認識が変化した(p.250)」ためと著者は考え、「役目が終了していても墓石は丁寧に扱わねばならないという認識(同)」になったとする。

著者はその他、墓石を転用しなければならないような状況がなかったといった社会経済的要因も指摘しているが、そちらの方が説得力を感じた。例えば鹿児島では昭和40~60年代に集落墓地が納骨堂に整理されるという趨勢があったが、その際、墓石は階段や石垣に転用されている。著者がいうような「墓石は丁寧に扱うべき」とする感覚は鹿児島にはなかったようだ。とすると、近世に墓石転用が激減したのは、わざわざ墓石を転用しなくても石垣を造れる社会経済的な実力があったからだと考えた方がよいような気がする。

「近世への胎動、墓塔から墓碑へ」では、近世の墓から現代までの墓石の変化が概括される。

近世の墓石は、中世と違って石塔ではなく墓標となった。著者は研究史を簡単にまとめ、墓標になっていた次第を奈良県大和郡山市美濃庄町念仏寺の墓地にあった舟形の墓石を紹介して概説している。その変化は、仏塔という形態が完全に失われて文字主体となり、種子(梵字)が失われ、戒名の記載が優先されるようになる、とまとめられる。そして「江戸時代の中頃くらいを境として墓石は故人を象徴するものとなり、そこに故人の霊が宿っていると解釈するように発展したのではないか(p.261)」という。

本書は全体として、最新の研究成果を援用しつつ、象徴的な事例を丁寧に紐解くことによって石塔を語っており、平易かつ簡明である。石塔の本には文字資料(金石文)が大きく取り上げられてその造立の背景が推測されるものが多いが、本書はそういう個別事例の片言隻句にとらわれず、建立そのものを重視して考察を加えている。

ところで、本書を読む前から思っていたことであるが、中世の石塔文化の発祥で気になることがある。それは最古の例が京都周辺ではないことが多いということだ。笠塔婆、五輪塔、板碑の古い事例を振り返ると、

  • 笠塔婆:熊本市円台寺の建久4年(1192)、石川県珠洲市野々江本江寺遺跡の出土品
  • 五輪塔:兵庫県姫路市の天養元年(1144)の瓦製五輪塔、岩手県平泉町の中尊寺釈尊院墓地の仁安4年(1164)の五輪塔
  • 板碑:埼玉県熊谷市の嘉禄3年(1227)、石川県珠洲市野々江本江寺遺跡の木製板碑、鳥取県米子市吉谷亀尾前遺跡出土品

となり、かなり広い範囲に広がっている。宝篋印塔、宝塔、無縫塔は京都周辺で生まれたと考えられるが、では笠塔婆、五輪塔、板碑は京都で生まれたかどうか。本書の記載からは何ともいえないが、少なくとも石塔を建立するという文化がかなりのスピードで日本全国に広まったことはいえる。これは、京都で生まれた文化が徐々に広まったとするにはあまりに早いように思う。私としては、武士には公家とは違った死生観があり、武士が中心となって石塔文化を作ったと考えたい。

では公家は武士の石塔文化をどう見ていたか。例えば摂関家は墓地に石塔を建立したかどうか。摂関家の墓地は宇治の木幡にあり、浄妙寺が建立された。浄妙寺跡は発掘調査がされており、室町期まで存在したことが明らかになっている。にもかかわらず浄妙寺跡からは石塔は発掘されていない。これを踏まえると、公家は石塔を建てる文化に否定的だったのではないかと思われるのである。ではなぜ公家は石塔に否定的だったのか。また武士と公家の死生観の違いとは何なのか。これについては改めて考えてみたい。

中世石塔の最新の研究を平易に学べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『墓石が語る江戸時代—大名・庶民の墓事情』関根 達人 著
https://www.shokeishuyu.com/2019/12/blog-post_31.html
墓石によって江戸時代の社会を考察する本。墓石を通じて社会を見る視点が独特な本。著者の関根達人氏は近世墓塔研究で著名。

『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること』水藤 真 著
https://www.shokeishuyu.com/2019/10/blog-post_4.html
中世の葬式がどうであったか検証する本。葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。

『石造物が語る中世職能集団』山川 均 著
https://www.shokeishuyu.com/2019/12/blog-post_27.html
宝篋印塔の起源を考察する本。宝篋印塔の成立事情を伊派・大蔵派の動向によって推測した意欲作。ただしその起源説は本書のいう阿育王塔を祖型とするものとは異なる。

『石塔の民俗』石井 卓治 著
https://www.shokeishuyu.com/2020/10/blog-post.html
墓石の成立と石塔を関連づけて語る本。新鮮な角度から墓石の形式の成立を論じた良書。

『中世の板碑文化』播磨 定男 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post_24.html
板碑の世界を概観する本。板碑の世界を手軽に俯瞰できる良書。

2026年6月6日土曜日

『[増補版]日本の戦死塚――首塚・胴塚・千人塚』室井 康成 著

日本の戦死塚について民俗学的に語る本。

日本の各地に、首塚・胴塚・千人塚などと呼ばれる塚が残されている。これらを著者は「戦死塚」と呼ぶ。それらには、
(1)その場所で行われた戦闘での犠牲者の遺体が埋葬された(と伝わる)場合、
(2)戦闘の有無にかかわらず処刑・自害等により死亡した人の遺体が埋葬された(と伝わる)場合、
の2つがあり、(1)は戦死だが(2)はそうではないのには注意を要する。この区別は本書ではあまり重要ではないが、概念的にはそういうことになる。なお著者の定義では戦死塚とは「合戦や戦時の謀略の渦中で戦死・自決・処刑された死者を埋葬したとする謂れのある古跡(p.7)」である。

私が興味があったのは(1)の方で、特に戦国時代の首塚・千人塚について歴史的な事実が知りたくて本書を手に取ったのだが、本書は民俗学的な観点から戦死塚を語っており、また戦国時代についてはほぼ取り上げていないため、私自身の関心とはずれがあった。民俗学的な観点とは、「その塚に本当に戦死者が埋葬されているかどうか、本当に誰それの供養塔なのか、といった史実の確認は脇に置き、人々がそこを戦死塚として伝承し、そう扱ってきた意味を問う」ということである。著者ははっきりと「歴史的真贋は関心の埒外である(p.8)」と書いている。

確かに蘇我入鹿の首塚など、民俗学的観点から見ないと切って捨てることになる。大化の改新で殺された蘇我入鹿は、斬首されてその首が飛び回ったという伝説があり、その首塚が各所に残っている。そのうち三重県松坂市の山中にあるのは、巨大な五輪塔である。もちろんこの巨大な五輪塔は蘇我入鹿の首塚・供養塔ではありえない。そもそも飛鳥時代には五輪塔そのものがない。では、なぜこの五輪塔は蘇我入鹿の首塚とされたのか。

巨大な五輪塔が山中にあれば、「これは一体誰の供養塔なんだろう」と思うのが人情だ。というのは、中世前期の五輪塔には通常文字が刻まれておらず誰の五輪塔なのかわからないのである。そこで江戸時代あたりに、知識人が周辺の歴史的事実を掘り起こし、「もしかしてこれは〇〇の供養塔ではないか」という仮説を提示したのだろう。そして、それを聞いた民衆が話に尾ひれを付けて誰それの首塚だという伝承ができあがってくるのだと考えられる。本書で取り上げられる戦死塚は、そのようにして出来上がったと考えられるものが非常に多い。戦死塚はある意味で近世の産物だ。

しかし壬申の乱の敗者大友皇子の首塚とされる場所(岐阜県関ケ原町)は、五輪塔などはなく「自害峰」と呼ばれるただの森である(特徴的な三本の杉の木がある)。かつて地元住民は岐阜県等にここを陵墓として公認するように誓願を行っていたから、地元としては確実な伝承だと見なしていた。しかしここが首塚とされるに至った経緯は全くの不明だ。日本各地に、不気味な森(それは死体を棄てる場所だったと考えられるところが多い)が残されているから、ここも不気味さの謂れとして大友皇子が担ぎ出されたのかもしれない。

首塚といえば有名なのが東京大手町にある平将門の首塚である。ただし大手町の首塚は「そこが首塚であったことを示す石碑と、その保存区域のこと(p.65)」である。関東大震災後に大蔵省が首塚を壊して仮庁舎を建設したところ不幸が相次いで将門の祟りとの風聞がたち、これに応じて大蔵省が仮庁舎を撤去して将門の慰霊を行ったものだ。将門は、「討ち取られた武将の首が、衆人環視のもとに晒されたことがわかる初の事例(p.67)」であり、首を晒すということの衝撃が怨霊譚の成立に影響しているのかもしれない。

そもそも、首級を晒すというのは考えてみれば異常な刑罰だ。ギロチンで首が落とされたマリー・アントワネットとルイ16世も首が民衆に掲げられたと言われているが、一定期間晒されたとは聞かない。首を切り離すだけでもかなりの嗜虐性があるのに、さらにそれを晒すというのはどういう心情なのだろう。ともかく、首を晒すという行為と、その後「首塚」とされる場所が生まれてきたことを考えると、日本人は「首」に対して特別な意味を付与していたように思われる。

ちなみに将門の首は藤原秀郷により京へ運ばれたとされ(『将門記』)、洛中で晒された(『平治物語』)。伝説では、将門の首は晒されても3月も生き続け、「わが頸を続(つ)いで今一軍(ひといくさ)せん」と夜な夜な嘯いていた(『太平記』)。一方、大手町の首塚は、早くも鎌倉時代には将門の塚であると認識されていた可能性がある。こうした基盤の上、なぜ将門の塚が京から遠く離れた場所にあるのかを説明するために「首が飛んでいった」という伝説が江戸時代初期に生まれたと著者は考える。

ところで、蘇我入鹿の場合も首は飛んでいたが、首は飛ぶのに死体が飛ぶという伝説がないのは気になる。切り離された首というのは、すでに人ならざる者(幽鬼)と捉えられていた可能性が高い。

ちなみに関東には将門の首塚とされるところが何カ所もあり、またそれらの首塚は霊験あらたかなところとされる。怨霊のエネルギーが霊験と受け取られるのは菅原道真の場合と同じで、権威に抵抗したことが民衆からありがたいものとして表象されたという側面もある。ちなみに関東には将門の胴体を埋葬したとされる「胴塚」も多い。そしてそれぞれの場所について、一応もっともらしい伝承が付随している。それは、地域のアイデンティティが首塚に仮託されているということなのかもしれない。歴史という形のないものを可視化する一つの装置が首塚だともいえる。

これに続いて、著者は源平の合戦(の特に平氏側)や楠木正成・新田義貞の首塚について語っている。将門の首もそうだが、誰それの首塚とされるものはたくさんある。もちろんそれらには誤伝も多い。例えば楠木正成の首塚とされる歓心院(大阪府河内長野市)の「御首塚」は、1359年に同寺で死去した新待賢門院の墓だったのではという。しかしながら、簡単には誤伝ともいえない場所も多く、それなりに筋が通った伝承が各地に残されている。歴史的に正成とは縁が浅い北関東にも正成の首塚とされる場所があるが、これすらも正成の縁者との関係があった形跡がある。著者が「正史から追いやられた、あるいは忘却された事実の一端を語っているような気がしてならない(p.152)」と述べるように、たくさんの首塚はそれぞれが正史に異を唱えている。

しかしながら、誰それの首塚とされるものが近隣に何カ所もあるような状況は珍しくなく、「これらの全てが正しいことはありえない」と近世の人でも感じたことだろう。例えば新田義貞の首塚とされる古跡は京都から上野国新田郡(群馬県)までの道筋に4カ所ある。街道を通る人が矛盾を感じなかったとは思えない。このうち群馬県には桐生市と太田市に義貞の首塚があり、これは近接していると言っていい。これをどう解釈したらいいのだろうか。近世以前の人は、著者と同じように史実の真贋は関心の埒外だったのだろうか。異伝同士が矛盾しているから、異伝の説得力が低下しているような気がする。

ただし、数多くの異伝が生まれやすい事情はある。史書では首の処理についてことさら記載されていないことが多いのだ。多くの首塚には、故人と親しかった誰それが密かに首を持ち去って埋葬したという伝説が伴う。これも真実であるかどうか疑わしいが、このような伝説が成立する前提条件があったことは間違いない。つまり晒された首・胴体の処遇を人々は気にしていた。そして首を晒す方に任せていたら満足に弔われない可能性があったということだ。例えば、関ケ原の合戦で西軍毛利家の軍師的な存在であった安国寺恵瓊の胴体は、西笑承兌が引き取りを申し出たが奥平信昌により拒否された(p.213)。重罪人は弔わせないという意思があったのだろう。さらには、晒し首にあった人の墓はちゃんと造営されていなかった可能性が高い。首・胴体が合わさって親族が正規の墓所を作っていたら異伝が生じる余地はない。

ここで、著者は指摘していないが戦死塚の呼称について述べたい。近世以前の戦死塚は、ほとんどが「〇〇塚」という呼称を持ち、「〇〇墓」と呼ばれるのは極めて稀である。なぜ「墓」でなく「塚」なのか。勝田至によれば、中世前期までは墓所は「塚原」と呼ばれており、個々の墓も塚状であることが普通だったという。つまり「塚」の方が古い言葉である。そして中世後期以降に、塚状ではない、我々がイメージする石塔を伴う「墓」へと変化したとされる。先ほど述べたように、戦死塚は多分に近世の産物という側面があるが、石塔中心の「墓」の観念が広まっていた近世に、なぜ墓の古称である「塚」という言葉が使われたのか。

それは、近世の人々にとって戦死塚は「墓」の概念に当てはまらず、むしろ「塚」と呼ぶ方がしっくりくるものだったからではないだろうか。もちろん、戦死塚には実際に塚状になっていた場所もある。特に古墳が誰それの首塚とされているような場合はそうである。ところが五輪塔など石塔が伴っている首塚の方がむしろ多い。これは何を意味するのか。「塚」と「墓」の違いは、形態だけでなく追善の在り方にもある。墓所が「塚」と呼ばれていた頃(中世前期)には、墓所には継続的な追善の祭祀(〇回忌など)が希薄であったが、「墓」と呼ばれるようになると追善法要が普通となった。この違いが「塚」の呼称に反映されているのかもしれない。戦死塚とされる場所は、少なくとも親族により継続的な祭祀が行われていない場所なのである。そもそも、親族により継続的な祭祀が行われていたとすれば、異伝が生じることもない。蘇我入鹿の五輪塔で述べたように、誰のものだかわからない大きな五輪塔があるからこそ伝説が生まれるのである。

つまり、親族による祭祀が継続的に行われている場所は、戦死者が埋められていたとしても「塚」ではなく、それは誰それの「墓」なのではないだろうか。

もう一つ注意したいのは、定義上当然ではあるものの、戦死塚の全てについて、死骸(の一部)が埋葬されているという伝承があることである。実は、中世の石塔は必ずしも墓(遺体・遺骨の埋葬)を伴ってはいなかった。蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔のような、古い時代の石塔は追善のための「供養塔」である可能性が高い。「供養塔」は墓とは違っていくつあってもよく、実際に生前にいくつもの「供養塔」が建てられることもあった。なお生前に建立する供養塔を「逆修塔」ということもある。近世には「逆修塔」の慣習はほぼ途絶えたと思われるが、戦国時代末までにはよく見られる。この時代にはいつ死ぬかわからず、死んでちゃんと供養が受けられるか不安だったからに違いない。

ともかく、古い石塔の場合はそれが墓であるとは限らない。にもかかわらず、戦死塚はかならず墓であると伝承されている。これには3つの要因が考えられる。第1に、「塚」は必ず葬地を指す言葉で、供養塔には当てはまらない。この「塚」の原意が戦死塚に反映されていると思われる。第2に、石塔=墓という近世の常識が戦死塚の伝承の基盤となっている可能性が高い。そして第3に、遺骸が埋葬されているということに人々が霊的な価値を感じていた。「供養塔」ではそれがない。首が埋まっているからこそ、そこは霊験あらたかな場所ともなるのである。

そう考えると、戦死塚の伝承は、「祭祀が途絶えた墓」という不安定な存在を、人々の手によって祭祀を継続させるために生まれたものなのかもしれない。どこの誰かもわからない墓(石塔)に、人々は手を合わせることはできない。一方で誰もそれを管理しないのも気持ちが悪い。だが、「〇〇戦役の犠牲者の墓」ということなら、たとえそこに親族・先祖が含まれていなくても、不遇な最後を迎えた人々のために人々は手を合わせ、それなりに管理していく。あるいは、それが過去の偉人の首塚であるということになれば、地域の歴史を物語る存在として管理していく価値を感じる。これこそが、日本各地に膨大な戦死塚が生まれた理由なのではないだろうか。

念のためいうと、この理屈はすべての戦死塚に当てはまるわけではない。もちろん来歴が確実な本当の首塚もある(例えば藤堂仁右衛門が建立した大谷吉継の首塚(p.196))。それに石塔がない戦死塚がある。例えば関ケ原の戦いの戦死者が埋葬された「東首塚」には塚だけがあり石塔がない。この塚が本当に戦死者の埋葬地なのかははっきりしないが、著者はこの首塚が竹中重門が築いたものとの伝承を紹介し、「家康が竹中重門に命じて首塚を築いたとする逸話は、後世、家康の神格化と竹中家による首実験場の整備が進むなかで、竹中家の先祖と家康との直接的な結びつきを示すものとして生成したのではないか(p.180)」としている。戦死塚伝承の生成には、様々な理由がある。

なお、近世には晒し首されてもその扱いは「お構いなし(=公権力は関与しない)」ということが慣例となり、死体は親族が懇ろに弔うのが普通になったと思われる。そもそも近世は平和な時代なので戦争自体がない。こうなると首塚の伝承はあまり生まれないが、幕末になって世の中が混乱するとまた首塚が生まれるようになった。そして幕末以降の戦死塚は、さすがに来歴が明らかなものが多くなる。それでも西郷隆盛の首がどうなったか異説がいくつか並立しているように、やはり首の扱いには異説があった。人々は首の行方について関心を持っていたが、確定的な情報がないというのは戦国時代と似たり寄ったりだ。

ところで、「千人塚」または類似の呼称を持つ古跡は全国に158例あり、そのうち103例が戦国時代のものである。これまで、戦死塚は多分に伝承的なものという前提で述べてきたが、「千人塚」は真実の戦死者埋葬遺跡である場合が多そうだ。それは、第1にその多くが詳しい築造の経緯を伝承していないこと(伝承が先走っている気配がない)、第2に塚の被葬者がその土地と深い縁を持たないとされること(地域の歴史・アイデンティティとの関連が薄い)、第3に祟りをもたらす存在として地域住民に怖れられていること、からいえる。そして千人塚は、名のある武将の首塚などとは違い、「不特定多数の戦死者の亡骸が一緒くたに埋葬されたと伝えられている(p.285)」。こういう場合、人々は死者は祟りやすいと考えていたようだ。

逆にいうと、仮に戦没など不遇な死を迎えたとしても、しかるべき人からの霊的処遇を受けることができれば祟りの原因にはならないと人々は考えていた。だからこそ中世後期以降の戦争では、敵味方にかかわらず戦後に大規模な供養が行われたのである。その供養は敵味方区別しない博愛の精神ではなく、祟りを怖れる心から行われていたといってよい。しかし死体の処理は間に合わないことが多く、やむをえず地元住民の手によって不十分な供養のまま処理され、それが不気味な戦死塚として伝わったと解釈できる。ちなみに最初に書いたように、こちらの方が私の主要関心である。

ところが、戊辰戦争以降には様相がガラリと変わる。鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩兵の全戦死者は一人ひとり墓標が立てられて供養されているのに、旧幕府軍の亡骸はそのまま放置されたという。「旧幕府側の戦死者のゆくえは諸説紛々としており、正確なことはわからない(p.299)」。

「戦死塚からみた鳥羽伏見の戦いの特徴は、勝者と敗者の戦死者が、同一箇所・手法により埋葬されることが、けっしてなかった点である。換言すれば、勝者は味方の戦死者のみを厚遇し、敵はお構いなしという、それまでの日本の戦争ではほとんど聞かれなかった戦死者の霊的処遇のあり方が、この戦いを契機に出現した(p.301)」。そして新政府側の埋葬地の多くは後年「官修墓地」となった。一方、「賊軍」の側の亡骸は地域住民によって遠慮がちに埋葬された。西南戦争の官軍側の戦死者は靖国神社で「英霊」となっているが、西郷軍側の戦死者は靖国神社では祀られず地元の南洲墓地に眠っている(地元民としては靖国神社などに祀られてほしくないが)。こうした点について、著者は「怨親平等や、勝者が敗者に憐憫の情を注ぐといった中世以来の伝統的な思想や民俗的価値観(p.318)」が無化された結果と考えているが、私はその背景に死者の祟りを怖れなくなっていたことがあるように思う。

なぜ死者が祟らなくなったのか。それは死後の魂の在り方に対する考え方が変わったためと思われるが、これについては機会を改めて考えてみたい。

ちなみに本書の巻末には、大化の改新から西南戦争までの期間に築かれたと伝えられる全国(沖縄を除く46都道府県)の戦死塚の一覧=1686例が150ページ以上にわたって掲げられている。この表がたいへんな労作である。著者は古戦場や城跡めぐりを趣味としており、その過程で知った戦死塚の情報を、自らの専門である民俗学にひきつけてまとめたのが本書とのことだ。文献だけでなく、実際に現地に行っているのに大変価値がある。

戦死塚から敗者への処遇を考える、足で稼いだ労作。

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の墓と葬送』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2026/03/blog-post_30.html
日本中世の墓と葬送について書いた本。葬送の本質について史料と民俗で迫る労作。

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2026年5月31日日曜日

『仏教土着――その歴史と民俗』高取 正男 著

仏教と民俗宗教の関係を考察する本。

本書は、昭和45年のNHKラジオのFM文化講座「日本民俗学の課題」の一部をまとめたもので(それにしても昔のNHKFMは硬質なテーマを放送していた)、仏教が土着するとはどういうことかをいくつかの題材で考察している。

日本人の信仰はまことに雑駁としたもので、そこには仏教にない要素が多分に含まれていた。しかし多くの日本人は、正月や盆の行事、民俗芸能、日常生活の隅々にあった俗信をまさに仏教の一環であるとも認識してきたのである。西川如見は「町人嚢」のなかで「日本にての聖霊祭の躰も、一向に仏法のみを用いたるものにあらず、みそ萩、青萱の筵、土器(かわらけ)、麻(お)がらの箸など、唐天竺の様子にはあらず、神道の躰なりといへり(p.21)」と述べている。如見がこう述べているということは、一般的にはそれが仏法に基づくものと認識されていたことを示している。なお、そういう儀礼は神道のものだ、というが実際には神道でもなく、今でいう民俗信仰であった。

前近代の社会において、民俗信仰こそ民衆の生活を強力に規定していた。廃仏毀釈で仏教を全廃した旧苗木藩領(岐阜県加茂郡白川町)では、仏教を棄てて100年にもなっているというのに(※本書刊行当時)、その死後の世界についての考え方はほとんど周りの村と変わらない。これは、人々が仏教を棄てたつもりで捨てきれなかったというより、そもそも彼らの他界観が仏教の理論に基づくものでなかったからだと解釈できる。この強力な民俗信仰を無視しては仏教は土着できなかったはずだ、というのが著者の考えである。仏教は「民俗信仰と妥協し、さらにはそれと離れがたく結びついている(p.30)」。

しからば民俗信仰とは何か? これがなかなか難しい。民俗信仰には一貫した理論もそれを唱道した人物もおらず、とらえどころがない。例えば7歳までに死んだ子供の埋葬を大人とは違う墓地にしたり、家の床下に埋めるといった村があったが、これは何に基づくのか。明らかにその観念の基盤は仏教ではない。著者はこうした行動を「早く生まれ変わってほしい」とか逆に「遠くの仏の世界ではなく近くに留まっていてほしい」といった願望の現れとしているが、実のところその理由は不明というほかない。なお縄文時代の竪穴住居の入り口の床下に幼児の遺体が埋葬されていた例もあるそうだ。

民俗信仰と仏教の関係を考察するために著者がとりあげる題材が、鹿児島にあった「カヤカベ教」という民俗宗教である。薩摩藩では一向宗が禁じられていたため、一向宗を奉じる人々は隠れ念仏を行っていた(※著者は「かくし念仏」と書くが、ここではより一般的な「隠れ念仏」とする)。本願寺(本山)は秘密裏に信徒を組織していたが、弾圧が激しくなった時期に本山との連絡が途絶えた地域があり、そこでは独自の念仏信仰が発展した。そうしてできた信仰が霧島の牧園町・横川町にあった「カヤカベ教」の名で呼ばれるものである。

「カヤカベ教」は他称で、その教徒たちは「牧園横川聯盟霧島講」と呼ぶ。表向きは霧島講(霧島信仰、霧島修験)の形をとり、大正や昭和の初めでは霧島神宮側は彼らを「萱壁組合」とか「萱壁講」とか呼んでいた。このほか彼らは、カヤカベ教を「吉永どんの宗教」とも自称してきた。藩当局の弾圧がもっとも激しかった時期に教団を主宰したのが親幸という人物で、彼の俗名を吉永市蔵といい、その死後、教祖の地位をその直系の子孫で継承したことで「吉永どんの宗教」というようになったのだという。

カヤカベ教については、龍谷大学が昭和39年に調査団を組織して調査を行い、その結果は『カヤカベ かくれ念仏』(法蔵館)としてまとめられた。著者はこの調査団の一員であったため、本書ではカヤカベ教についてかなり詳しく紹介されている(一般向けの本では本書が一番詳しいかもしれない)。

カヤカベ教では、牧園が11、横川が6つの「郡(こい)」という組織に編成されていた。一般の平教徒は「御同行衆(ごずぎょうしゅう)」と呼ばれ、その中の信心堅固なものが「知識」に昇格し、さらに郡ごとに「郡親(こいおや)」というリーダーが選ばれた。法会や葬式はこの郡親が主宰する。数個の郡を統括するのが「中親」で、教団運営の相談役として「取次ぎ」がいる。調査の時点で、郡親20数名、中親8名、取次ぎ3名がいた。このほか調査以前には、霊媒的な役目と考えられる「杓取り」という女性がいた。これらの役職は一代限りで終身であった。親幸の妻靏亀(つるかめ)も霊媒的な体質で、彼女は後に親幸と別れてカヤカベ教の別派「権次法」をつくった。

カヤカベ教は基本的には浄土真宗の教義を踏襲しているが、「オツタエ」という口承で伝えられてきた説教(法話)が興味深い。これには「仏法のはじまりや天地の開闢、聖徳太子の治世、法然・親鸞の事蹟から石山合戦、さらにはこの教えが起こり、伝承する過程での宗教坊や親幸の事蹟など(p.85)」が含まれた全13種が伝えられている。また、独自の教義として鶏肉を絶対に食べないことがある(知らずに鶏肉を食べても浄土には行けない、という)。著者は、隠れ念仏を偽装するためにことさら戒律を強調した結果、このような教義が生まれたと考えている。このほか、「お書物」と呼ばれる文書が残されている(後述)。

カヤカベ教に入信するためには、郡の全員から承認を受け「ヒキイレ」という儀式を行う。その他生活全般にわたる様々な儀式が用意されているが、特に葬式は注目される。教徒が亡くなるとその衣類を郡親の元に持参し、その衣類を一種の御霊代としてお座がたつ。そして葬式を行い、夜に納棺する。さらに翌日、タユドン(太夫)などと呼ぶ神職を呼んで神式による葬式を行う。神葬祭は、明治以降に加わった偽装のための葬式と思われる。このように二重の葬式をするのは、浄土真宗が解禁された明治以降にも彼らが隠れ念仏をしていたからである。

「お書物」には、親幸が教徒たちに回覧させた文書が含まれており、これは一種の冥界通信であった。親幸は亡くなった教徒がちゃんと浄土へ行ったか知らせていた。面白いことに信心堅固なものほど短い時間で浄土へ到達するとされていた。親幸は3日ほど寝続けることがあり、そういう時に親幸は「霧島の神に連れられて浄土へ行っていたという(p.103)」。しかし彼は阿弥陀如来に近侍したのではなく、薬師如来・伊勢・霧島六社権現・聖大明神が阿弥陀如来の言葉を次々に取り次いで親幸に伝えた、というような形で書かれた文書が多い。かと思うと、「かいの崎(健崎)」の庄兵衛の父親の次太郎(過去の往生者)は阿弥陀如来に近侍しているとされ、この次太郎を取次ぎとして阿弥陀如来に相談がなされてもいた。

ともかく、教団内で何か相談事があると、親幸に願い、親幸から霧島六社権現、権現から伊勢、伊勢から阿弥陀如来といった形で願いが累次に取り次がれ、阿弥陀如来からの回答はこの逆ルートで伝えられた。教団の組織運営に関することはこうした手続きが厳重を極め、文政11年の「御状」はその極致である。曰く「(杓取りに復帰させてくれという)春菊とお末の願いについて、御聖大明神と上積大明神の二神が86人の供衆といっしょに、二度と取違いはさせないと起請文を書いて、霧島六社権現に願い、それを受け取った霧島権現は、自分たち一存ではできないといって、日向の大当の権現以下の三神と相談し、2516人の供廻りと起請文を書いて伊勢に願い、伊勢の神は5032人の供廻りと起請文を書いて、阿弥陀如来の取次役に願い、取次役は供廻り2万65人と言葉をそろえ、起請文を書いて如来に差し出した(p.112)」。この要望を受けた阿弥陀如来は、二人を帳面に書き込むと帳面を汚すことになるといって、新しく名簿を作り直すことを命じ、玉突き的に人事の変更が行われた。

これに対し著者は「こういう託宣類似のことが、真実をこめて書上げられている点に、当時、カヤカベ教徒のおかれていた状況が、悲しいまでに反映している(p.113)」とするが、その「状況」とは何を意味するのか。また詳細は割愛するが、カヤカベ教の人事はなかなかうるさく、先ほどの「杓取り」復帰が重大な問題となったように、複雑な組織機構を備えていた。そしてこのような重要文書は、普通教祖か中親のもとで保管されていると思いがちだが、実見できた3か所は全て女性の有力平教徒のもとであった。このことはカヤカベ教の組織が単純なピラミッド構造ではなかったことを窺わせる。

普通の民俗宗教は、全体として一貫した理屈がなく、特定の唱道者がおらず、宗教のための上意下達的な組織がない(ただし講のようなものはある)。そういう意味では、カヤカベ教はむしろ仏教諸派のような唱導宗教に近い。親幸という教祖がおり、教祖が伝えとされる物語が信仰の中核となっていたのは、民俗宗教というより唱導宗教の特徴だ。

親幸は霊媒気質で、見てきたように異界を話す人物だったのだろう。今でも鹿児島にはそういう人がときどきいる。カヤカベ教はまさに「吉永どんの宗教」すなわち「親幸教」であったのだろうと私は思う。カヤカベ教が、元来は隠れ念仏であったというのは疑い得ない。ところがカヤカベ教は京都の本山を不審のまなざしで見ており、「本来の教えを伝えているのはこちらだ」という意識が強い。これは何を意味するか。カヤカベ教は確かに弾圧されていたが、それは藩当局からではなく、本山からだったと考えた方が理に適う。

おそらく、隠れ念仏に対する藩当局の弾圧が激しくなった時期に、この地域の隠れ念仏信徒と本山との連絡が途絶え、そこに現れたのが親幸であったのだろう。親幸は阿弥陀如来とつながり、本山以上の権威を作り上げた。そして親幸自身の仕事であるかどうかはともかく、信徒を本山とは全く違う形に組織した。その組織原理は、秘密保持というよりは権威の演出に大きな力が割かれているように見える。また故人が浄土へ往生できたかの決定権を親幸が持ち、往生にかかった時間によって教徒をランク付けした。こういう教団を、本山が異端として排撃しないわけがない。鹿児島の一向宗弾圧は、常に行われていたわけではなく、激しく弾圧された時期とそうでもない時期がある。そうでもない時期には本山は信徒とそれなりにつながっていた(でなければ隠れ念仏自体が不可能である)。であるから、カヤカベ教を本山が矯正しようとした可能性は大きい。

とすると、カヤカベ教の幹部としては本山に対抗する必要があっただろう。そのために作られたのが、天地開闢からの歴史を物語る「オツタエ」や、累次の神仏の取次ぎだったように思われる。一見荒唐無稽な神仏の取次ぎは、親幸・教祖の超越的な権威を強調するためのストーリーではなかったか。少なくともこれは秘密保持とは何ら関係ないのは明らかで、むしろどこか遊戯的な要素も感じさせる。ちなみに取次ぎに登場する「聖大明神」はこの地域にある地元の神社の神である。地元の神社の神から阿弥陀仏までがつながり、それを手中にしていたのが教団幹部だった。

そして本山がいう真宗の教義は多分に理念的・形而上学的であるが、カヤカベ教のそれは即物的・具体的だ。「どんな悪人でも一度でも南無阿弥陀仏と唱えれば往生できる」といわれるより、「私が浄土に行って確かめたところ、故人は浄土まで3刻かかったがようやく到達できた。日頃の信心のおかげだ」といわれる方が納得感がある。この納得感を武器に本山に対抗して出来上がったのがカヤカベ教であったような気がしてならない。このように考えると、カヤカベ教は、藩政府だけでなく本山からも隠れていた隠れ念仏なのではないか。

この仮説を裏付けるように、はじめ龍谷大学の調査団が村に入った時、教徒たちは「ある種の恐慌といってよい状態(p.99)」となった。彼らは本山が「むりやりに「折伏」しに来たと判断した(同)」のである。藩政府からの弾圧を気にする必要がなくなった信教自由以降も彼らが隠れ念仏を続けたのは、本山の存在が都合が悪かったからと考えるほかない。

本山という理論的支柱から決別した時、土俗的なコミュニティがどう宗教性を発展させるかという実例がカヤカベ教なのかもしれない。カヤカベ教では、「真宗教義の土俗化したものという言葉だけでは説き明かせない厳しい宗教性が、教徒たちの日常生活を貫いていた(p.99)」と著者はいう。迷信といえばそれまでだが、先述の「鶏を食べない」をはじめとして、カヤカベ教では各種の生活規定(戒律)があり、それを厳しく守っていた。他方よく言われるように、真宗は仏教諸派の中では最も迷信を拒否した宗派である。真宗では阿弥陀仏の絶対性が強調され、それ以外を些事として退けた。結果として、真宗では他の仏教諸派がうるさく言うような細かい儀礼や生活規定をほとんど否定し、信心のみを強調した。真宗の根本である念仏すらも、ああしろこうしろという規定はなく、一生に一度でも唱えれば阿弥陀仏は必ず往生へ連れて行ってくれるという。

そして真宗では「(他力に頼るほかない)悪人こそ阿弥陀仏は救ってくれる」という悪人正機説を強調した。ところが、こうした真宗教義は、真面目に生きている真宗門徒にとってそれほど魅力的でも信仰しがいのあるものでもなかったように私には思える。もちろんそうした教義は、悪を重ねなければ生きていけない人々、自力救済はできそうもない人々に真正面から向き合って形作られたものではあった(それに真宗では、すべての人は悪人だと喝破した)。しかし真面目に生きている(と自認する)人からすれば、そうした教義は何か物足りない。日頃の生活で戒律を守り、信仰に身を捧げている人こそ救われる方がずっと信仰のしがいがある。つまり「信仰しがい」が自然に発展していったのがカヤカベ教だったのではないだろうか。少なくとも、南無阿弥陀仏と唱えるだけの抽象的な救済よりも、鶏を食べないなど具体的な戒律・生活規範を守れば救済されるという方が、内的な安心感(=これだけやっているのだから大丈夫という確証)を得やすかったと考えられる。

著者は「真宗教義の土俗化したものという言葉だけでは説き明かせない厳しい宗教性」がカヤカベ教にあるというが、むしろ土俗化しているからこそ厳しい宗教性が発展していったと考える方が自然である。

話が飛躍するようだが、日本の部活動ではおそろしく厳しい修養が行われることがある。厳格な上下関係、挨拶と礼儀、道具に対する手入れ、グラウンド・体育館の徹底的な清掃、まるで苦行のごとく自らを追い込むこと、先輩や親・指導者への感謝の強調、生活規律(服装・時間管理・身だしなみ)の遵守などは、ほとんど宗教のようである。そしてこれは、著者がいう「宗教の土俗化」を象徴的に表しているような気がする。スポーツ科学に基づいた指導を行う本当の一流校ではこういうことは少ない(と聞く)が、ちゃんとした指導者を得難い田舎の伝統校でこそこうした厳しい修養が行われることが多い。これは、合理的な指導・理論に基づいた訓練よりも、精神性や根性論が優先されがちな日本の「土俗性」を示しているのではないだろうか? かつて部活動生が丸刈りだったのも、得度に際し剃髪していた仏教の在り方と共通する心象があったように思う。このように、部活動には土俗性と宗教性が同居していたと私は考える。そしてカヤカベ教の変容は、部活動と通じるものがあるように思えるのである。

つまり、宗教の土俗化とは、高僧の高邁な理想が堕落してしまうことのように思えるが、実際には、民衆が自ら望んで宗教を「スパルタ式」にしていくことなのかもしれない。民衆は様々な生活規定・禁忌を生み出す。そして理論に通じた高僧がいないことで、そういう何の根拠もない「迷信」がいつまでも退けられず、徐々に規定が累積して生活ががんじがらめになってしまう。実際にカヤカベ教は、そういう状態に陥っていた節がある。彼らが龍谷大学の調査をしぶしぶながら受け入れたのは、「鶏精進をはじめ不可解な禁忌の数々を守り、深夜の儀式を維持する後継者の育成は、不可能になりつつある(p.100)」という現状があったからだった。「この宗教が早晩消滅せざるをえないことは、どのように信心堅固な老人でも、ひとしく認めるところ(同)」であったのである。「水は飲むべきだし、練習はやたらにすべきでなく適度な休息が必要」などといってくれる「権威」がない状態では、日本人の土俗性はどんどん迷信を生み出しそれが厳しく守られていく傾向にある、ということは部活動が示している。だからこそある種の部活動は特別な人にしか選ばれなくなるのである。カヤカベ教と同じように。

ところでカヤカベ教では、本山には親鸞の「カチビル」すなわちミイラが安置されており、心だけ浄土に行ったとしている。なぜ親鸞のミイラがあると考えたのか不明だが、著者は湯殿山の即身仏などと類比し、これは古い民俗に基づく観念(信仰上のアタヴィズム(atavism 先祖返り))ではなかったかと述べている。即身仏とは、自ら命を絶ってミイラ化することであるが、上述の部活動的土俗性と、自ら命を絶つという究極の献身が相性がいいことは首肯されることだろう。

ところで、カヤカベ教と部活動を類比することは大変失礼な見方であるかもしれないが、部活動で育まれた人間性は本物であるとも私は思う。ほとんど宗教的とさえいえる部活動での人格陶冶は、決して迷信でがんじがらめになった人間を生み出すのではない。むしろ合理的なスポーツ科学によるトレーニングによって人格が陶冶されるかどうかの方が怪しい。そちらの方がスポーツの技能は向上するかもしれないが、やはり挨拶・儀礼・感謝・報恩のような部活動的指導の方が、人格面では有効だと思う。同様に、理念的・形而上学的な本山よりも、カヤカベ教の方がもしかしたら宗教的にはすぐれた内実を備えていたかもしれないのである。それが迷信や禁忌だらけだというだけで。

これに関し、著者は呪術について一章を設けて考察しているが、そこで非常に重要な指摘がある。曰く「科学が事物に潜んでいる法則を運用するように、呪術は事物のなかにある呪力を利用して現実の目的を達成しようとするからで、呪力という超自然の存在を前提にしながら、それに対する礼拝や祈願を含まないのが呪術本来のありかたである(p.157)」。つまり呪術は元来精神的なものでなく、科学的な論理に基づいているというのである。

私は「水を飲むな」と言われた時代の人間だが、それは部活動生を苦しめるためでなく「水を飲むとかえって疲れる」というのが理由だと言われていた。「水を飲むな」という「迷信」は、「水を飲むと疲れやすい」という一応科学的な論理に支えられていたということになる。ところが、次第に「水を飲むな」は、「苦しさに耐えろ」という精神論にすり替わっていった節もある。このように、土俗性は科学を精神化してしまいがちだ。著者が「礼拝や祈願を含まないのが呪術本来のありかた」というように、実際には礼拝や祈願を含む呪術へと転化しがちだった。

これを土俗宗教と仏教の関係に応用して考えると、部活動に対する科学と、土俗宗教に対する仏教は同じ位置を占めていることになる。「水を飲むな」が近年否定されたのは、水を飲まないと熱中症になるという科学の力であった。同じようにカヤカベ教を否定しうる力を持っていたのは仏教すなわち本山なのである。だからこそカヤカベ教は本山から隠れた。広範囲に組織化され、他宗との論争で鍛えられた教理持ち、普遍的な力を持っている仏教諸派は宗教というよりは科学なのだ。西洋で近代の科学革命を担った人々の多くが神学の徒であったことも想起されよう。

そして、雑多な迷信に覆われてはいても、土俗宗教の方がより「宗教」的なのかもしれない。ではその「宗教」を支えていたものは何か。著者は「人間個々人の意志力は、えらばれた人以外はけっして強いとはいえない。にもかかわらず、あれほどの言語に絶する苦患を加えられながら、なおも不退転の信仰と結束力を保持しえたのは、そこに村の全生活がかかっていたからという以外にない(p.79)」という。彼らの「宗教」は、確かに村というコミュニティに支えられていた。つらい部活動に耐えられるのも、仲間と運命共同体になっているからだ。つまり彼らの「宗教」を支えていたのは教義ではなく、仲間・コミュニティの存在であったと考えられる。教義に基づいた部派宗教は今でもそれなりに存続しているものの、民俗宗教が事実上壊滅してしまったのは、それが依拠していたコミュニティの崩壊に基づくのだろう。仲間内でしか通用しない理屈で作られた民俗宗教は、人々の行動範囲が広くなるだけで存在が危うくなる。

かつての精神的な「部活動」も、健全でスポーツ科学に基づいた「地域スポーツクラブ」へと変わりつつある。それが宗教からの土俗性の払拭と軌を一にしているといったら大げさだろうか。

カヤカベ教から宗教の土俗性を考える啓発的な本。

※今回の読書メモでは仏教の土俗性についての考察を中心にしたため、「呪術と宗教」「楽園恢復の願い」の章についてのメモは割愛した。

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2026年5月15日金曜日

『死者の救済史―供養と憑依の宗教学』池上 良正 著

民衆宗教を死者への対応の視点から再考する本。

本書は、「救済史」を冠しているが歴史を述べるものではなく、著者の宗教についての考え方を述べるもので、前半は供養、後半は憑依について述べ、最後に供養と憑依が共通の土台に基づくものであるとしてまとめている。

著者の日本の民衆宗教についての基本的考えは、「苦しむ死者」「浮かばれない死者」の魂をどうにかして「安らかな死者」へと救済することが期待されていた、とするものだ。

しかし著者自身も控えめに述べているが、古代の日本人が死者を「救済を必要とする存在」として認識していたかどうかは定かでなく、この前提が成立していたのかどうか疑わしい。

次に、「苦しむ死者」「浮かばれない死者」への対応として2つのシステムがあったと著者は考える。第1に〈祟りー祀り/穢れ―祓い〉システム、第2に〈供養/調伏〉システムである。第1のシステムは、祟る死者を祀ることによって慰霊するか、もしくはその死者が穢れているとして祓うという考えを表しており、著者はこれは仏教以前からある在来のものであると見なしている。第2のシステムは仏教による対応である。そしてこの2つのシステムは排他的なものではなく、在来の第1システムの上に第2システムが付け加わって、多彩な死者との向き合い方が生まれたと著者は考える。

ここでも著者は、第1のシステムについて仏教以前に死者が祟ると考えられていた証拠はないと一応は述べるが(p.41)、それでもこうした考えが在来のものであったとして話を進めている。しかしながら、証拠がないものを前提にするのは腑に落ちず、「苦しむ・浮かばれない死者を救済する」という前提も含め、著者の考えは図式が先行しており、史実への立脚が薄弱であるように感じた。管見の限りでは、〈祟りー祀り〉が現実化するのは平安時代以降で(古代において祟るのは死者ではなく神である)、また〈穢れー祓い〉は古代には死者に対して適用される観念ではない(死・死体は「穢」の一つであったが、それを「祓う」という対処法がない)。このように、著者の措定する図式は堅牢なものとはいいがたい。

それはともかく、こうした考えの下に『日本霊異記』で「苦しむ死者」がどう考えられていたかを分析し、続いて『法華験記』『沙石集』などから、その対処法がどう変わってきたかが述べられている。その要諦は、読経・念仏・造像・写経のような追善行為によって、自業自得・因果応報という自己責任で個人の行いによって完結していた死後の在り方が、他者からの働きかけでどうにかできるものに変換したのだ、ということである。読経・念仏・造像・写経といった行為は、本来は仏や僧侶への供養(布施)なのであるが、これが「死者への供養」と変換されていることも注目される。なお、このことを著者は「死者との個別取引」と呼んでいる。

このような変換によって、死者は「仏法による済度を願う弱者の地位(p.79)」になったという。一方で、生きている側にとってみれば、苦しむ死者などにおびえる必要がなくなったということになる。悪霊が現れたとしても、仏法によって調伏=救済できるのであれば怖れるに足りない。実際、「信長、秀吉、家康などの武将は、多くの敵味方の将兵の屍のうえに政権奪取をなしとげたにもかかわらず、日ごと夜ごとに怨霊に悩まされるということは、もはやなかった(p.92)」。『太平記』などの軍記物には、怨霊などにおびえず「俺の施しによって成仏させてやる(p.101)」といった「平安時代の貴族たちとは、根本的に異なる精神性(p.99)」が描かれている。そして亡霊の方も「むしろ大般若経の読誦を受けたことに感謝して、成仏してしまう(p.108)」。

だからこそ幽霊・亡霊などを手軽に扱えるようになったという側面があり、近世には怪談・怪異文学が全盛期を迎えることになった。ただしそこに描かれる幽霊は、成仏だけを願う存在ではなく、自由奔放にふるまっている。能のようなある程度類型化した世界と民衆が考えていた幽霊の世界はちょっと違うようだ。

さらに、著者は目を世界の民俗宗教に転じ、「世界宗教の土着化」の問題を探るテーマとして死者の供養を考察している。イスラーム圏、ロシア、ラテン・アメリカが取り上げられ、これらの地域では世界宗教を受け入れつつも土着の考えと融合したあり方で死者を扱っていることが指摘される。いわゆる世界宗教では、個別の死者を弔うことに大きな意味を付与していないが、結局、人間というものは死者に対して何らかの慰霊を行いたくなるものである。

なお、キリスト教では死者の魂の行方は元来「最終審判における天国と地獄」とイメージされていたが、これでは遺族による慰霊・供養の余地はない。そこで中世では、「とりなしの祈り(代禱)」とよばれる生者の力添えによって、人が受ける苦しみが軽減されるような中間的来世である「煉獄」が考えられるようになった。仏教の地獄も時限的であって生者の働きかけで苦痛が軽減されるという意味では同じであるから、地獄と煉獄は共通の性格が認められる。そして煉獄の存在によって、キリスト教圏でも日本の民俗・民衆宗教と似たような「死者供養」が行われているから、「比較供養論」=「比較煉獄論」が可能になると著者はいう。

次に考察の対象になるのが「憑依」である。まず「憑依」という言葉が研究史においてどう使われてきたのかを述べ、キリスト教での神の啓示などが事例に挙げられてその問題が提起される。それを簡単に述べると、「憑依」というと悪霊や苦しむ死者が「憑く」もので、神や仏の示現を宗教者が受け取る場合は「憑依」とは表現されないが、その両者に実質的な違いはどれほどあるのだろうか? ということである。これは現代の研究者の持つバイアスであると同時に、史料にも見出せる固定観念である。怨霊やもののけ相手だと「つく」「くるふ」「霊病」「物ぐるひ」などと表現され、神の場合は「つく」「託す」「のる」「かかる」「おりる」などと表現されているからだ。もちろん、憑依と神託では若干違う部分も見られるが、共通性の方が大きいと著者は考え、その境界は不明瞭だという。

そこで著者は「憑依」という語をより広い意味で定義することを提案し(その定義自体はここでは割愛する)、ケーススタディとして『比良山古人霊託』が取り上げられる。21歳の女性に憑りついた比良山の大天狗との問答記録である。ここで著者は「憑依」の文脈から離れ、問答自体の興味深い点をいくつか指摘している。問答者は天狗から要人や知り合いが死後に得脱・往生できたかどうかについて聞き出そうとしているが、天狗はある種の人々を「天狗道に堕ちた」と言っているのが面白い。鴨長明『発心集』にも天狗になった僧侶の事例が掲載されているが、日本人は僧侶が得脱に失敗して転生する場所として「天狗道」をイメージしてきたらしい。元来、転生先には天道・人間道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六道しかなかったのだが、阿修羅道のような存在として「天狗道」が付け加わったのである。

仏法に帰依しているならば人間道以上に転生することが期待されるものの、行いがあまりよろしくない僧侶についてはそうなっていてほしくない、という人々の期待が「天狗道」を生んだのではないかと思わされる。そして天狗道は、僧侶であるにもかかわらず、現世に激しい執着と怨念を抱いて死んだものの行先でもあった。つまりキリスト教圏の人々が「煉獄」を必要としたように、日本人は天狗道を必要としたのかもしれない。天狗は、仏法に詳しく、験力があり、死後の運命や他界の様子について知っており、そして人に憑依する。このある意味なんでもありの「境界的性格(p.186)」が天狗道を特徴づけている。

そしてここで重要なことは、天狗道という仏教の経典には現れない存在が憑依によって一般人の口から語られ、それが職業的宗教者の言よりも重んじられていた、という事実である。これは他の文化圏でも当てはまる。人々は教理よりも憑依を通じて霊的世界を知れると考えていた。そして「仏教的世界」と「巫者的世界」は別に存在していたのではなく融合していた。

ここで著者は無住の『沙石集』『雑談集』を分析の対象とする。僧侶が「夢」で「示現」を受けるエピソードを示し、それが実体として憑依の一種とみられるにもかかわらず、その正統性をアピールするために「夢」や「示現」といった用語が使われているらしいことを指摘する。そして高僧に死人の霊が取り憑いた事例を示す。つまり憑依は巫女のような下級宗教者とか平信徒だけでなく高僧にも起こりうる現象で、やはりそれは霊的世界へのチャネルとして扱われていた。だからこそ職業的巫者である巫女が、仏僧に拮抗しうる力があるとして認められていたのでもあった。そうした女性は「一方では「霊病」などといわれながらも、一定の仏教的教義を武器に、絶大な評判を得ていたことが推察される(p.222)」。

「憑依」が霊的世界へのチャネルであるとするならば、「供養」もそうだというのが著者の考えである。そして憑依で重要なことは、物狂いの状態になった時に、「憑依した霊的存在に名前をつけ、体験それ自体の存在価値を言語化する行為(p.229)」を行えるか否か、ということである。つまり単なる物狂いになっただけでは錯乱と変わりない。それが誰それの霊であるということが合理的に解釈できるかどうかが大事なのである。

「苦しむ死者」を自らに憑依させて要求を聞き出し、それに応じて供養を行うということは、霊的世界と現実世界を合理的に繋いでいることになる。そこに、教理的な宗教が担えない部分が存在している。近代では、憑依は主流派の宗教からは排除され、いかがわしい存在と扱われがちであるが、かつては憑依を介して死者の世界と現世とを繋いだ行者的な人々が大きな役割を果たしていた。現代でもそういう霊能者は存在しており、本書では密教系の女性僧侶の活動が例として取り上げられている。彼女は、霊が今どうなっているかを代弁し、残された人にどうして欲しいかを伝える。それは、苦しむ霊を救済するというよりも、残された人(ここでの例は子どもを失った女性)を救済する行為なのである(著者は指摘していないが)。

それは、憑依や供養がどう発展してきたのかを示唆している。それは「苦しむ死者」を「安らかな死者」に変えるというより、生と死の世界を統合した解釈を提供し、死者に執着して苦しむ生者をこそ救済するためにあったのではないかということだ。憑依や供養といった「死者との個別取引」の回路は、本来はどうにもならない「死」という現実を、事後的に働きかけることによって救済することを可能とし、そしてそのことによって生者にこそ救済を与えたのである。

供養と憑依をキーにして死者と生者との関係性を再考する変わった視点の本。

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2026年5月7日木曜日

『悟りと葬式――弔いはなぜ仏教になったか』大竹 晋 著

仏教による葬式や追善がいかにして始まったか述べる本。

仏教は、本来は個人の悟りを求めるものであったが、徐々に葬祭や追善を担うようになった。つまり死者のためのものになっていった。これは日本だけでなく東アジアに広く見られる。

ではそれはどのようにして、なぜ始まったのか。本書は極めて広い視野で経典を渉猟し、その次第を明らかにしている。具体的には、スリランカや東南アジアに現存している上座部のパーリ語三蔵、インド本土に展開していた説一切有部の漢訳・蔵訳の三蔵、そして大乗仏教の諸文献を動員し、布施・葬式・戒名・慰霊・追善・起塔についてその始まりを述べる。

なお、本書では出家者と在家者を明確に区別して扱っている。日本の場合は在俗出家があったためこの区別はあまり意味がなくなったが、元来の仏教ではこの区別は重要だ。

「第1章 布施の始まり」では、布施を成り立たせている論理が述べられる。

仏教の元来の目標は、煩悩を断ち切って輪廻から脱することにある。では在家者が出家者に布施という贈与を行うのは、この目標にどのように位置づけられるのか。

出家者が出家するのは、煩悩を断ち切るためである。では在家者はどうか。在家者は、煩悩を断ち切ることはできないが、来世ではせめて善趣(天・人間)に生まれたいと願う。そこでインドでは出家者に布施をするという副徳を積むことによって善趣への転生が図られるようになった。この背景には聖者崇拝がある。なぜ聖者に布施を与えることが「大きな果/報酬(←本書に頻出する用語。ここでは善趣への転生を表す)」となるのか。その理由は経典には述べられていないが、聖者への帰依そのものが重要であったようだ。つまり布施は「決して、出家者が在家者に提供してくれるサービスに対する代価ではない(p.30)」。しかし後に、葬式、戒名、慰霊、追善、起塔を出家者が提供するようになり、布施がそれらに対する代価としての性格を持つようになった。

「第2章 葬式の始まり」では、仏教が葬式を担うようになった次第を4つのケースに分けて論じている。

4つとは、(1)出家者が出家者の葬式を行う、(2)在家者が出家者の葬式を行う、(3)出家者が在家者の葬式を行う、(4)在家者が出家者に布施を与えて引導させて在家者の葬式を行う、である。

(1)出家者が出家者の葬式を行う

インドでは元来、出家者の遺体は路傍に捨てられていたらしく、『摩訶僧祇律』には「捨て去るべき」と規定されてさえいる。だが在家者の遺体は捨てられておらず、出家者の遺体遺棄は在家者から白い目で見られていたと考えられる。そこで在家者との軋轢を避けるため、出家者は仲間の遺体を葬るようになった。

中国では出家者の遺体は遺棄されていなかったと考えられ、唐代の道宣は「法王(ブッダ)と転輪聖王(帝王)とはともに火葬による(p.40)」と指示している(『続高僧伝』)。通常の出家者は林葬によったらしい。また北宋では禅宗が広まり、その教団運営規則「清規」で出家者の葬送法が規定された。

日本では平安時代以前は土葬が行われていたが、平安時代では穢の思想から死体遺棄が行われた。しかし出家者の遺体は火葬されるようになっていった。

(2)在家者が出家者の葬式を行う

インドでは、亡き出家者が阿羅漢である場合に在家者が出家者の葬式を行うようになった。『ディーガ・ニカーヤ』大般涅槃経では如来と転輪聖王を葬式することが述べられている。スリランカを訪れた法顕も阿羅漢の死者を在家者の国王が行ったことを報告している(『高僧法顕伝』)。またその際、四つ辻に塔を建てることも行われたらしく(『根本説一切有部毘奈耶雑事』)、遺体供養とは葬式と起塔とを含む概念であった。

南方(スリランカ)では、出家者は自らが聖者であると主張することが律によって禁じられていた。よって亡き出家者が聖者かどうかはわからなかったが、周囲の人によって聖者であると目される場合は葬式が行われるようになった。

中国でも同様であるが、これはインドや南方からの影響ではないらしい。中国では在家者と出家者がともに葬式を行ったと思われる。智顗の葬儀の場合は出家者と在家者が遺言に基づいて彼の遺体を龕に納めて墳墓に保存した。

日本では、在家者が出家者の葬式を行うことはほとんど考えられなかった。そもそも日本では聖者と目されるような出家者はあまり現れなかった。

(3)出家者が在家者の葬式を行う

インドでは、亡き在家者が阿羅漢である場合に出家者がその葬式を行うことが説一切有部において考え出された。しかし阿羅漢でない場合は葬式の対象とならなかった。8世紀には後期密教の『グヒヤサマージャ・タントラ』などに基づき、異生(=凡夫)の場合も出家者が葬式を行うようになった。

中国でも、インドからの影響ではなく、異生の葬式を出家者が行うことが考え出された。その最古の例は5世紀に曇遷が在家者の葬式を行ったものである。唐においては道宣が在家者が父母兄姉の場合に出家者がその葬式を行うことを認めている。

日本でも、中国からの影響ではなく、異生の葬式を出家者が行うことが古代に考え出された。

(4)在家者が出家者に布施を与えて引導させて在家者の葬式を行う

これはインドでは考え出されなかった。インドでは家庭行事において出家者に布施を与えて儀式を行ってもらうことはあったが、引導(亡者を導く)はしなかった。

南方でも同様である。僧侶が葬式に呼ばれても、それは引導のためではなく悪魔を追い払うためだった。

中国では北宋の初めころから在家者の葬式に出家者が訪れるようになったが、これは法語を与えて道理に気づかせることが目的であった。禅宗の出家者は悟り体験によって聖者の力を持っていると見なされており、その力が期待されていたが、これは引導そのものではなかった。

引導が考案されたのは日本においてである。その確実な最古の記録は9世紀の醍醐天皇の葬式である。さらにそれに先立って『都氏文集』には仁寿2年(852)に出家者に呪願させて在家者の葬式をしたと見なせる記録がある。引導は、元来は阿弥陀仏や勢至・観音に亡者を導くことをお願いするものだったが、鎌倉時代に禅宗が伝来すると、掩土や下火にあたって亡者に法語を与えることがそのまま引導であると考えられるようになり、そうした儀式は多宗派も模倣した。

「第3章 戒名の始まり」では、戒名が与えられるようになった次第を2つのケースに分けて論じている。

2つとは、(1)出家者が戒を授ける時、(2)出家者が亡者に戒を授ける時である。

(1)出家者が戒を授ける時

インドでは、戒名は考え出されなかった。仏典では十代弟子は氏族名や本名で呼ばれており、あだ名でよばれていた出家者も記録されている。所属部不明の『増一阿含経』ではブッダが比丘たちに本名で呼ぶことを禁止しており、後になって出家者が改名することも見られたが、授戒の際に名前が付けられたのではない。

授戒の際に名前を与えることが考案されたのは中国である。中国では北朝において出現した『梵網経』(5世紀)に基づいて、南朝で菩薩戒を授ける時に菩薩名を与えることが考えられるようになり、これが隋へと受け継がれた。これは、成人の時に字(通称)を与える習俗が応用されたとみられる。しかし唐以降は、菩薩名は廃れていった。

日本では、中国の習慣を引き継いで『梵網経』による在家者の授戒に菩薩名を付けることが行われたが、平安時代以降はほとんど行われなくなった。そして、室町時代に瑩山紹瑾の門流が『菩薩戒』の菩薩戒と菩薩名を与えてそれが広まり、遅くとも15世紀には在家者向けの授戒会が開かれて名を与えられたことが確認できる。

※在家者への菩薩戒の授戒のみの話で、出家者の場合は別に考慮が必要。

(2)出家者が亡者に戒を授ける時

出家者が亡者に戒を授けることはインドではなかった。亡者へ戒を授けることはタイ、チベット、日本に特有である。南方では死者の魂が付近に留まっていると思われていたため、出家者は在家者の要望に応えていたようだ。

亡者に戒名を授けることは日本で考え出された。臨終出家の最古の例は淳和天皇ないし仁名天皇で、臨終出家でも戒名は与えられた。死後出家の最古の例は九条兼実の息子、良通であ(1188)、死後出家でも戒名は与えられた。臨終出家や死後出家は出家としては多分に形式的であるが、出家者は速やかに涅槃にいけるという聖者崇拝がその背景にあった。浄土真宗や日蓮宗では、出家しなくてもすぐさま浄土へ転生して仏になるとされていたものの、やはり亡者に戒名を与えていた。

「戒名」は日本において生まれた言葉で、元来は法諱・法名・法号と呼ばれていたが、江戸時代に使われるようになった。戒を授けることと同時に与えられるためにこのような名称になったと思われる。そして、死後出家の際に与えられる名として戒名という言葉が生まれた(つまり戒名は「死後戒名」であった)と考えられるが、生前に与えられる法諱・法名・法号も江戸時代に戒名と呼ばれるようになっている。死後出家・死後戒名は江戸時代以前からあったが、これが一般化したのは『宗門檀那請合之掟』の影響であるとしている。

さらに日本では、鎌倉時代に位牌が宋から伝えられると、位牌に院号・位号(居士など)・置字(霊位など)を使ってランク付けされることが行われた。なお中国では位牌は出家者のためのもので、在家者には「神主(しんしゅ)」が用いられたが、日本では出家者・在家者ともに用いられた。

なお位牌において戒名にランク付けが行われたことは真言宗の頼勢により『引導能印鈔』(1669)で批判されている。ちなみに「居士」が元来寺院のスポンサーを表す言葉であるように、位号などは生前の身分によって付けられた。しかし本来は出家すれば在家時の身分は無関係になる。よって死後戒名に院号や位号をつけることは、亡者を在家者のままに留めることとなるから「矛盾している(p.118)」と著者は批判している。

「第4章 慰霊の始まり」では、慰霊という概念を整理し、5つのケースに分けて論じている。

まず慰霊とは、「すでに悪趣へ転生している亡者に布施を供えること、あるいはさらに善趣へ転生させること(p.121)」と定義している。5つのケースとは、(1)在家者が亡者に布施を供える、(2)在家者が出家者に布施を与えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる、(3)在家者が出家者に布施を与えて亡者を悪趣から善趣へ転生させる、(4)出家者/在家者が布施に呪文を唱えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる、(5)出家者/在家者が亡者に呪文を唱えて悪趣から善趣に転生させる、である。一見してわかりにくいが、布施を与える対象が亡者なのか、出家者なのか、そして亡者の転生先が餓鬼道であるかどうかがポイントとなる。

(1)在家者が亡者に布施を供える

インドでは、亡者にお供えものをするという土着習俗があった。仏教ではそれを取り入れ、餓鬼道に転生している亡者にお供えをすることで餓鬼道での飲食物が提供できると理論化した。

(2)在家者が出家者に布施を与えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる

インドでは前項の習慣が発展し、餓鬼に布施を与えることで善趣へ転生させることができると考えられるようになった。上座部の『ペータヴァットゥ』では、餓鬼に布施を与えるという慈悲によって与えた人はやがて善趣に転生し、餓鬼自身もただちに善趣へ転生するらしきことが書いてある。これは聖者崇拝がその基盤にあると考えられる。

(3)在家者が出家者に布施を与えて亡者を悪趣から善趣へ転生させる

さらにインドでは、餓鬼道以外の悪趣(地獄趣、畜生趣)にある亡者も出家者への布施で善趣へ転生させられると考えられるようになった。『盂蘭盆経』にそのことが述べられている。布施の対象は、仏・独覚・声聞・十地の菩薩であり、亡者や施主が善趣へ転生できる理由も、聖者が「定」に入ることの利益であるとされる。なお同経は以前中国で作成された偽経であるとされていたが、近年は偽経ではないと考えられている。

中国では『盂蘭盆経』に基づいて、出家者に布施を与える盆が使われるとともに、亡者の慰霊を行う中元節が成立した。

日本では古代に盂蘭盆会が伝わり、7月15日に出家者に布施を与えていたが、これがやがて亡者へ布施(供物)を与えるように変化して「お盆」となった。

(4)出家者/在家者が布施に呪文を唱えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる

だんだんややこしくなってきたが、ここのポイントは「呪文を唱えて」という要素である。これもインドにおいて土着習俗に基づいて考え出された。7世紀頃の初期密教(『救抜焔口餓鬼陀羅尼経』)ではこのような考えが生まれていた。筆者は指摘していないが、呪文が登場したのは、聖者の存在感が弱まってきたことを感じさせる。聖者が定に入る功徳によって善趣へ転生するという考えのリアリティが低下し、呪文の効果だとした方が人々に受け入れられるようになったのではなかろうか。

中国では『救抜~経』が伝わり、餓鬼道のみならず悪趣から善趣への転生が可能と考えられるようになって、そのためのマニュアル(『施諸餓鬼飲食儀軌』、『施諸餓鬼飲食及水法幷手印』、『瑜伽集要焔口施食儀』など)が数多く作られた。中国では悪趣にいる亡者を呪文によって善趣へ転生させる需要が大きかったのではないかと感じさせる。

日本でも中国から『救抜~経』が伝わり、同様の考えとなった。

(5)出家者/在家者が亡者に呪文を唱えて悪趣から善趣に転生させる

これもインドで考え出され、7世紀頃の初期密教に属する『仏頂尊勝陀羅尼経』において説かれた。また『不空羂索神変真言経』でも光明真言などの呪文が善趣への転生に有効だとされている。

前出の経典が中国に伝わると、呪文によって亡者を善趣に転生させることが行われるようになったが、本書に掲載された事例は全て葬式の際に呪文を唱えるものである。明確ではないが、こちらは葬式の儀式として広まったため、広く亡者の慰霊という意味では布施を行う(4)の方が主流となったようである。

日本でも前出の経典が伝わって同様の展開となり、特に葬式の際の土砂加持が普及した(明恵が普及に力を入れた)。呪文(真言・陀羅尼)に力があるならば、わざわざ出家者に布施を行って呪文を唱えてもらう必要はなく、在家者が呪文を唱えれば十分ということになるが、江戸時代の臨済宗の悟り体験者たち(至道無難、盤珪永琢)はその見解に否定的だった。つまり呪文は出家者(聖者)が唱えてこそ意味があると思われていたようだ。

「第5章 追善の始まり」では、2つのケースに分けて追善の始まりについて考察している。

まず追善とは、亡者が未だどこへも転生していない間(通常49日間)の間に、亡者に善を追加してやることで、通常は「出家者に布施を行うという副徳を亡者に振り向ける」という形で行われる。2つのケースとは(1)在家者が出家者に布施を与えて追善を行う、(2)在家者が出家者に布施を与えて追善に類することを行う、である。

(1)在家者が出家者に布施を与えて追善を行う

インドにおいては、慰霊は行われたが、追善は行われていない。つまりすでに悪趣に転生した亡者を善趣へ転生させることは可能であったが、未だどこへも転生していない亡者を何らかの儀式によって善趣へ転生させることはできないと考えられていた。そもそもインドの大部分の部派では中有(中陰)を認めず、転生は速やかに行われると考えられていた。説一切有部と唯識派では中有を認めており、その期間は49日間であるとすることが多い。しかし説一切有部と唯識派でも他者による追善は考えられていない。

追善が考え出されたのは中国である。中国では『梵網経』により三七日、七七日の追善が行われるようになった。具体的には経典の読誦・講説・斎会(出家者に食事を与える)である。追善は『梵網経』の後にも継承されるとともに、七日おき(累七)に追善を行うという習俗が確立した。そして本来の追善は中有の間だけに意味があるが、儒教の祖先祭祀の習俗に影響されて「百日、小祥(一年の喪の終わり)、大祥(三年の喪の終わり)」も仏事として行われるようになった。

日本でも持統天皇の七七日の斎会を嚆矢として追善が行われ、聖武天皇では一周忌が行われている。鎌倉時代には三十三回忌まで含めた十三仏事が成立した。室町時代には、十三仏事でなく、十三年の間毎年年忌の斎会が行われることもあった。

(2)在家者が出家者に布施を与えて追善に類することを行う

ここでは南方の事例のみが述べられている。南方は上座部圏なので先述のとおり中有を認めず理論的に追善はありえない。ところがタイやベトナムでは死後七日目に「七日供養」と呼ばれる事実上追善と同様のことが理論的な裏付けなく行われている。

「第5章 起塔の始まり」では、3つのケースに分けて起塔(塔を建てること)の始まりを論じている。

3つとは(1)出家者が出家者の塔を起てる、(2)在家者が出家者の塔を起てる、(3)在家者が在家者の塔を起てる、の3つである。なお、ここでいう起塔は、一般的に塔を建立することではなく、誰かのために(墓としての)塔を建立することを意味している。

(1)出家者が出家者の塔を起てる

墓標としての塔を起てることはインドで考え出された。上座部の『ディーガ・ニカーヤ』大般涅槃経では、ブッダは如来・独覚・声聞・転輪聖王は塔に値すると述べている。それは、塔を見て心が浄らかになり、それによって天界に転生するからだという。ここで転輪聖王も含まれているのが注目される。このように元来は塔に値するのは悟りを開いた人に限られていたが、悟りを開いていない人にもそれは徐々に拡大された。

説一切有部のヴィマラークシャ(4-5世紀)の聞き書き『五百問事』には、「その遺骨を収めて亡者のために俱攞(くら)と呼ばれる塔を作ることがある。形は小塔のようであり、上に相輪がない」とある。「俱攞」とはkula(塚)の音写であるという。後期密教の実践マニュアルでも同様の記載がある。この時期には塔の建立は異生まで拡大されている。

異生の出家者の塔を特に望んだのは、比丘尼であったらしい。しかし元来は聖者の記念碑的なものであった塔を異生にまで起てることには比丘からは抵抗があったようだ。「比丘尼が出家者の塔を起てては感傷に浸り、比丘とのあいだで問題が起こったことはいくつかの部派に共通して伝えられている(p.193)」。

中国においてはインドとは独立に出家者が出家者(異生含む)の塔を起てることが東晋の半ばまでに自然に考え出され、唐にも受け継がれた。『禅苑清規』では夭折の出家者は火葬した遺骨を普同塔(共用の塔)に、高徳の出家者は遺体を結跏趺坐させたまま龕に納めて塔の地下に入れることが記されている。高徳の出家者の場合の塔はかなり大きいことが予想される。

日本では、なかなか起塔の習慣は生まれなかった。平安時代には出家者の廟を建てることは行われており、比叡山には最澄の廟があった。円仁は「比叡山には最澄の他に廟を造るな」と遺言していたが円仁の廟も比叡山に造られ、後にその廟の前に法華経を安置した塔も起てられた。しかしこれはあくまで法華経を安置する塔であって墓塔ではない。良源は天禄3年(972)に、自らの墳墓の上に真言を安置した塔を起てるよう遺言した。これは墓標の性格が強いが、それでも真言のための塔である。出家者が出家者の塔を起てるようになったのは、鎌倉時代に禅宗によって中国から伝わってからと考えられる。

(2)在家者が出家者の塔を起てる

亡き出家者のための塔を在家者が起てることはインドで考え出された。これはブッダが在家者に起塔の作業を任せたためとも考えられる。『根本説一切有部毘奈耶雑事』には、「阿羅漢の塔は相輪が四重」などその形態についての規定も見える。なお、聖者の遺骨に供養(布施)を行うことでその福徳によって天界への転生や般涅槃すると考えられていたが、これには異論もあったとのことである。

南方での状況は複雑であるが、基本的にはインドでの起塔が継承された。

中国でも、亡き出家者が聖者である場合は在家者によってその塔が起てられるようになった。南朝の劉宋にいたインド人出家者グナヴァルマン(求那跋摩)が亡くなった時は、出家者と在家者がともに「白塔」を起てている。智顗の場合も遺言に「二つの白塔を起て、見る人に菩提心を発させよ」とあり、「白塔」が起てられた(円珍はその墳墓を見ている)。起塔は亡き出家者が聖者である場合が中心で、聖者の記念碑的な性格が強かったようにも思われる。それにしても「白塔」とは何だろうか。

日本の場合は、在家者が出家者の塔を起てることはほとんどなかった。

(3)在家者が在家者の塔を起てる

インドでは、一般的ではなかったが土俗習俗に基づいて在家者が在家者の塔を起てることがあった。ただし本書にある事例は貴族の場合のみであるため、「土俗習俗」というよりは、記念碑的なものであった可能性もあると思った。

南方では在家者の塔は起てられていない。

中国では、唐において在家者の塔が起てられるようになり、北宋においてまとめられたとされる『臨終方訣』では在家者の葬式について窣堵波(ストゥーパ)の中に安置するという葬法が述べられている。

日本では、在家者の墳墓の上に呪文(陀羅尼)を安置した塔が起てられるようになった。文献上最古の事例は仁明天皇で、平安時代には天皇の陵の上に塔を起てることが行われた。醍醐天皇、御一条天皇、堀河天皇などである。在家者が在家者の墓として、五輪塔や宝篋印塔などの塔を起てるようになったのは鎌倉時代で、これらは「従来、日本において始まったと考えられていたが、近年、北宋の時代の中国において始まって、日本へ伝わったと考えられるようになっている(p.221)(石田尚豊、吉川功)」。ただし塔に遺骨を納入することは日本で始まったらしい。

「結章 葬式仏教の将来」では、これまでを総括し、仏教が葬式のためのものになったのはなぜなのかまとめている。

その結論は、「在家者が聖者崇拝を背景としてそれを願い、出家者が土俗習俗を背景としてそれに応えたから(p.226)」である。布施・葬式・戒名・慰霊・追善・起塔は、いずれも在家者が聖者を慕う気持ちを具現化したことが契機となっているのである。

とすれば、現在の日本において葬式仏教が衰退しつつあるのは、出家者が世俗化したことによって聖者を慕う気持ちがなくなっていることも一因であると考えられる。一般的には、葬式仏教の衰退は「家」の分解という社会経済的な側面から語られがちだが、著者は出家者の質がその本質にあると見る。本書に述べられる明治期の高徳な僧侶・西山禾山が執り行う葬式は、「確かにこういう人に葬式をしてもらえるなら、今の人も葬式をしたいと思うかもしれない」と思わせるものである。

そして、「出家者の悟りのための宗教と、在家者の葬式のための宗教とはまったく矛盾しない(p.232)」と著者は考え、むしろ高徳な出家者の出現こそ葬式仏教の復興に必要だと考えている。

「付録 『浄飯王般涅槃経』の真偽をめぐって」では、現代の日本で出家者が在家者の葬式を行ってよいという根拠として使われてきた同経について述べている。同経は中国の南北朝時代に流通したものである。本書では同経の全訳を掲載し、その文言を先行する経典(『大智度論』など)と比較することで、「中国において、ブッダもまた父の葬式を行った孝子であることを主張するために作られた、偽経であると考えらえる(p.256)」と結論づけている。

****

本書は、インド・南方・中国・日本を横断して葬式仏教の来歴を語るものであるため一つ一つの項目は簡潔であるが、同時に緻密でもある。葬式仏教というと、日本の仏教の特質の一つとして捉えられがちで、その来歴も日本で完結する形で考察されることが多い。ところが本書では、仏教発祥・伝来の地ではそれぞれ仏教が葬式を担うようになった次第が述べられており、蒙を啓かれた思いである。ただし、それはインド、中国、日本と伝わってきたのではなく、断絶も見られる。特に中国は、インドから葬式仏教が伝わったというよりは、独自に葬式仏教が発展したという性格が強い。日本の葬式仏教は中国から伝わった部分も多いだけにこの点は注意が必要だと思った。

また、著者は葬式仏教の基盤には聖者崇拝があると述べるが、これはインド・南方・中国・日本を横断して概括的に言えるとしても、日本の状況にぴったりあてはまるとは限らない。というのは、葬式仏教として最も成功した宗派である浄土真宗を考えてみると、親鸞その人が「非僧非俗」を標榜し、浄土真宗では今でも「同朋」(宗教指導者と一般信徒、というのではなく門徒はみな平等、というような意味を含む)という言葉が使われるように、浄土真宗の葬式は必ずしも高徳な僧侶のありがたさで広まったわけではない。葬式仏教の創始は聖者崇拝によったとしても、それが広まった要因はまた別に考察する必要がある。

なお葬式や起塔の対象に、インドにおいてすでに「転輪聖王」が含まれていたことは気になった。転輪聖王とは仏教的な理想の帝王であるが、実際には現実の統治者にも適用された。つまり葬式仏教の対象に転輪聖王を含めたことは、仏教が世俗的統治者と融和的な姿勢にあったことを示唆する。日本の中世では王法仏法が相即不離であるとされたが、これは決して日本社会の特質ではないのである。葬式仏教について考察する上でも、日本の歴史だけを考えるのではなく、東アジアへも目を向けて共通の土台に基づいて考察することが非常に重要だと痛感した。

葬式仏教の来歴をかつてない視野で解明した労作。

【関連書籍の読書メモ】
『葬式仏教』圭室 諦成 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html
仏教が葬式を担うようになった次第を述べる本。葬式仏教論の嚆矢である名著。

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2026年4月24日金曜日

『税と権力――中世人はどうして税を払うのか』似鳥 雄一 著

荘園制を徴税・納税の論理から述べる本。

近年、荘園制のすぐれた概説書が出るようになった。特に伊藤俊一『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』は気候変動にも目配せしつつ荘園制を明解に説いている。しかし寺社と荘園とのかかわりは詳細には書いていない。一方、本書の表紙では「税の見返りに求めるべきは、神仏の加護か、武力による安全保障か?」と問いかけており、荘園制における寺社の意味を考えたくて手に取った。

本書は、制度的な変遷よりも、現場の人間がそれにどう対応しようとしたかということを中心に荘園制を描く。著者の視点は、「たとえ武力によって税を強制的にかけられていたとしても常に監督があるわけではないのだから、自主的に納税する論理が納税者側になくてはその制度は長続きしない」というものだ(=「片務的で暴力的な徴税は長続きしない(p.33)」)。ではいかなる論理で中世人は税を払ったのかということが問題になる。

現代では、納税の見返りとしては社会保障やインフラ整備などが挙げられる。それが釣り合っているかどうかはともかく、反対給付があることが納税の意識を支えている。中世も同じではなかったか。それは税を課す側にも言える。「領主にしても、村落にしても、社会に対する責任を自負する存在である(p.26)」からこそ税を取れるのである。では彼らはどういう形でその責任を体現したか。

「第1章 荘園とは何か」では、古代から荘園制成立までが語られる。

課税・納税の論理は荘園に限らず、古代の租庸調にも当てはまっていたはずだ。そのうち調は国家の祭祀のために使われるという建前があったからこそ負担したかもしれないという。「国家が祭祀を代行することが、人々にとって税を払う理由になりえた(p.33)」。同様に、租も神への初穂であった可能性がある。「神への信仰には税をつくりだす力があった(p.35)」。

最初期の荘園は、貴族・豪族・寺社による墾田を認めることによって始まったが、特に東大寺には諸寺院でも最大の4000町の墾田が許可された。鎮護国家の役割を果たしている東大寺だからこその規模なのだ。

なお著者は荘園を「私的」な所有とする認識は適切ではないという。東大寺が荘園を「私有」したと述べても、その「私」にはあまり意味がない。そして墾田永年私財法によって認められる荘園の他、皇族・貴族・寺社などは「官田」「御厨」「御田」「御園」「位田」「識田」「勅旨田」「親王賜田」「神田」「寺田」など多様な名称で土地を所有していた。

墾田にも納税の義務はあったため、口分田でも墾田(荘園)でも農民は納税に後ろ向きで、郡司や国司も彼らと結託して課税逃れをするようになった。農民にとってみれば、税は安い方がいいし、郡司や国司にとっても、真面目に国家へ税を納入するよりも農民と結託して私腹を肥やした方がうまみがある。国家の仕組みが弛緩してくればなおさらだ。国司は官僚機構だが、これがトップに責任と権限を集中した「受領」となり、受領が引き連れてきた郎党が実務を担った。特に統治のかなめとなったのが「目代(もくだい)」という秘書官である。やがて国司の実務は忌避されるようになり、受領は在京しつつ、目代が地方行政を担うという形になった。

租庸調は人への課税(人頭税)であったが、荘園制は土地への課税(いわば固定資産税)である。とはいえ、現在の固定資産税もそうだが、誰がその税を納めるのかという、人とセットでないと徴税はスムーズにいかない。そこで水田に納税責任者の名前をつけて、それを受領が直接把握して徴税する「負名(ふみょう)体制」へと変わっていった。また荘園でも元来は租庸調が納税の基本であったが、やがて土地税である「官物(かんもつ)」とその他いろいろを含む「臨時雑役(ぞうやく)」の二本立てになり、それが中世の「年貢」と「公事(くじ)」へと継承された。臨時雑役は内裏の建設や大嘗会の挙行などに際して課され、その課税の論理には祭祀・信仰があった。さらに、納付の品目も、麦・油・塩など元来はいろいろあったが、これが米に一本化された。これらが概ね10世紀前半に起こった変化である。

摂関期になると、荘園領主(摂関家、大寺社、中下級貴族)が国衙に対して課税の免除を申請するようになった。天皇が成立に関与した荘園であるとか、鎮護国家のための仏事を担う寺社であるといった大義名分が掲げられた。現代から見ると国家的な機構の末端にいる存在が免税を主張するのが奇異だが、農地→(徴税)→国家→(予算)→現場という再配分機能がうまく働かない状態では、「荘園で国家的な事業を自弁しますのでその分免税してください」というのは筋が通っている。こうして設立された課税免除の荘園を「免田型荘園」という。これは荘園の領域全体ではなく、その中の指定された水田に限って免税された。

そして国司が交代するたび(任期4年)に国衙のスタッフが検田を行い、その都度免税の交渉が行われたとみられる。そのため、荘園の絵図などの記録がしっかりと作られた。ちゃんとした記録がないと免税が認められなかったのだろう。しかしこの仕組みは、わざわざ現地調査をしないといけないので国衙スタッフの多大な負担になる(それで徴税できるならいいが、免税のための仕事なのは気が進まなかっただろう)。そこで「10町とか20町とかの切りのよい数値で免田の総額を設定しておくだけの、浮免(うきめん)と呼ばれる方式もあった(p.59)」。これは現地で免田を確認しなくてよいので手間は減っただろうが、免除の申請と受理という作業は変わらずあった。なお、これとは別に、開発領主が切り開いて作った所有地である「私領」もあった。

しかしこのように免税が多くなると、国家としては困るのは当然である。11~12世紀には内裏の建設を行うためなどとして荘園整理令(免税の取り消し)がたびたび出された。国家の意図を越えて国司(受領)が免税を行ったためであろう。それは免税を認めることで国司に何らかのキックバックがあったことを予見させる。後三条天皇が出した「延久の荘園整理令」は、ちゃんとした記録のない荘園を廃止するという実効性を伴っていたが、次の院政期に入ると荘園は急増した。

特に12世紀前半の鳥羽院政期が荘園設立のピークとなった。この頃は、国家の側(天皇家・摂関家)が積極的に荘園を設立した。わずかな私領や免田の荘園を核にして、その周りの土地を全部荘園とするもので(=領域型荘園)、これを設立することを「立荘」という。その名目の典型が、寺院(御願寺)の建立である。つまり社会の最上位層である彼らにしてもフリーハンドで荘園を設定できたわけではなく、国家的事業という大義名分が必要であるという通念は消えていなかったのである。そして、具体的な立荘のプロセスは、(1)御願寺で必要になる経費が〇〇石と算出される→(2)核となる私領や荘園の寄進が行われる→(3)それらの荘園の面積では必要経費に満たないので領域が設定される、といった流れであり、多数の人々が土地を媒介として御願寺というプロジェクトに参与し、その後の利益にも与ったと思われる。

保元の乱に勝利した後白河天皇が発した荘園整理令で、彼は荘園の新設や拡張には後白河天皇・白河院・鳥羽院のいずれかから発行された許可証を要するとした。天皇・上皇の認可が必要というのはすごいことだ。小さい政府・地方分権の性格が強い中世において、荘園制というのは中央集権主義的なのである。結果、「荘園の所有者として認められたのは、天皇家・摂関家・大寺社のみである(p.71)」。しかし彼らは名義上の所有者ではあっても、常にその荘園を実効支配しているとは限らない。

彼らのような荘園所有者を「本所・本家」といい、荘園の経営者を「領家」という。こちらは摂関家未満の貴族などが務めた。さらに現地でその管理を行うものが「荘官」である。荘園の統治構造は「所有・経営・管理」を担う「本所・領家・荘官」の三層構造であった。そしてこの三層構造は国衙の介入を拒否し、直接徴税するようになっていく。しかし国衙の介入を拒否したといっても、その徴税はみかじめ料ではなく、あくまでも国家的事業の遂行に必要な経費をあてがうという意味であった。だからこそ本所は天皇家・摂関家・大寺院のみだったのである。そして天皇家の荘園も、例えば八条院領のように大半が御願寺領だった。御願寺の維持が国家的な意味を付与されていたということになる。寺社が担っていた「鎮護国家」は、公共の性格を持っていた。なお立荘の名目の多くが御願寺だったことは、寺社の維持以外に国家が担う部分が縮小していたためだと考えることもできる。

このように、荘園を「私的な土地所有」と見なすことは適切ではなく、国衙と荘園はともに国家的な意味合いがあったという意味で同質的なものであると考えた方がよい(=荘園公領制)。

「第2章 課税する論理、納税する論理」では、荘園における課税と納税がどういった考えで行われていたかを述べる。

荘園を納税側(百姓)から見ると、年貢を納める点においては国衙領と違いはないが、「公事」すなわち各種の「公的な事務」も負担する必要もあった(※国衙領も公事がなかったわけではない)。これには多種多様な食料品や日用品が含まれ、年中行事の実施や物品の運搬もあった。現代の農村で、各種行事の実施に協力することが前提となっているのと似たようなものかもしれない。そして現代でも、そうした明文化されていない負担が住民の不満の種になりがちなように、当時の人々も領主から無制限に使役されることは「公平(くびょう)」でないとして反抗した。

やがて国衙は税収不足を補うため「一国平均役」として荘園にも課税するようになった。こうして百姓は国衙にも納税するようになったので、彼らは自分自身を(領主の下人ではなく)「公民」であると考えるようになった。では何のために彼らは領主に納税するのか。彼らが領主に要求したのは「安堵」すなわち安全な生活の保障である。一方、領主の方は百姓が納税を果たすことは「忠勤」や「忠節」であると見なした。こうして領主と百姓の間に双務的な関係が成立していった。当時は待遇が悪ければ百姓が逃げてしまう(逃散)ことがあったので、荘園の農民は農奴化しなかったのである。

文治元年(1185)、頼朝は地頭の設置を後白河から了承された。地頭は荘官の一つで、徴税を行った。鎌倉幕府で興味深いのは、将軍は本所にはならなかった、ということである。頼朝の極官は権大納言・右近衛大将で大臣にすら届いておらず、本所となるには地位が低すぎた。源平の合戦の後、平家や後鳥羽院関係者から「平家没官領」「承久没収地」とよばれる大量の荘園を押収したが、これも幕府が所有したのではなく、後高倉や後堀河に返却するなどして処分した。

すなわち鎌倉将軍家は荘園の所有はせず、手に入れたのは領家の立場であった。そして幕府が領家になっていない荘園でも、幕府は地頭の人事権を持っていた。そういう荘園においては、地頭は領家の指揮下には入っているが、地頭がトラブルを起こしても領家は地頭を解任することはできず、幕府に訴えるほかなかった。幕府は地頭を派遣する人材派遣会社のような存在であったと考えることもできる。なお将軍家は荘園を所有していないといっても、本所は(領家を兼ねていないかぎり)荘園の実務に手出しはできず、本所に納められる税も僅かな割合であった。だから領家であることの方がうまみがあり、むしろ本所が領家の地位を欲していた場合もある。鎌倉将軍家は荘園制については名を棄てて実を取ったのである。

ちなみに、「土地の所有を認めてもらう(安堵)かわりに、幕府の忠節を誓う(=御恩と奉公)」という「御家人」の教科書的説明は本書ではされていない。そもそも鎌倉幕府の成立当初からこういった契約的関係があったのではないようで、まずは将軍に名乗り出て御家人になり、地頭へ任命されるという、主従関係の方が先立つようである。

ともかく、開発領主的な地頭ではない、落下傘的に地頭に就任した武士たちが、百姓からより多くの収奪を行おうとしたことは想像に難くない。幕府は「仁政」という理念を掲げ、百姓に保護を加えるように地頭に命じたが、あまり実効性はなかったようだ。こういう状況が生じたのは、課税基準どころか枡さえも明確に決まっていなかったことと、納税の品目が米ばかりではなかったこと、土地に対して固定的な課税率が定められていたのではなく、収穫量に応じた徴税が行われたこと(土地の良否だけでなく豊凶も加味された)、必要経費(例えば灌漑施設の整備費、寺社の維持費・祭礼費など)の控除が認められていたことなどが絡み合っていた。つまり、荘園での課税は良くも悪くも自由度が高かった。

さらに代銭納(百姓から徴収した物品を市場で銭に変えて領主に納入する)が普及すると、収穫物の豊凶に加えて、市場での相場によっても税額が変わることになった。決まりきったものを納税するシステムならば誰が徴税官になっても同じだが、こう変動要素が大きいと有能な徴税官が求められることになるし、なにより面倒な徴税実務が忌避されるようにもなった。こうして、徴税業務を委託することが行われるようになったのである。領家は荘園経営の実務を「預所」に委託し、そこがさらに「預所代」に業務を委託することもあった(後述)。「中世荘園の大きな特質は、請負に次ぐ請負にあった(p.137)」。

ところで、税額から必要経費が控除されたことが極めて興味深い。灌漑施設の整備費が控除されたのはともかく、気になったのは荘内にある寺院・寺社の維持費や祭礼費である。課税額全体からそうした費用が引かれるのではなく、特定の水田を「仏神田」などと指定して、そこが免税されるという仕組みだ。神仏の経費が控除されるとなれば、百姓にとっては神仏を祀らない理由がない。この点が本書で最も蒙を啓かれた点である。中世に膨大に祀られた中小の神仏は、経費控除を目的としたものであったのかもしれない。

例えば、課税は「名(みょう)」という単位(ほぼ集落にあたる)でなされたが、あちらの名では八幡を祀って免田が認められたとなれば、こちらの名でも薬師を祀ろう、というようなことになるのはごく自然だ。よって荘内には多くの寺社が建立された。新見荘では、全76町弱のうち、こうした寺社の免田が1割を占めており、63の名のうち28の名で寺社由来の免田が記録されている。なお新見荘の本所は東寺で、領家は小槻氏であったが、元徳2年(1330)に東寺は小槻氏から領家の地位を獲得している。ここで建立された寺社はどうも東寺とはあまり関係がないようにみえる。それでも「住民が生活のために、ひいては荘園を守るために神仏が必要だといえば、領主はそれをむやみには否定できず、税からの控除を認めねばならなかった(p.150)」。

ところで、本書では指摘されていないが、神仏の祭礼というものは多かれ少なかれ再配分の要素があり、また祭礼を共同で実行することはコミュニティの結束を高める効果が期待できる。田畑が散在した中世荘園の風景を前提とすると(→第3章参照)、百姓たちには共同作業が少なかったと考えられる。神仏の名において「名」ごとに寺社が建立されたことは、百姓が自己組織化していった結果とも解釈できる。中世後期の一揆において神仏の名において惣の結束が確認されたことが想起されよう。

一方、このように控除が様々な理由で認められる課税方法であれば、領家としては適切に徴税できているかいちいち監査しなくてはならない。これは究極的には現場に行ってみなくてはわからない。そこで信頼のおける人物を派遣することが求められるようになった。

「第3章 中世人の生存競争」では、より具体的に納税の場面を見ていく。

そもそも中世の田園は、山裾にまばらに田んぼがあるような状態で、面的に田んぼで覆われていたのではなかった。荘園とは国土開発の仕組みでもあったので、荘園制で墾田は徐々に進んだがそれでも生産性の高い田んぼが並んでいたという風景ではなかった。またその生産性は、「中世後期の先進地域では反収が1石から2石超という幅で推移(p.166)」しており、だいたい1.5石程度であった。そして年ごとの収量の変動がかなり大きかったことが百姓と荘官の軋轢を生んだ。

税を減免する措置のことを「損免」といい、百姓や荘官は台風などの災害や凶作の際に近隣にも被害が出ていることをアピールして「国中平均」とか「一国平均」(で不作になっている)というフレーズを使った。税の減免を求める論理が視野の拡大をもたらしているのが興味深い。領家の方はさらに視野の広い「天下一同」という表現を使い「その災害は天下一同ではない」などといって反論した。

このように、徴税の実務は課税側と納税側の綱引きであった。そこに地頭がやってくることで、この力関係は課税側有利になったように見える。地頭は治安維持も担っていたからである。幕府は仁政を掲げてはいたが地頭は時として暴力的に住民に臨んだ。地頭は本来は徴税官であるが、領家としては荘園の実務を全部地頭に任せることもやるようになった。これを「地頭請」という。地頭に一定額の上納を請け負わせ、それさえ納入されれば地頭に自由にやらせるということである。ところが先述の通り領主(領家)には地頭の人事権がなく、領領主としては困った存在でもあった。そこで荘園を領主と地頭で二分する「下地中分」が行われるようになった。領主としては荘園が半分になってしまう荒療治だが、そうまでして地頭と縁を切りたい領主がたくさんいたということだ。こうして地頭は、(当時は領家とはみなされなかったが)領家と同じような存在、事実上の領主となった。

「第4章 中世社会の変質と税」では、南北朝の動乱から室町までの荘園制が語られる。

戦乱が続くようになると、戦費を調達することが必要になる。そこで幕府は戦時の臨時的処置として「半済(はんぜい)」の権利を守護に与えた。これは領主におさめるべき年貢米の半分を戦費として徴収することである。このおかげで守護は強大な権限を持ち、武士たちと主従関係を構築した。また戦乱により荘園が脅かされると、「よそからやってきた武士たちが、国家や地域の平和を守るために戦ってやると称して、その費用を荘園に請求するようになった(p.210)」。これは西部劇で見たような光景だ。

さらに「一国平均役」の系譜に位置付けられる「反銭(段銭)」も義満の頃から制度化する。全ての土地から徴収する臨時税である。これも朝儀の実施、大寺社の修造などを名目に課された。なおこのおかげで「中止や縮小をやむなくされていた多くの朝儀が復興をみた(p.216)」。室町幕府(足利義満)は徴税という国家的機能を、朝儀を名目にして代行することができるようになったのである。中世後期には反銭は幕府の命を受けた守護が徴収するようになった。これは年貢に比べて一律に課すだけなので簡便で合理的な税であった。

さらに室町将軍家は、鎌倉幕府とは異なって最大規模の荘園領主となった。有力な守護も多くの荘園を獲得した。さらに将軍家は「新たに御願寺を建立してその御願寺に荘園を寄進し、それを財源として先祖の追善仏事を行わせた(p.219)」。また将軍家では「出家した女性が尼門跡と呼ばれる寺院の住持となり、その寺院が荘園を所有するばあいもあった(同)」。つまり将軍家は、院政期の天皇家と同じようなことを行った。義満が創建した相国寺の七重塔(応永6年(1399)落成)は高さが360尺(109メートル)もあった。明徳元年(1390)の尊氏の33回忌法要は大寺院の僧侶と大部分の公卿が参加する国家的イベントであった。これらは白河上皇が仏事に狂奔したのとちょうど符合している。

この頃には本所の意味は薄れてきた。黙っているだけで納税されるという時代でなくなっていたのである。そこで本家は領家の立場を獲得しようとし、大寺院は主にその近隣にある荘園の領家となっていった(そうしなくては寺院の経営が成り立たなくなっていたのだろう)。

播磨国鵤荘(いかるがのしょう)は、数少ない法隆寺の荘園の一つとしてかなり丁寧に経営された。法隆寺は現地に人(僧侶)を派遣するとともに、多額の交際費を使って預所に現地の有力者たちと濃密な関係を構築させた。これは中世後期における荘園経営の成功例であり、そのおかげで納税が確実に行われた。しかし一般的に、遠隔地にある荘園の経営は難しい。領家への忠誠心など期待できないからだ。そこで有能な人物を現地において荘園を監督する必要があり、「代官」が外部から登用されるようになった。これは「預所代」の略である。代官となったのは、禅宗の僧侶、修験道の山伏、金融・倉庫・酒造業者、守護被官などが挙げられる。

しかし代官が適切に仕事をしているかは領主にとって見えづらい。そこには守護関連の支出は把握しづらいという構造的な問題もあった(中世後期には荘園は守護と領主に両属するような状態になっていた)。そこで毎年定額の年貢を納める「請切(うけきり)」という契約が結ばれるようになった。領主にとっては、経費の控除等が適切であるか監査する必要がなく、経営の中身にいちいち目を通さずに済むため楽であった。そしてこの結果、「請切の(代官)希望者が複数現れた場合は、最高額を提示した者を代官に任命する入札(p.242)」のようなことも行われた。これは一種の投機である。

こうなると、「私なら毎年60貫文納められます」という者が代官に採用され、それがうまくいかず解任され、別の「私なら120貫文納められます」という者に替わる…といったように代官がコロコロ変わった。本書にはそういう新見荘領家方の事例が詳しく述べられているが、このようなことをしていてはうまくいくものもうまくいかないだろうと思わされる。代官にとっては荘園は収奪の対象でしかなく、領家はそれをコントロールすることもできない。有象無象の輩が代官の地位争いに参入したことが荘園制を衰退させた一因である。もちろん百姓たちはこのような状態を不満に思い、領主が直接荘園を経営することを求めたこともあったが、領主にとっては面倒な実務に立ち入るよりは、より高額で請切する者に代官をさせる方が楽だったので、あまり実効はなかった。

つまり、荘園からの徴税は面倒な仕事だったので、誰も真面目にやりたくなくなっていたのである。領家も代官も、農村と向き合い長期的に発展させるよりも、その場しのぎで収奪をする方に傾いていった。これは逆に言えば、そんな雑なやり方でもそれなりに徴税できる状態であったことを示唆する。つまり百姓の側に「納税意識」が醸成されており、供出を命じれば(個別の百姓とやりとりしなくても)年貢が納められるコミュニティが確立していたということでもある。こうなると百姓の側としては「代官など不要」と考えるのも無理はない。

「第5章 終わる荘園制」では、荘園制の終焉が述べられる。

応仁の乱の後、明応の政変で将軍になった足利義材は荘園保護をなおざりにして軍事力の誇示に走った。それまでの歴代将軍は、いちおう復古(あるべき姿に戻す)を企図していたが、義材はそれをしなかった。この時点で荘園は保護者を失い、実質的に終了した。

実際、多くの荘園では納税が途絶した。遠隔地を実効支配すること自体ができなくなっていた。それでも、領主の近傍にある荘園からは年貢が納められたし、領主自身が土着して荘園を維持した場合もある。ちゃんとした人物が現地にいさえすれば、この時代でも年貢の納入は期待できた。法隆寺領の鵤荘ではわずかながら納税が続けられたし、東寺僧が下ってきていた新見荘でも天正2年(1574)まで東寺への納税が続いた。

「おわりに」では、荘園制における納税意識が簡単に再考される。

中世においては、納税への反対給付の一つは安全保障であったが、中世後期ではこれがうまく働かなくなった。守護と領主の二重構造もそれに拍車をかけた。しかし神仏の加護を受けるための納税についてはそれなりに機能し続けた。中世後期には神罰・仏罰を怖れないものが増え、世俗化していくと言われているが、戦国大名は戦の勝利を祈願して神仏に盛大な祈りを捧げ、農村の現場でも神仏への加護が期待されていた。神仏の加護が機能している限り、徴税・納税は受け入れられていたということになる。

ただし、「中世人が税を払ううえで重要なのは、誰が税をとりに現場へ姿を現すかということであった(p.283)」。収奪しか考えていない代官が来ても納税したくない。これは納税の論理などとは別次元の問題だ。「すなわち荘園経営の成否を左右したのは、領主の在地性であった(p.284)」。であるならば、島津荘が戦国時代を通じ成長し、島津氏が有力な戦国大名となったのも理解できる。南九州では、領主と百姓の関係が他の地域に比べれば比較的に安定していたのである。

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本書は全体として、具体例と考察、制度の説明のバランスがよく読みやすい。個人的には近世の土地制度・租税制度へどう移行していくのかという部分があるとより税の本質が見えてくるのではないかとも思ったが、扱っている時代が中世なのでこれはないものねだりだろう。また、徴税・納税の論理に神仏の存在を大きく取り上げた点は本書のもっとも面白い点であり、蒙を啓かれた点であるが、著者が「神仏への信仰」としている点だけは気になった。中世において「信仰」なる概念は存在しないのではなかろうか。中世人の神仏への向き合い方は、「信仰」のような内面的なものではなく、より実体的なものであったと思われる。

中世には、全国に末寺末社が建立され、多くの百姓が出家するようになったし、戦国時代にはいわゆる鎌倉新仏教が全国を掩うこととなった。こうしたことが荘園の在り方にどう影響を与えているのか。あるいは神仏の在り方に荘園制はどう影響を与えているのか。しばしば中世は「宗教の時代」であるといわれる。中世が宗教の時代であることと、荘園制の時代であることは密接にかかわっているように思われる。

納税と神仏の関係を独自の視座で語る良書。

【関連書籍の読書メモ】
『荘園—墾田永年私財法から応仁の乱まで』伊藤 俊一 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/03/blog-post.html
荘園の通史。荘園を学ぶ上での基本図書。

『鎌倉仏教の中世』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2025/10/blog-post_23.html
中世仏教を顕密体制論に基づき再構築して語る本。荘園制度における寺社(特に寺院)の在り方について、延暦寺を中心に述べている(第3章)。

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