私が本書に興味を持ったのは、平雅行氏の『日本中世の社会と仏教』がきっかけである。そこでは、本書と『日本浄土教成立の研究』(井上光貞氏が本書の前に書いた本)が検討の俎上に載せられて批判された。批判の要点としては、第1に平安浄土教と法然との思想的違いを明確にできていない、第2に平安浄土教への理解が足りない、第3に浄土教の発展を中下級貴族の没落と関係させて述べた、などである。
【参考】『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著
https://www.shokeishuyu.com/2025/01/blog-post_19.html
本書は1971年の刊行であり、50年以上も前の本であるから(『日本中世の社会と仏教』刊行の時点でも)内容が古くなっていることは当然だが、あえて批判の対象となるということはそれが強力なドグマとして受け取られていたことを意味する。そんなわけで特に平安浄土教についてどう説明されているか気になって本書を手に取った。
本書は3部構成で「前篇 律令国家と仏教」「中篇 王朝国家と仏教」「後篇 鎌倉仏教と国家」となっているが、私の関心は中篇にあるので、前篇と後篇は簡略なメモとする。
「前篇 律令国家と仏教」では、古代国家における仏教の様相が語られる。
本書は「国家と仏教」という大きなテーマを掲げるが、著者は意外と概説はせず、象徴的な事例を選んで詳説するというスタイルをとっている。
本篇第1章では、十七条憲法と三経義疏が紐解かれる。特に三経義疏については類書に比べかなり詳しい。
第2章では中国・朝鮮の仏教が俗権の支配下にあったことを述べ、続いて古代日本の律令制でも同様に国家が仏教機構を統制していた(僧綱制)と指摘する。しかし「唐では国家権力が直接教界を統制する形態にまで進んでいたが、日本は国家権力が、教界の代表者を通じて統制する形態を学んだ(p.39)」。また国家は豪族が設立した氏寺を一定の基準で官寺化し(食封有る寺、定額寺)、また私寺の存在を否認した。続いて僧尼令の体系について詳しく述べ、また国分寺の整備について詳しく検討している。
第3章では行基と鑑真について述べる。著者は大仏については簡単に済ませ、むしろ行基が各種の社会事業を行って民衆に受け入れられたということを重視している。道鏡についても簡略である。「国家と仏教」という視点からは、大仏建立や道鏡政治の方が重要に思われるが、著者がなぜここを簡略に済ませたのが詳らかでない。
第4章では、まず光仁・桓武朝において仏教の統制が強化され年分度試制が創始されたことを述べ、次いで最澄の改革を取り上げている。ここで著者は最澄の「一切皆成・法華一乗」の主張について「一切衆生の平等を主張しつづけたことは仏教の歴史上重要な意味をもつ(p.98)」としている。また最澄の戒壇設立運動にも詳しく触れる。第3章で鑑真について取り上げたのも戒壇・戒律に関係があるからのようだ。空海については『三教指帰』、『秘密曼荼羅十住心論』とその要点を記した『秘蔵宝鑰』、『性霊集』などが詳しく紹介され、空海の思想は自らの完成を目指すものであるものであると同時に世俗道徳と妥協(恩の強調など)したものであることが指摘されている。著者は「空海の視座の高さは日本古代を通じて第一級(p.124)」としつつも「しかしそのあまりにも現実的な思考には、最澄にみられるような批判的精神が欠けていた(同)」と評価している。
「中篇 王朝国家と仏教」では、摂関・院政期における仏教の動向について述べる。
第1章では天台浄土教と貴族社会について述べるが、その冒頭で律令時代にも阿弥陀仏像や阿弥陀堂が造られたことについて「そのほとんどは自己の魂の救済のためのものではなく、死せる親族等の追善のためのものであった(p.133)」とあり疑問を持った。それらが追善のためのものであったのか、これは別に確かめてみたい。
さて、著者はまず天台浄土教の発達について確認する。天台浄土教は智顗の説が基盤となり、最澄が六祖堪然以降の天台宗を移植し、さらに円仁が五大山念仏三昧を唐から伝えたことで発展した。ちなみに円仁の遺命によって始まった不断念仏は8月の11日から8日間行う年中行事的儀式である。そして天台浄土教は文人貴族に受け入れられていった。
さらに著者は空也を詳しく取り上げ「空也の念仏勧進は、民間浄土教の発達上画期的なもの(p.142)」と評価している。ただし空也の念仏は民衆には大きな影響を与えたが、「空也の念仏は、叡山の学僧や文人貴族の天台浄土教のそれとは著しくちがって(p.140)」いた。それでも天暦時代には貴賤の広い支持を得た。
一方、空也の活躍と同時期、良源は藤原師輔の護持僧になって、横川楞厳院に法華三昧堂が草創された。浄土教は摂関家に受容されたことで非常に隆盛する。そして良源門下には多数の学僧が輩出された。良源が師輔の子の尋禅を引き立て、結果として良源没後に天台座主となったことは異例な人事であったため、叡山の門閥化に道を開き、またそれに対する反発が起こった。結果として叡山は山門と寺門に分裂することになった。
次に千観と慶滋保胤が取り上げられる。千観は天台僧で、後に空也の教えにより遁世したとされる。応和2年(962)の『十願発心記』の他、千観には数多くの著作があり、しかも彼は教団を組織して厳しい禁欲生活をしていたようである。また彼は「文献的にたしかめられる最初の和讃(p.149)」である阿弥陀和讃をつくっており、、浄土教の大衆化も示している。空也に次ぐ浄土教実践の先駆者と言えよう。一方、慶滋保胤は「観学会」という結社をつくっているが、これは3月・9月の15日に法華経を講ずるのを聞き、経中の一句を題として詩を作り歌を詠じ、あわせて阿弥陀仏の名号を称えるものであったらしい。千観と比較すると保胤の実践は文人貴族的だが、保胤はまた「権門勢家の造寺造塔のむなしさを鋭く批判(p.151)」もしている。彼は後に出家して観学会は解散されたが、時を同じくして比叡山横川に二十五三昧会が結成されている。これにも保胤は関与した。著者は千観と慶滋保胤に共通して「教団の世俗化・貴族社会の門閥化に対するはげしい批判的精神(p.153)」があるとしているが、どちらかというと「空也ー千観」の民衆的浄土教と「良源ー慶滋保胤」の貴族的浄土教という2つの系譜として理解しうるように感じた。
さらに著者が「名利の外に魂の自由と一切衆生の救済を求める精神運動(p.153)」のピークと位置づけるのが良源の弟子である源信とその著書『往生要集』である。『往生要集』は後世へ大きな影響を与えた著作である。著者は『往生要集』の内容を詳しく紹介し、源信が菩提心を強調していることを指摘している。単に往生を願うばかりでなく菩提心が重要と言っているのは、後年、明恵が法然の『選択本願念仏集』に対して菩提心が閑却されていると激しく批判した(→『摧邪輪』)のを想起すると興味深い。
源信は『往生要集』執筆後先述の二十五三昧会に加入したが、社会的活動を停止したわけではなく、むしろ旺盛に著述を行い、また宋の仏教界との交流によって疑問点を解消しようと試みるなど意欲的に活動した。彼は名利への関心を持たなかったが貴族からの名望は高まり、特に藤原道長は源信を慕っていた。また源信は遁世後に「霊山釈迦講」という結社を別に作っておりこれが興味深い。これは釈迦像を本尊に、毎朝釈迦を供養し、また毎月晦日、法華経を講じる講でその講衆は600人もいたそうだが、「源信の晩年にはじめた講が、阿弥陀講ではなくて釈迦講である(p.165)」のは何を意味するのであろうか。本尊が釈迦仏であり法華経を中心とした信仰であったことは、原点回帰的なものがあるのかもしれない。著者は二十五三昧会がごく限られた人のためのサークルであったのに対し、霊山釈迦講は「上は貴顕から下は在地人を包含する(p.167)」人々に開かれた(=実践可能な)ものであったという点を重視している。
摂関期には貴族が出家し、また浄土教の実践を行うことが広まった。花山天皇も出家し、二十五三昧会に結縁している。そしてこの時代に特に盛んになったのが阿弥陀堂の建立である。摂関・院政期には寺院・堂舎の建立が非常に盛んになったが、著者は特に阿弥陀堂に注目してその建立を表にまとめている。特徴的なことは、摂関期においてはそのほとんどで丈六阿弥陀像が、院政期になると九体丈六阿弥陀像が祀られていることである。かなり巨大な阿弥陀像を建立するのが普通になっていたのである。そのピークは12世紀前半の白河・鳥羽院政期である。ところで著者はこれらの「阿弥陀堂には死者の追善のために造られ、周忌の法会を営むことを本体とするものも少くな(p.182)」いと述べるがこれは本当か。院政期の周忌は3回忌までが普通であったと思われるが、3年のために堂舎を建立するとは思えない。一体貴族たちは何のために阿弥陀堂が必要だと思っていたのだろう。著者は「無常の現世に極楽浄土の幻想を享受しようとする頽廃的な心理にねざすものであろう(p.184)」というが、わかったようなわからないような説明である。しかし奥州藤原氏の藤原清衡が建立した平泉中尊寺金色堂は、確かに須弥壇下に清衡の遺骸が納められているので追善の目的があったのは確かであろう。
一方、叡山の方では「有力山門僧の出自をみても、ほとんどが受領層以上の子弟、座主の半数は摂政・大臣家の出自というように著しい門閥化を示し(p.185)」、教団の門閥化が進んだことで学問・故実の秘伝下が進んでいった。その趨勢の中で本覚思想を基調とする中古天台が発達した。そして「院政期には一般に天台教団の学問が衰微したので、浄土教上見るべき著作も、天台にはほとんどみられなくなった(p.188)」。その例外として真源の「自行念仏問答」と皇覚の「枕雙紙」(ともに伝源信撰)が取り上げられるが、著者は「千観・源信時代のそれのようなリゴリズム(厳格主義)がみられなくなっている(p.189)」とし、「この時期の仏教史の真の担い手(同)」を地方民間布教僧ではないかと問題提起するのである。
第2章では、説話集を題材に平安期の民間仏教が詳説される。平安時代になると、度牒制など律令時代にあった民間仏教を抑制する種々の規制がなくなり、「既成教団から独立した民間布教者の活動が自由になってきた(p.195)」ため、民間布教者の聖・上人の活動が活発になった。その様相を説話集により窺うことが本章の目的である。
『日本霊異記』の著者の景戒は薬師寺沙門とはいいつつも妻子がおり貧しい生活を送っていた人と思われ、彼は「官寺の大僧よりも慈悲にあふれた私度沙弥の乞食業に強い同情をいだい(p.198)」ており、教団と一定の距離があったことが窺える。またそこには「たとえ悪果を得ても近親・縁者の功徳によって容易に悪報を解除される話(p.200)」が多い。また地獄や閻魔の話も多く、そこには唐の『冥報記』と『金剛般若経集験記』の影響が看取される。
さらに著者は『日本霊異記』において現れる、沙門・沙弥・優婆塞などの非公式な(国家に僧侶として扱われない)僧侶の呼称を検討し、それらの呼称が本来の意味(=私度、在家信者など)を越えて使われだしていることを示すと同時に、民間仏教者を類別する心象があったことを指摘している。
『日本霊異記』に見える在家信者は、「貴族が少くて、大部分が郡司や富豪、及び公民である(p.205)」。これは、律令時代には在地の郡司層が仏教受容に重要な役割を果たしたことを示唆している。また最も多く見られる経典は法華経である。
次に検討されるのは往生伝と験記である。中国では、「金剛般若経・法華経・華厳経など特定の経典ごとに編まれた説話集(p.209)」があり、『法華験記』もその系譜に位置付けられる。『法華験記』では『日本霊異記』と同様に前世に悪業を犯したものが法華経の功徳で今生には持経者になるなどの話が実に多いが、『霊異記』とは違ってそこには「原罪的な罪業感が濃厚であって(p.211)」、法華経によっても簡単に罪障を消滅させられはしないという暗さがある。よって『法華験記』には苦行者が多く登場し、「経典の読誦・書写によってただちに賊難・水難を免がれることのできる楽天的な霊異記とは全く性格を異に(同)」している。
ここでも著者は僧侶の呼称について着目し、「聖・上人・仙」の用語が「沙門」とともに普通に使われるようになったことを指摘する。しかしその意味は沙門と同じではない。院政期には何々聖と呼ばれるものが非常に多くなるが、正式な僧侶ではない、という否定的な含意があった沙門とは違い、むしろ「聖・上人」は高く評価されるようになったと思われ、また「聖・上人たちが、一つの宗教的社会層として形成されてきたことを示(p.215)」している。また聖と上人の違いについては、「阿弥陀聖・小田原聖などと固有名詞的によばれたものには山林修行、苦行、遊行、入水、焼身など、異常な宗教的霊力や行為を示す行者が多いのに対して、上人には都市や農村に定着し、隠棲して自利の業を積み、又は説法などによって人々の尊崇を集めたものが多い(p.215)」と指摘している。そして『法華験記』の世界は、「上人的ではなくて聖的(p.216)」である。『法華験記』の説話には山岳を舞台とするものが多く、先述の通り苦行的な持経者が多い。また『法華験記』には在地武士層が数多く登場し、例えば合戦で矢が当たらない、観音が身代わりになり傷を負わなかったなど、現世的な利益を目的とした「在地武士層の仏教——ここでは法華信仰——の原初的な状態を示している(p.219)」と考えられる。
次に『今昔物語集』から特に地蔵信仰が検討される。『今昔物語集』には、地蔵菩薩が地獄に救済者として現れ、弁護人として訴えてくれる、という説話が散見される。地獄から救い出された後には阿弥陀如来に頼るという筋も多い。それらの説話には貴族性が希薄で、郎等武士が登場することが多い。そして南都北嶺の寺院はほとんどなく、庶民の集う寺が目立っている。「地蔵信仰がとりわけ下層の身分に厚い(p.226)」のである。ちなみに『今昔物語集』には様々な仏教説話が含まれているが、なぜ地蔵説話のみを取り上げたのか著者は説明していない。
次に院政期の往生伝が取り上げられる。院政期には大江匡房『続本朝往生伝』、三善為康『拾遺往生伝』・『後拾遺往生伝』、沙弥蓮禅『三外往生記』、藤原宗友『本朝新修往生伝』などが相次いで書かれた。これらは全て文人貴族の作であり、『今昔』などの説話集と違う性格がある。それは説話集では「地獄の責苦や冥官の裁判、人が畜生に転生する話など、いわば民間信仰的な色彩の濃厚な輪廻転生思想がひろくみられたのであるが、一般に往生伝では、この種の話が稀薄(p.229)」であって、例えば『法華験記』の覚念伝では虫であった前世で法華経文も一部を食い破ったことが宿業となっているという話が主となっているのに、為康はこの話を『拾遺往生伝』に取り上げながらその部分を全く削っている。「教養ある知識人としての筆者はそれに興味をもてなかったからであろう(同)」 。地獄や六道輪廻に対する恐怖から往生を希求したわけではないようだ。為康はそれよりも念仏によって往生ができるかどうかということに関心を注いでいた。それは「日々に念仏や読誦を重ね、厳しい精進を自己に課しながらも、不往生の不安から脱却できなかったためであろう(p.231)」と著者はいう。
そして往生伝には下級の僧侶はあまり登場せず、顕密の大寺院、特に叡山が中心となっている。ただし大寺院に属しながら本寺を離れて別所に移り、そこで行いをする別所上人が登場して人々から崇められており、「浄土教の発達は本寺よりもむしろ別所に移った観を呈して(p.235)」いる。また院政期往生伝ではより下級の僧侶が多くなっており、また地方在住のものも多く見出され、東北・北関東・中国地方西部を除いて全国に及んでいる。つまり浄土教は院政期には全国に広まっていた。鎌倉仏教が浄土教を広めたのではなく、「あらかじめ日本の各地に、主として天台宗の浄土信仰が諸信仰と混同した形で広まっていた(p.239)」のである。なお在家信者も貴族社会がメインではあるが中流貴族および下級官人が登場してきている。
第3章では、別所念仏について述べている。院政期には別所が64箇所あったことが確認される。叡山の別所の大原、高野山の別所、天王寺の念仏別所などである。大原は摂関期から確認できるがその歴史を劃したのは良忍で、彼は手足の指を切燃して仏経を供養したことでも知られる念仏上人である。良忍の伝記的事実ははっきりとはわからないが、融通念仏を教導したとされている。融通念仏とはそれぞれが称える念仏が互いに融通し合って往生の機縁となるという念仏の捉え方である。
高野山は、正暦5年(994)に諸伽藍がほとんど全焼してから衰微していたが、様々な努力を経て、中興の祖明算の頃からは大寺院としての風格を取り戻した。どうやらこの復興の過程で、聖・上人僧がかなり高野山に入ったらしい。この別所聖人が高野山でかなりの勢力となり、真言宗の僧侶と並んで高野山を構成する要素になったようである。覚鑁はれっきとしたエリート僧であったが、なぜかこうした念仏上人の阿波上人青蓮の下に身を寄せた。そしてやがて高野山の改革を目指し、挫折して紀伊根来に逃れるのである。ともかく高野山の別所聖人は浄土教の一つの中心となっていたようである。
次に天王寺念仏宗が取り上げられる。「天王寺の西大門は極楽の東門であるとする信仰が発生し、伽藍の西方外側の地域が浄土教霊跡とされ、願生者が巡歴・集合するようになり、あわせて天王寺そのものも、貴賤の参詣を得て盛大となった(p.259)」。特に白河院政期の永暹上人は注目される。彼は出雲鰐淵寺から出て、「大仏事を修すること六度、そのたびごとに足指を切って燃燈供養し(中略)百万遍念仏を修すること数を知らず(p.260)」という苦行者で、多くの人に念仏を勧めた。また鳥羽院政期の出雲上人は京の貴賤の熱狂的な信仰を得て百万遍念仏の大規模な念仏衆を組織していた。これは衆徒が毎年一度ずつ入れ替わり立ち替わり昼夜不断に念仏を続けたもので、法皇や女院もこの念仏衆の一員であった。彼の念仏は「勇猛之念仏」で少し妖しいところがあったらしく、藤原頼長は「其の説、正直に非ず、怪となすに足る」(台記)と冷ややかである。しかし彼は組織者としては一流で、その40年後にも念仏衆は続いており、後白河法皇は天王寺に参詣して念仏三昧院に泊まり百万遍念仏に参籠している。栄西は『興禅護国論』で「念仏宗は先皇勅して天王寺に置く、今の尊卑の念仏はこれ其の余党なり」と述べている。天王寺の別時念仏は「「念仏宗」といわれるほどの大きな組織を京都・近郊の願生者の間につくりだした(p.263)」が、残念なことに「すぐれた教説と伝統を生みださなかった(同)」。
本章の動向を私なりにまとめると、天台浄土教には「円仁ー良源ー源信ー往生伝」の貴族的浄土教が京畿周辺に興隆した一方、地方や庶民世界には「空也ー千観ー説話文学ー良忍(融通念仏宗)ー天王寺念仏宗」の民間的浄土教が広まり、それが次第に重なって鎌倉仏教につながっていった、という図式となる(後述)。
「後篇 鎌倉仏教と国家」では、鎌倉仏教の動向を専修念仏と日蓮を中心に述べている。
第1章ではまず法然と『選択本願念仏集』について述べ、それが『往生要集』の引用していない善導の観経疏の文を発見して専修称名の確信を得たものであったとしている。法然は武士からの帰依を受けたが鎌倉幕府からは弾圧された。ただし法然を強く批判した興福寺に対して、朝廷は法然に対しては同情的であった。なお法然は伽藍は否認し居所を草庵と読んだが、縦の師弟関係は重んじたのが後の親鸞と違う。
ところで、法然の門下から出た幸西はいわゆる一念義を説いた。阿弥陀仏の名を称え、その願力の謂れを聞いて領解するのを一念といい、この一念領解の心の起こるとき往生は決定するという考えである。これは十悪・五逆も障りないとされ、造悪無碍に陥りやすかった。
次に親鸞ついて述べ、『教行信証』について検討を加えている。これを「選択集と比べる時、最も中枢的な特色は、真宗教学でもいっているように、回向の観念の転換(p.301)」であろうとし、念仏は自ら行うものでなく、阿弥陀仏の回向によって可能になるものというのが独自の教説であった。また親鸞は「往相回向ノ心行ヲウレバ、則ノ時ニ、大乗正定聚ノ数ニイルナリ」(教行信証化身土巻)というように、即得往生、すなわち現世において死後に必ず成仏する位に定まると強調しているが、これは中古天台の本覚法門の影響があるようである。親鸞の教えは武士、さらには農民など一段と下層の人々に親近的であり、またその教えは法然のような説教調ではなく「自分もともに悩めるものとして語りかけている調子(p.312)」がある。しかしながら親鸞の教えは念仏以外を認めないものであり、当時の常識であった神仏習合を否定して神祇不拝を伴ったために種々の軋轢を生んだ。
第2章では日蓮と一遍が取り上げられる。日蓮は国家に対して諫暁を行って弾圧された。しかし日蓮は迫害をうけることによって我が身の正しさを確認している。さらに日蓮は法然を激しく批判したが、「禅宗は天魔波旬の説」「大小の戒律は世間誑惑の法」といって禅・律も非難している。とにかく批判・非難のエネルギーはすごい。しかし意外にも日蓮は儒教道徳・封建道徳は大事にしており、その門弟・檀越を「一門」の語で表している。日蓮は家庭道徳を強調しており、「法華信仰と祖先や父母への報恩は一体のものであると考え(p.350)」ていた。「日蓮の理想は、家族・親類・縁者がみな法華経の信者となり、かれらの上にたつ主君もまた信者たるような世界であった(p.353)」。
また論述の中心ではないが、日蓮は墓を重視している。見延を去る際、お世話になった南部六郎三郎実長に「いづくにて死候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(身延沢)に立させ候べく候」(波木井殿御報ー433号)と述べ、また伊豆の檀越南条氏の墓にわざわざ参って懐かしんでいる。いわゆる鎌倉仏教の祖師には墓を重視する性格が薄いが、日蓮は例外のような気がする。日蓮は死の直前に高弟6人を「本弟子」と定めているが、死後彼らは輪番で身延の墓所を守ることとしており、これも日蓮の姿勢の表れであろう。
また日蓮は自分の信者は仏になると言っていて、家族3人がまとめて入信した際「三人ともに仏になり給、ちちかた(父方)、ははかた(母方)のるい(類)をもすくい給ふ人となり候」(兵衛志殿御返事−291号)と述べている。
次に一遍については、南無阿弥陀仏と称えれば「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」全ての人が救われるということと、全てを捨てなければ生死を離れることは出来ないという単純明快な確信が強力な行動原理となった。そして「念仏をする衆生がそのままに阿弥陀仏であるという機法一体の所説(p.366)」が形成された。一遍の念仏は、信心などとは無関係に救われる・仏になれるという易行を基調にしつつ、自らは苦行を行い、自らに同行するもの(時衆)にも厳しくそれを求めた。つまり一遍の念仏には易行と苦行が同居していた。また他の専修念仏運動が神祇不拝を主張していたのに対し、一遍は積極的に神社に詣でた。これらは融通念仏宗の影響が大きいのではないかと著者は指摘している。
*****
本書は全体として、冒頭に述べたように概説というより象徴的な事項の詳説という性格が強く、書き下ろしの本なのだが論文集のような性格が強い。著者はあとがきで「日本古代仏教の中から鎌倉仏教のうまれてくる過程を一貫した観点で扱ってみたいという年来の課題(p.405)」に取り組んだというが、その「一貫した観点」が私には明確には摑めなかった。
特に「国家と仏教」を銘打ちながら、本書には国家論が稀薄なのが不思議だった。古代において大仏建立と道鏡がほとんど取り上げられていないのは先述したが、例えば摂関院政期の国家が主導した寺院建立の動向(六勝寺など)も非常に簡略であり、寺院や僧侶の国家制度の変容なども一瞥はされているが詳述はされない。そして後篇にいたっては国家の要素は皆無といっていいほどである。むしろ著者は、国家と少し距離のあるものについて力を込めて描いている。後篇で、鎌倉仏教の中でも最も国家と遠かった日蓮と一遍について取り上げたのはその象徴である。また、本書には社会経済的な視点もほとんど見られない。この時代を語る上で荘園制は避けて通れないと思うが、本書には荘園制についてもほとんど述べるところがないのである。こういう次第であるから、私としては、著者のいう「一貫した視点」は、むしろ国家の外を向いているような気がした。
ところで、本書は古い本であるから額面通り受け取れない部分がある。一番大きいのは、1975年に黒田俊雄氏が「顕密体制論」を発表し、鎌倉時代においてもいわゆる鎌倉仏教は少数勢力であって、依然として「顕密仏教」が力を持っていたというのが通説となったことである。つまり「鎌倉仏教のうまれてくる過程を一貫した観点で扱ってみたい」という問題意識自体が、それほど意義のあるものではないということになる。もう一つが、顕密仏教の改革を企図した人々が「遁世僧」であったということが本書にはほとんど書かれていないということであるう。「遁世」という用語は本書にも登場するものの、さほど強調されていない。現在の学説では「鎌倉仏教」という枠組みよりも、「顕密仏教」と「遁世僧」の関係が重視されている。
そういった難点が本書にはあるが、「中篇」は個人的には面白く読んだ。特に説話類から民間的な浄土教を検討するという手法はなかなかエキサイティングであった。しかしながら、「円仁ー良源ー源信ー往生伝」の貴族的浄土教と「空也ー千観ー説話文学ー良忍(融通念仏宗)ー天王寺念仏宗」の民間的浄土教という二つの浄土教があったという井上氏の見立ても、平雅行氏によって批判されている。例えば井上氏が民間的浄土教(※氏の用語では、「民間浄土教」)の嚆矢として扱う空也についても、文人貴族は高い関心を有し実際「空也誄」が源為憲によって作られている。逆に源信の『往生要集』でも観想を第一義としつつ、それを実践しえない人にも様々な(より簡易な)行を勧めている。この二つの系統は截然と分けられない。平氏は「ここにあるのは二つの浄土教ではなく、一つの仏教、一つの浄土教観における達人宗教と大衆宗教との二元的・階層的構造である(『日本中世の社会と仏教』p.53)」と述べる。民間にも浄土教が広まったのは、民間が独自にそれを発達させたというより、顕密仏教が民間を包摂していったと認識した方がよいとし、貴族と民間の浄土教の実践に違いがあったとしても「思想の違い、宗教の違いを必ずしも意味してはいない(同書p.54)」という。確かに貴族と民間の浄土教は大枠ではほとんど違いがなく、二つの浄土教があったとは言いづらい。
しかしながら、「円仁ー良源ー源信ー往生伝」系統と「空也ー千観ー説話文学ー良忍(融通念仏宗)ー天王寺念仏宗」の系統に細かい違いが存するのも事実で、その細かい違いが面白い。二つの浄土教はなかったかもしれないが、「浄土教の受容の仕方には二つあった」というのが本書を読んだ私の感想である。例えば現在でも、純文学と大衆文芸(エンタメ)には截然とした区切りはないし、同じ著者が純文学とエンタメの両方を書いていることもあるが、これを受容する読者の側には純文学とエンタメには異なる心理・向き合い方があると思うし、そういう違いを細かく見ていくのが文芸批評の醍醐味ではなかろうか。そういう意味で、井上氏の「二つの浄土教」の視点は、多少の修正が必要であるにしても有効ではないかと思うのである。ただし「○○は純文学と言えるか」というような問の立て方がしばしば不毛であるように、個別の事象(例えば空也)が貴族的浄土教なのか民間浄土教なのか、といった考究はおそらく有効でなく、大まかな二つの流れがあったと考えるのがよいと思った。
「国家と仏教」の視点は薄弱だが、平安浄土教を独自の視点で語る労作。
【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著
https://www.shokeishuyu.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。専修念仏教団と顕密仏教の関係を詳細に明らかにした労作。
『阿弥陀聖 空也――念仏を始めた平安僧』石井 義長 著
https://www.shokeishuyu.com/2025/11/blog-post.html
空也の評伝。初めて空也の生涯を実証的に明らかにした労作。
『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。
『選択本願念仏集』法然 著・大橋 俊雄 校注
https://www.shokeishuyu.com/2025/02/blog-post_24.html
法然の主著。専修念仏教団を生み出した、念仏至上主義の書。
『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
厳密な史料批判に基づいた親鸞の生涯。歴史学における親鸞研究の到達点。
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※本文で引用したのは岩波書店日本歴史叢書版。
