著者・横山源之助は、明治期における女工や炭鉱夫などといった労働者階級を活写した書『日本の下層社会』で著名である。横山は日本の労働運動の黎明における活動家であり、また理論的支柱でもあった。その横山が富豪について語るとは奇異な感を抱くかもしれない。
しかし労働運動が弾圧されて最初の芽が摘まれた後、横山は下層社会だけでなく中産階級・上流階級のありさまをつぶさに調査し、資本主義の全体像を解明しようと試みた。特に富豪研究はその中心で、横山はこれを大著にまとめる計画であったがそれが果たせず、雑誌に掲載された原稿をまとめた本書がその研究の一斑を伝えているに過ぎない。
本書は「明治富豪史」「富豪貴族」「海外の人」の3つの部分に分かれている。「明治富豪史」は、普通にいう歴史の記述ではなく、富豪に人脈を持つという設定の翁が一人語りするという、まるで『大鏡』のようなスタイルで書かれており、その文体も面白い。「富豪貴族」「海外の人」はそれほどではないが似たようなスタイルである。横山源之助節、とでもいえようか。
「第1 明治富豪史」は、明治期になって富豪になった人物を語るものである。
劈頭は「戦争」で大儲けした人物だ。例えば岩崎家がそれにあたる。戦争はともかくある種の人物をひどく儲けさせる。次が「贋造紙幣」。偽札で儲ける人物がそんなにいたのかと思うが、著者は「明治初年には、どんな奴でも贋札を遣わない者はなかった(p.17)」という。幕末から藩札の類は濫発され、薩摩藩も幕末には偽金を作っていた。両替のカラクリで濡れ手で粟だったのが安田善次郎。明治後にはちゃんとしたお金を偽造するのではなく、勝手に造られた贋造紙幣もあった(「大隈札」など)。
江戸期の富豪の多くは幕府から特殊の株(独占の保護)を受けていたため、幕府が滅びると共倒れした。そんな中で生き残ったのが三井家と住友家である。著者は三井家を支えた三野村利左衛門、同じく住友家を支えた広瀬宰平の存在がそこに大きく与っているという。それでは明治期になってから現れた富豪にどんな人物がいるのかというと、これをいちいち書いていると煩わしいほど本書には大量の人物が登場する。
まずは「薩長土肥」の人物。彼らは藩閥政治の保護を受けて伸張した。その豪物(えらもの)といえば五代友厚と岩崎弥太郎だという。なお、五代友厚は「開拓使官有物払下げ事件」(官有物を五代が不当に安く払い下げを受けたとされる事件)で悪名が高かったが、最近それは事実ではなかったことが明らかになった。しかし本書では、五代友厚が不正をしたとは一言も書いていない。しかし「思う儘(まま)に大阪の事業界を左右していた(p.33)」という。横山は労働者の目線を持ち、富豪には反発心を抱いていたと思われる節があるが、その筆は糾弾する調子ではないのが意外だ。
五代友厚については特別に一節が設けられその人柄も述べられているが、「大阪の事業界を左右」する人物でありながら、身なりなどには構わなかったそうで、「私の知っている五代は(中略)極めて質素な、むしろ無頓着な男(p.36)」だったそうである。本書が執筆された頃は「開拓使官有物払下げ事件」の汚名が着せられていたはずだが、著者の筆は五代に好意的である。ただ「孔子と、釈迦とが並んで説法しても、おそらく五代の自信を挫くことが出来なかったろうと思われる位、それはそれは自信の強い男じゃった(p.37)」ということだ。
しかし五代以外の藩閥関係人物について、著者の評価は辛い。煩瑣になるので具体例は割愛するが「ナニ、長州人は酷いことを遣る。なんの、長州ばかりでない。薩摩などは、もっと酷い(p.46)」という。
時代が動く時、富豪が生まれる。時流に乗って濡れ手で粟の事業をするものが現れるからだ。岩崎弥太郎はその一人である。幕末から一種の山師的商売を始めた岩崎は、廃藩置県の際に土佐藩の行っていた繭糸紡織と汽船の事業を引き受け、九十九商会(後の三菱会社)を立ち上げた。これは、廃藩置県にあたり同事業が追っていた20万両の借金を清算するために行われたものらしい(つまり岩崎は借金を引き受けた)。さらに佐賀の乱が起こると、この時軍器兵糧の運搬の命を受けたのが三菱だったのである。これで資本を膨らませた三菱がさらに儲けたのが西南戦争である。その頃の政府はあまり軍備がないために軍関係の輸送を岩崎に委託したのだが、その委託料が洋銀70万ドルだったといい、これによって海上王になっていくのである。戦争は庶民の生活を破壊するが、商人の懐をかえって膨らませる。「関西中国の商人原(あきんどばら)は九州を目掛けて損得の戦争をやりよった(p.59)」。
岩崎弥太郎と双肩をなすのが藤田伝三郎で、彼は元々長州閥と深い関係にあり、やはり西南戦争で政府の御用を受け、藤田組は被服・靴・食糧の輸送を一手に引き受けた。三菱の方が輸送はメインで藤田組にいくら入ったのかは定かではないが、これで藤田組が大きくなったのは間違いない。
もちろん、商人にも立派な人はいた。足尾銅山を引き受けた古河市兵衛などは「運鈍根」と口癖のように言っていたそうで、物事には「運」と「鈍」と「根(根気)」が大事だという信念で情に厚く親切で、「一度古河に使われると、みんな古河の為に、誠意を以て働いたそうじゃ(p.64)」。
西南戦争が終わると激動の時代は過ぎ、一攫千金の大儲けはなくなったが、その後に富豪となっていった人物は、渡辺治右衛門、峰島茂兵衛、堀越角次郎など土地の騰貴によって儲けたものが多い。彼らが「維新当時、二束三文で購入(かいい)れた地所は、十倍となり、百倍となり、千倍となって、いつの間にか東京の大々地主となった。寝ている間に、大富豪となったのじゃ(p.73)」。
「第2 富豪貴族」では、富豪たちの生活実態が活写される。
まずは「富豪界の頭目」井上馨である。著者は井上の朝の日課や朝食の内容、井上自身の料理の腕など事細かく述べる。すごい取材能力である。次が岩崎弥太郎で、これは元女中さんによる証言である。家庭内に働く女中さんの目で見た岩崎ということで、かなりプライベートなことまでが暴露されている。続いて銀行業の「覇王」こと安田善次郎。安田の経歴は、これまでの一攫千金的な富豪とは違い、地道な努力によって開かれたものである。彼は人形町に9尺の間口で鰹節を売っていたのである。そしてやはり努力家の夫人と二人してこの零細商売で10両を溜めた。しかしこの10両の大金を泥棒に奪われてしまう。夫妻はこれにめげずに数年後また数十両の貯金をしたという。その安田も後に銀行業で濡れ手で粟の商売をすることになるのであるが。
次に取り上げられるのは大名華族である。彼らは維新直後は忘れられようとしたが、明治後半になって再び表舞台に出てきた。それは「市街宅地の所有者」としてである。東京市においてはその大地主のほとんどは大名華族であった。大名華族については個別具体の家というより、「大名華族の家はだいたいこうだ」という感じで書いている。もちろん具体例はあるが、事業家に比べると総論的である。
次が地主である。先述の通り、土地の騰貴によって富豪となったものは多いが、なぜ彼らが土地を購入したかというと、「多くは不用意の結果(p.122)」で、「先見に依って投資せる者は極めて寡い(p.123)」。 本書には明治末年頃の東京の地主の顔ぶれが掲載されているがこの表は興味深い。1位は岩崎家で22万1000坪、2位が三井家で17万2000坪、3位が峰島(コウミネ)で11万9000坪と続く。4位が阿部正植(旧大名)で、10位以内には旧大名が多い。17位には松方正義が3万1000坪でランクインしているが、彼はどうして東京の土地をこんなに持っていたのだろう。
「第3 海外の人」では、富豪ではなく海外の植民事業など国外で活躍した人を取り上げる。
この項目は取り上げられている人物そのものより、彼らが活躍した時代背景に興味が引かれる。例えば小笠原で信天翁(アホウドリ)の捕獲を手がけた玉置半右衛門。彼はなかば捨て鉢になって小笠原に渡ったのだが、アホウドリを捕獲して羽毛を売ることで儲けたのである。当時は小笠原に渡航するものが多かったのだという。今から考えてみると、次男三男で相続する土地や事業がなかったにせよ、狭い小笠原に渡ってどうするのかという気がするが、小笠原、そしてその先の南洋に渡っていくものが多かった。カロライン諸島、マリアナ諸島などに移住して真珠とか鼈甲のような商品を扱うといったことがその発端だったらしい。そして南洋経営の必要性を訴えたのが田口卯吉だそうである(→南島商会)。本書にははっきりとは書いていないが田口卯吉は士族の授産事業として南洋移住を唱えたらしい。
シンガポールに移住した人も多かった。そこで勢力を伸ばしたのが米井商会。この会社は南洋における醜業婦に商品(特に衣装)を供給することで発展した。この時代、女性は南洋にまで身売りに行かなければならなかったのだと思うといたたまれない。著者は「海外未開の地に一身を托して、日本人の先駆となっているものは、参謀本部派遣の視察員と、醜業婦である(p.148)」という。女性を買っていたのは参謀本部派遣の軍人だったのであろう。彼らは旅先でも女性を必要としたのである。何かそれだけで後の破局が予見されるような気がする。
もちろん、海外との貿易を手がけたものも多いが、「貿易に依って巨富となった者といえば割合に寡い(p.153)」という。海外で成功したものは、土地、礦業、御用商人が多いという。満洲はその大きな拠点だったが、今から見ると意外なのはウラジオストックに日本人が多くいたということである。ここでは日本人の雑貨商が多いという。ロシア全体からみるとウラジオストックは僻地なので商機があったのかもしれない。ともかく日本人はかなり広範囲に商売を拡げていた。中国は言うまでもなく、シャム、ハワイ、フィリピンなどでも日本人は商売していた。そして北米は最大の貿易相手でもあり太平洋沿岸だけで在留日本人は約8万人、商店員は2千人以上だという。
このように日本人が海外に飛び出ていくということになると、移民事業そのものを手がける会社「移民会社」が出てくる。これはほんの一時期の現象であったのだが、それでも目覚ましい規模で移民が行われたのが見て取れる。移民事業が行われたのは明治18年頃からだという。当時ハワイ政府から日本政府に移民の要望があったのだという。この事業に応募してハワイに渡ったのが2194人もいたというのだから驚く。明治30〜31年には、1年に2万から3万人がハワイに渡った。それほど、人々は新天地を求めていたのである。
ハワイ移民が盛んになるとこれを斡旋する会社がたくさん作られたが、それらの会社に「五会社」という同盟が結ばれた。カルテルの類であろう。移民するような人は日本での生活に行き詰まった、切羽詰まった人が多かったから、そこにつけ込んで移民会社は好き放題しており、その悪評も甚だしかったらしい。ためにカルテルが組まれたのであろう。ただ、著者は「五会社の布哇移民に功勲多きを認めないのは偏頗である(p.177)」として五会社の功績も認めている。
ともかく、五会社の専横には反発勢力が生まれ、五会社内部も一枚岩ではなかった。そんな中、五会社のうちの一つを経営していたのが衆議院議員でもあった日向輝武が、五会社の均衡を破って設立したのが「大陸植民会社」である。
一方、ブラジル移民の構想もかなり古かった。しかし日伯間には条約がなかったためにブラジル以外の南米がまずは中心となった。ペルーには明治32年に初めて移民が行われ、数千人の日本人が移民したという。この事業の中心となったのが田中貞吉という悪名高い人物で、夭折した田中を継いで起こったのが「明治植民会社」であった。その後ブラジルとの条約がなり、ブラジル移民を斡旋したのが「皇国植民会社」である。
このように移民会社は盛衰を繰り返したが、明治末年になって多くの会社が廃業の憂き目をみた。それは政府が満洲や韓国への移民を重視した結果、それ以外への移民の条件が相対的に悪くなったことが主因である。しかし著者はそういう政策的な理由だけでなく、そもそも移民会社にも原因があるという。それは「日本の移民業者は、その取扱高で手数料を数えている口入業者である。その間に抱負なく、理想なし(p.194)」という点につきる。今の外国人研修生を斡旋している業者にもいえそうなことである。
本書の最後には「仏魂商服の人」という項目がある。これは仏教に帰依した商売人の意である。先に登場した「皇国植民会社」でブラジル移民を立ち上げたのが水野龍で、彼は熱烈な日蓮信仰を以て南米に渡ったという。なぜブラジル移民が計画されたかというと、当時五会社がハワイ移民事業を独占していたという事情があるらしい。しかしブラジル移民へは日本政府が冷淡で、水野には無理難題をふっかけたらしい。水野はそれにめげずブラジル政府との交渉を行って無事ブラジル移民の端緒を開いた。が、あまりにもその経費がかかりすぎたために皇国植民会社は第1回ブラジル移民で破綻してしまった。満州国の思想的支柱に日蓮主義があったことは有名だが、ブラジル移民にも日蓮主義がかかわっている可能性がある。
なお、様々な事業を手がけて成功したが、何らかの事情でブラジルに脱奔したのが山県勇三郎。この人はアムハラバこと西田和協の熱心な信者だった。ブラジルに行って後も、アムハラバへの献金を続けたという。
「日本人は内向き」といわれているが、明治時代から昭和初期にかけて、日本人は積極的に海外に出て行った。 明治時代では失業士族が新天地を求めたという側面が大きく、大正・昭和になると農地を相続できない次男三男が出て行ったという側面が大きいように思われる。明治維新後、日本は急激な人口増大を続けたので、食っていけない人がたくさんいたのである。そう考えると、人口減少局面にある日本が内向きになるのはやむを得ないことなのかもしれない。
富豪・事業家から明治時代を見る特異な本。
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