2026年7月31日金曜日

「細君」坪内 逍遥 著(『坪内逍遥・二葉亭四迷集 新日本古典文学大系明治編18』所収)

坪内逍遥の中編。

坪内逍遥はその後半生をシェイクスピア全集の翻訳に傾け、また小説よりも戯曲・演劇に力を注いだので、『細君』はその合間に書かれた例外的な作品ということになる。

今から見れば古色蒼然としたこの小説を私が読んだのは、明治時代の人々の生活実態やその心情が知りたいと思ったからなのであるが、意外にもここに描かれる「夫人」の心情は今の女性と大差がない。

主人公の「夫人」は、社会的な地位はあるが浮気で愛情のない夫との家庭生活に倦み、しかし金銭的に厳しい実家との板挟みになって離婚に踏み出すことができない。この状況からは、女性が自活できない明治の家父長制全盛期の様子が窺えるのであるが、ではこの女性が単にモノのように扱われているかというとそうでもないのが面白い。というのは、「夫人」自身、打算による結婚をしているのである。「夫人」は学生の頃から「負惜みの強いのと愛嬌の乏しいので人に知られ」ていて、友達を冷ややかに批評するばかりで全く真心に欠けており、当然男性にモテるということもなかったが、「見事立派に片附て鼻をアカして見せやうと」し、「夫の人柄には好(このみ)はない。只中等より以上の宅(うち)へ縁附いて元の友達の顔が見たい」、つまり、身分以上の男と結婚して友達を見返してやりたい、というだけで結婚相手を決めたのである。

しかし案の定、家庭は冷ややかで、お金はそれなりにあっても「夫人」にとっては万事が不如意であり、夫が支配権・決定権を持っている状態に甘んじるよりは、貧乏でも自由に生きた方がよいのではないかと考えるようになっていった。

こういう状況で「夫人」の心情を作者が説明する文章がまた面白い。曰く「夫人は最早小説を弄ぶ十六七の娘にもあらず、又西洋の女にもあらねば、学校に在りし時とは違ひ同権又は愛情と云ふ事を雛形の通りには思はねども」、それでも思い悩んでいたという。この小説が発表されたのは明治22年であるが、すでにこの頃、学校では「男女同権」や「男女の愛情を基盤とした婚姻」といったことが教えられ、それを「雛形」のように思う観念があったということになる。しかしそれが現実とは違うという認識もあったわけである。

この感覚は現代でも同じようなものではないだろうか。一応、男女同権は当然のこととされてはいるものの、未だに家事負担は女性に大きく偏っているなど男女同権とは程遠い現実があり、女性自身しょうがないことだと諦めている。そういう感覚をすでに「夫人」は持っているのである。男女同権の教育と、それが理想に過ぎないとする諦観は意外と早くから浸透したようだ。

ちなみに、この頃の小説の会話文は初めの括弧(「)はあるが終わりの括弧(」)はない。会話文の終わりには「ト言いつゝ」などと必ず「ト…」があるのでさほどわかりづらくはないのだが、最初は慣れなかった。

最後に小説としての面白さについていうと、最初の方はあまりドラマチックではない作品だと思ったが、徐々に筆が乗ってきたのか後半はなかなかスピード感があり、特にラストはシェイクスピアばりに劇的な悲劇となっていて読みごたえがあった。

明治20年代の上流階級の生活実態を活写した作品。

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2026年7月24日金曜日

『明治東京畸人伝』森 まゆみ 著

谷根千の人々を描いた作品。

著者は、季刊誌『谷中・根津・千駄木』、通称「谷根千」の編集人である。この雑誌は地域の話題を取り上げる雑誌だが、地域にあるものを紹介するだけでなく歴史的に深掘りする特集が組まれており、本書はそこで取り上げられた地域ゆかりの人物について、雑誌の記事を補筆して書かれたもののようである。また特に畸人とされる人ばかりを取り上げているのではない。

よって、『明治東京畸人伝』というよりも、『明治谷根千人物誌』とすべき内容である。

さて、谷根千とは、皇居の北東に位置した下町的区域で、南・東は上野公園と東京大学、北・東側はJR(日暮里・西日暮里)、西側は駒込までのエリアであり、その面積はだいたい約1.5km四方くらいと思われる。この狭いエリアに、まさに多士済々の人物が暮らしていた。

こういう本の面白いところは、何の脈絡もなく人物が登場することである。何しろ、その共通点は谷根千に住んでいた、ということしかないのだから。もちろん、パリのモンマルトルのように、ある地域に特定の業界の人々が集まることはある。しかし谷根千の場合は良くも悪くも、いろんなタイプの人々が入れ代わり立ち代わり暮らした。

明治初年に写真館を開いた横山松三郎、宝丹という薬を売りまくった守田宝丹、最初期のピアニストで派手なパフォーマンスによって人気を得、ベルリンとウィーンに渡って絶望し自殺した久野久(くの・ひさ)、岡田式静座法という健康法・修養法で人気となった岡田虎二郎、藪蕎麦の元祖三輪伝次郎、とんでもない貧乏なのにサトウハチローの面倒を見ていた(同居させていた)詩人の福士幸次郎、『尋常小学読本唱歌』を編集し新作唱歌のリーダーだった吉丸一昌(「早春賦」、「おたまじゃくし」など)、ハーフの芸者春日とよ、上野公園一筋の名物園長古賀忠道、女遊びが激しい文筆家の物集高量(もずめ・たかかず)など、大文字の歴史を学んでいてはあまり登場しない人々が次から次に取り上げられるのが面白い。

とはいえ、やっぱり知っている人物が登場するといろいろ参考になる。一番面白かったのは幸田露伴が名著『五重塔』のモデルにした谷中五重塔(天王寺五重塔)の話である。谷中五重塔は昭和32年7月6日に放火心中で焼けて失われた。この五重塔の心柱が懸垂式で上からぶら下がっており土台には接していなかったとか、谷中共同墓地はこの五重塔があった天王寺の境内だった(土地が新政府に接収されて墓地にされた)といったトリビアルな話題が興味深かった。この他有名な人物としては、村山槐多、サトウハチロー、河口慧海、川端康成、北原白秋、三遊亭円朝などが取り上げられている。ちなみに章立てられてはいないが、森鴎外、宮本百合子、朝倉文夫(彫刻家)も谷根千に住んでいた。

そして本書の掉尾を飾るのが渡辺治右衛門である。明治の末での東京の地主は、1位が岩﨑家(22万1千坪)、2位が三井家(17万2千坪)などと続き、5位だったのが渡辺治右衛門(6万3千坪)だ。今では知る人も僅かだが、渡辺治右衛門は東京で五指に入る地主だったのである。渡辺家はもともと海産物問屋だったが、土地への投資で巨富を築き上げた(大概の金持ちがそうだが)。そして渡辺銀行を創業。金融業としては良心的な商売をしていたらしい。ところがこの渡辺銀行が一夜にして倒産する。

若槻礼次郎内閣で蔵相を務めた片岡直温(なおはる)が国会答弁中、むかっ腹を立てて「ただいま渡辺銀行が倒産した」と言ってしまったのだ。これは、直前に渡辺銀行から手形の決済が難しい旨の連絡を受けていたことを受け、つい口を滑らせて話を盛ってしまったもので、実際には渡辺銀行は別の銀行から融資をうけて事なきをえたものの、国会で「倒産した」と言われた打撃は大きく、とんでもない取付騒ぎが起こった。もちろん、手形の決済ができないくらいのなので経営が傾いていたことは事実であったが、預金者が大挙してお金を引き出しに来たのでどうしようもなくなったのだ。さらにこの騒ぎは他の銀行までも飛び火し、19行が倒産あるいは休業に追い込まれた。「わずか数日の間ではあったけれども、銀行の取付けが洪水のように市中のすべての銀行の前に殺到した時の物凄さは、今ふり返ってみても怖ろしいほどであった」と大阪毎日新聞経済部長だった下田奨見が述懐している。

ともかくこの騒ぎで預金がなくなってしまった(結果的に引き出せなかった)人が多く、谷根千では「ワタナベヂエモン」に対する恨みは激しい。しかし渡辺家の人たちは総じて良心的で、政府の失言によって倒産した部分もあったにもかかわらず政府を糾弾するようなこともせず、財産のほとんどを失いながらもそれなりに矜持をもってその後を生きた。

本書を読みながら、地縁というものの面白さを改めて感じた。地縁を中心に歴史を見ると、歴史の流れとは違ったところに目が行く。例えば鹿児島でいうと加治屋町をこんな風に描いたらどうなるだろう。よく知られる通り、加治屋町からは西郷隆盛や大久保利通、大山巌、東郷平八郎など明治の偉人とされる人がたくさん出た。だが、西郷家の隣、大久保家の隣にはどんな人が住んでいたのだろうか。それで明治維新が修正されるとは思わないが、これまでの明治維新とは違った断面が見えそうである。

地縁にこだわって歴史と人物を語る好著。

【関連書籍の読書メモ】
『五重塔』幸田 露伴 著
https://www.shokeishuyu.com/2018/05/blog-post_20.html
幸田露伴の若き日の傑作中編小説。

『チベット旅行記』河口 慧海 著
https://www.shokeishuyu.com/2015/05/blog-post.html
黄檗宗の僧侶によるチベット滞在の記録。チベットに興味があろうがなかろうが、エンターテインメントとして読める第一級の旅行記。

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2026年7月5日日曜日

『墓と石塔の中世―石に刻まれた死者供養』狭川 真一 著

石塔の造立について語る本。

石塔の造立については分厚い研究の積み重ねがある。本書は石塔研究の最前線をまとめるとともに、著者が携わったいくつかの事例を紹介し、石塔に対する観念について考察するものである。

石塔が本格的に造立されるようになったのは中世であるが、奈良時代にも石仏や摩崖仏があった。特徴的なのは、それらは硬い花崗岩製であり、東大寺との関係がある奈良周辺に造立されているということだ。これは新羅からの渡来系石工が作った可能性がある。

平安時代前期(8~9世紀)には軟らかい凝灰岩性の石塔がそれらとは別の系統として現れた。これは奈良・京都を中心としていたようだ。奈良時代から平安時代前期の石塔は、「数は少ないがほぼすべてで、山寺の小さな伽藍を構成する仏塔として造営されたもの(p.11)」で、具体的には舎利が安置されていたと思われる。

平安時代中期には、福島県磐梯町にある慧日徳一廟塔とされる五重塔が建立されており、これは個人の廟所としての伝承を持つ古代唯一の石塔である。

このように古代にも石塔の造立は行われたが、散発的かつ少数であった。それが変わった契機と思われるのが、治承の乱(1180)で東大寺や興福寺が灰燼に帰し、その復興事業が行われたことである。東大寺の復興を担った重源は宋から技術者を登用し、その石材加工技術が東大寺復興後に広まっていくのである。日本に定住した伊行末の作品は全て花崗岩が利用されており、その後の伊派の作品はやはり全て花崗岩である。ここで日本の石材加工は、軟質の凝灰岩利用から硬質の花崗岩利用に転換したと見られる。文永2年(1265)から弘安8年(1285)に行われた216基の高野山町石をすべて木造から花崗岩製に作り替えるという大事業は、硬質な石材加工技術の定着を象徴的に表している。

「石塔の種類と特徴」では、石塔の種類ごとにこれまでの研究がまとめられる。

層塔は最も古くから造立された。軸部と笠部を別々に作る別石式と、両者を一石で作る一石式がある。一石式の最古の例としては奈良市塔の森六角十三重石塔、鹿谷寺(ろくたんじ)の十三重石塔がある。別石式の最古の例としては、奈良の龍福寺五重石塔(天平勝正3年(751))がある。奈良時代のものは木造建築としての塔を模しているが、平安時代後期以降は簡略化したフォルムとなった。初期の石の層塔は、飛鳥・奈良時代に建立された木造の塔が廃絶した後、その代わりに建立されたと考えられている。

笠塔婆は、方形柱状の塔身に笠石を置いたものである。最古の例として熊本市円台寺の建久4年(1192)銘のものがある。『餓鬼草子』には木造の笠塔婆が描かれており、木造がより古い形態だったと思われる。最近、木造の残存・出土事例がいくつか知られるようになった。例えば石川県珠洲市野々江本江寺遺跡の出土品(12世紀後半以前)などである。

宝塔は、円筒状の塔身の上部にくびれがあり、その上に笠部と相輪を持つ。宝塔はほとんど石造で木造の例は少ない。多宝塔は宝塔が複数の層を持っており、石造の事例はほとんどなく基本的に木造である。宝塔の最古の例としては、京都市鞍馬寺京塚から出土した保安元年(1120)銘のものがある。岩手県平泉町の願成就院宝塔も古い。これら古い事例は、経塚の標識として造立されたものと考えられる。大分の国東塔とよばれる仏塔も宝塔の一種と認められる。これは塔身に納経をしていたと推測される。

五輪塔は、最も数多く作られた仏塔と言える。『大日経』などの経典に平面的に書かれたものが立体化されたものだが、立体化の考案者やその背景は未だ謎である。図案としての最古の例は、法勝寺(承保3年(1076)創建)出土の軒丸瓦の文様にある。当初は宝塔との区別が明確でなかったが、表面に梵字が記載されることで五輪塔が確立したと考えられている。その最古の例は、兵庫県姫路市の経塚から出土した瓦製五輪塔で、天養元年(1144)のものとされる。また石造五輪塔としての最古の例は、岩手県平泉町の中尊寺釈尊院墓地の五輪塔で仁安4年(1164)の銘がある。これは火輪以下の内部が空洞となっているので舎利の奉安が想定されるが、初期の五輪塔には奉籠孔がなく造立目的が不明なものもある。

宝篋印塔は、基礎・塔身・階段状の笠・相輪で構成される複雑な形態の塔で、宝篋印陀羅尼を収めたことから名称がついたが、名称としての最古は正安3年(1301)の銘のもので、それ以前の名称は不明である。宝篋印塔の祖型は、かつては銭弘俶塔とされたが形態的な隔たりが大きく疑問である。著者はこの祖型は阿育王塔であると考え、その成立は『高野山縁起』に記される明恵の髪爪を収めた塔婆と見なしている。宝篋印塔は京都で発祥したと見られ、最古の例として京都府生駒市輿山往生院宝篋印塔の正元元年(1259)がある。

板碑は、薄い石材の上部を山形に加工して二本線と梵字を刻んだものである。在銘最古の例としては、埼玉県熊谷市の嘉禄3年(1227)のものがある。ただしこれは梵字ではなく三尊仏である。板碑の源流については様々な説があったが、石川県珠洲市野々江本江寺遺跡(前出)から木製板碑が出土した。これは12世紀後半を下るものではない。また鳥取県米子市吉谷亀尾前遺跡からも同様の資料が出土していたことが判明した。これらの出土品から考えると、板碑は陀羅尼を収めるためのもので、上部の二本線は宝珠が変形したもののようである。

無縫塔は、卵型の塔身が須弥座に置かれたもので中国に祖型がある。最古の事例は京都市の泉涌寺の俊芿の墓塔で、以後僧侶の墓塔として用いられた。

「墓に石塔が建つ」では、墓塔が立てられるようになった事情が考察される。

京都府長岡京市の西陣織遺跡は、11世紀後期の火葬墓跡で、墳墓状の頂上に相輪が置かれたと著者は考え、これは「仏塔と墓が直接的に関係する初期段階の事例(p.62)」だという。京都市東山区の六波羅政庁音羽・五条坂窯跡でも墳墓や笠塔婆が確認された。「これらの墓遺構は11世紀中ごろから12世紀中頃の間に営まれた計画性を持った墓地群であり、中央の空閑地を挟んで一定のエリアを占有する一族の墓所であろうと推定(p.65)」された。

他の遺跡の出土品も踏まえ、著者は墓と近接した最初の石塔形式は笠塔婆であると考える。比叡山横川には全部で5基の笠塔婆があり、良源(985年没)、尋禅(988年没)、邏賀(998年没)、源信(1017年没)、覚超(1034年没)の墓塔である。全て花崗岩製で、塔内に陀羅尼が納められていたと考えられる。後世に復刻した可能性もあるが、これらは「10世紀後期から11世紀前期にはすでに墓と石塔が接近して造営されていることを示唆する(p.68)」。

天皇家の場合、仁明天皇に至って陵寺が成立した。陵寺とは陵墓の兆域と寺院の境内が一致するものである。また御一条天皇の墓に陀羅尼を蔵めた石の卒塔婆を建てたという記録が『類聚雑例』長元9年(1036)にあり、墓と石塔が一体になったことがわかる。そして白河上皇、鳥羽上皇、近衛天皇は木造の三重塔の下の石室などに遺骨・遺体が埋葬されている。「この段階で、明らかに木造の仏塔が釈迦の舎利を埋納するのではなく、天皇の遺骨あるいは遺体を埋葬する施設に変化している(p.71)」。これらが塔の画期である。

また同時期に、皇族や貴族も仏堂内への埋葬が行われるようになった。皇室関係者の遺骨が次々に埋納された円光院の事例は興味深い。仏堂内に埋葬する事例を一般に「墳墓堂」という。なお現存建物で墳墓堂と考えられるものは中尊寺金色堂のみである。

源頼朝や北条義時も墳墓堂に埋葬された。頼朝の墳墓堂は「法華寺」と呼ぶ寺と認識され、火災のつどに再建されたことがわかっている。また北条義時の墳墓堂も火災に際して再建された。これらの事例からは継続した祭祀が行われたことが窺える。北条氏では三代執権の北条泰時までは墳墓堂が作られたことがわかっている。

その後の動向が窺えるのが足利氏の墓所である栃木県足利市の樺崎寺跡である。この寺跡には同時期に9基あるいはそれ以上の五輪塔が造営されている。この遺跡では、12世紀末からしばらく墳墓堂が造営され続けてきたが、それが急に五輪塔に置き換わったと思われるのである。頼朝や義時の墳墓堂は継続して祭祀が続けられていたが、一般には財政的な負担から墳墓堂の再建はされなかったと思われる。また複数の墳墓堂の維持管理にも大きな負担があったであろう。そこで著者は「樺崎寺では13世紀後期~14世紀前半頃に墳墓堂を廃止し、いっせいに石塔墓に変更したのではないかと推定(p.84)」する。石塔墓にすることにより、樺崎寺は足利一門の墓所を永久的なものとして整備できたのである。また樺崎寺にはこれらの石塔と離れた場所に、一族の中で大型五輪塔を建立できなかった者を合葬したと思われる無種子の五輪塔があり、墓所の在り方が窺えて興味深い。

熊本県玉名市の宇佐市の一族墓所も同様の事情が窺える。ここでは3基の五輪塔の造立日が文応元年(1260)で揃っている。これは宇佐某が先祖二代の五輪塔を造営するとともに自身の逆修塔を建立したものだが、それは宇佐某がこの地を一族墓所と定めて文応元年に整備したことを物語っている。この墓所のその後の発展を見ると、14世紀には妻の墓塔が見られるようになり、領主個人から夫婦を供養する形になっていったようである。そして墓所は「継続的な支配を視覚的に誇示する装置(p.93)」となった。

奈良市都祁来迎時にある多田一族の五輪塔群を見ると、14世紀の五輪塔は数が大きいが少なく、15世紀になると造立数が増え、16世紀には小型化・量産化・規格化が進む傾向が看取できる。これは16世紀以降には五輪塔が商品的に生産されていたことを示唆するものである。

一方、僧侶の墓はそれに先立つ10世紀末頃から造営されており、天皇や皇族が仏塔に埋葬された時期と同時期から存在する。先述の笠塔婆に続いて、12世紀には五輪塔が高僧の墓所に採用されるようになっている。その例として、文覚(鎌倉時代前期)、重源(1206年没)、貞慶(1213年没)がある。俊芿の一派が無縫塔を採用しているほかは、鎌倉時代前期は僧侶墓は五輪塔が中心である。

墓塔としての五輪塔の普及に大きな影響があったのが西大寺流律宗である。その開祖叡尊の墓塔は3メートルを超える五輪塔で、現在地が間違いなく当初の立地であるとともに、この地が叡尊の荼毘所(火葬場)でもある。叡尊の没後(1290年)まもなく宝瓶に納めた遺骨が埋められ、その上に五輪塔を建てたという記録がある。なお大阪府羽曳野市には叡尊の分骨塔と思われる五輪塔もある。叡尊の弟子の忍性の墓所は、鎌倉の極楽寺にあり、叡尊よりは少し小さな五輪塔で遺骨を収めた舎利瓶が納められていた。また分骨塔も奈良県の額安寺にあり、こちらも舎利瓶を伴っていた。その後の律宗の墓塔を見ると、「歴代墓所造営はかなり計画的に実施されているようで(p.113)」ある。つまり祖師の叡尊を最大の大きさで作り、その後墓塔の高さを抑え、しかも分骨・合葬・追葬などがある程度体系的に整備されている。先ほどの武士の墓所の造営が墳墓堂→石塔群へというやや場当たり的な経過をたどっているのと比べ、最初から石塔を中心に考えていた様子が窺える。

また、奈良市の唐招提寺には中興覚盛上人のものとされてきた五輪塔があり、これも西大寺系のものである。この五輪塔の解体修理が行われたところ、忍性と親交のあった中興二世の證玄のものとわかった。この五輪塔の地下には特殊な銅製蔵骨器が埋納されており、半分ほどは證玄の遺骨が入っていたが、その上には計画的に弟子の骨が追葬されたことが分かった。この例からは、死して師匠の元にいたいという観念があったことが理解できる。

「共同体の墓と石塔」では、共同納骨について考察される。

大型の五輪塔を造れる人間はわずかであったが、その他大勢はどう葬られたのか。その一つが合葬である。12世紀後期からは、大きな甕を埋置し、そこに火葬骨を埋納した事例が見られ、また岩手県本町II遺跡でへは火葬骨を埋納する大きな土坑がある。しかしそれらの墓は上部構造はあっても簡易なものだったと考えられ、恒久的な石造物はなかった

これが五輪塔を中心にした合葬に変化していく。早い事例として、長野県飯田市の文永寺の墓がある。ここには弘安6年(1283)に石室の内部に五輪塔がある構造物が造営されている。特徴的なのは、その下部に骨を埋納するための甕が埋められていることである。これは、まず甕の納骨が12世紀後半に始まり、1283年にその上部に石室・五輪塔が設置され、その後も納骨が継続されたと考えられている。このような経過で総供養塔への合葬が15世紀頃まで続いたようである。

ここで著者はケーススタディとして奈良県山添村の中之庄墓地を取り上げるがここでは割愛する。また西大寺流律宗の動向について、三重県の伊賀地域(山添村が隣接する)での総供養塔の文化を検証している。律宗は、墓地に総供養塔として無銘で大きな五輪塔を造立し、そこに合葬するという文化を広めた。例えば伊賀では14世紀に阿弥陀寺へ西大寺流律宗が入り、徐々に広まっていった。一方、伊賀では宝篋印塔が造立された地域と五輪塔が造立された地域はあまり重なっておらず、宝篋印塔は別の宗教集団によるものであることが確実である。

しかし西大寺流律宗は総供養塔の文化を広めた立役者であっても、律宗が嚆矢となったわけではないらしい。例えば千日墓地十三重石塔、大阪府太子町の東福院墓地の層塔など、共同の納骨施設を有するものが見られ、「墓の要所に石塔を建立し、塔下に納骨するという形態が13世紀には始まっていた(p.144)」。しかし「造立の背景にはどういう教団や人々が活動していたのか、現状では不明と言わざるを得ない(p.145)」。ともかく「12世紀後期から13世紀前期頃に近畿の一部でこうした発想が生まれ、14世紀には大和を拠点として各地に広まっていった(p.146)」のである。

「霊場と石塔」では、高野山への納骨を中心に納骨信仰を述べる。

高野山への納骨行為は11世紀後半ごろから始まり、奥の院への納骨は12世紀末ごろから始まった。奥の院に納骨した最古の例は、治承3年(1179)の俊寛である。また身分の高いものは子院を建立してそこに納骨した。またそれ以前から尼法楽が埋納した経塚(天永3年(1113))に代表されるように埋経が行われていた。納骨の風習を広めたのは聖たちで、彼らは勧進活動の一環で各地で納骨を勧め、多くの人から少量の骨を預かって小型の容器に入れて納骨した。13世紀になると石塔内に納骨を行う事例が登場し、やがて膨大な石塔が建立された。そのピークは14世紀中頃から末ほどである。

14世紀中頃までの石造五輪塔には水輪部分に納骨孔があったが、室町時代以降の五輪塔には納骨孔を有するものが少なくなる。石塔の中へ納骨するという形式が急速に廃れ、代わりに素掘りの穴に少量の遺骨を埋納してその上または近くに石塔を建立するという形になっていったようだ。さらに一つの石から簡略に五輪塔を切り出す一石五輪塔が流行した。その傾向は次のようにまとめられる。(1)13世紀から14世紀前半には納骨孔がある少数の五輪塔が建立された。(2)14世紀前半から15世紀中頃まで、納骨孔がない五輪塔が大量に建立された。そのピークは14世紀末から15世紀初めである。(3)15世紀中頃から一石五輪塔が現れて非常に大量に建立され16世紀末には低減した。ピークは16世紀初頭である。(4)16世紀末からは近世の大型五輪塔が建立されるようになった。

なお最古の一石五輪塔は、大阪府貝塚市半田墓地にある応永6年(1399)のものだが、一石五輪塔は無銘のものが数多く、動されているものがほとんどのため、「実のところ本来の使用方法は具体的にはわかっていない(p.179)」。著者は逆修(生前に供養を済ますこと)が一定割合を示すことや、13世紀以降に埋納容器が小型化することを踏まえ、「石塔による納骨が始まるがそれは初期段階にとどまり、その後は拝殿への納骨が中心になった(p.181)」と考えている。つまり石塔と納骨は別々の場所でなされた、という考えである。

「中世都市・村落と石造物」では、都市と村落の墓地の在り方について考察している。

都市については、福井県敦賀市での石塔・石仏を分析し、15世紀にはかなりの石塔が作られるようになったこと、石塔がレリーフタイプになっていったことが述べられ、ケーススタディとして坂ノ下遺跡が取り上げられる。ここは12世紀後期から16世紀後期頃の中世墓である。一方、近隣の永建寺脇祠堂と鋳物師町会所横には、石造物が寄せ集められている。さらにこの両者の間に来迎時墓地があり、ここにも小規模ながら中世後期の石造物がある。これらから見える中世都市の墓地の様相は何か。これらは近世の寺壇制度の下の墓とは違う個人の墓だった可能性があり、都市域の外に立地した、しかも近世の墓標を含んでいないという特徴がある。つまり中世墓地は、近世の墓地の枠組みとはちょっと違い、近世に入って廃絶したと思われるのである。問題はその違いが具体的には何だったかであるが、著者ははっきりとは書いていない。

著者はさらに奈良市東部の中世墓塔がある場所を自転車で回って調査しており、その結果から抽出すると(1)石龕仏と舟形五輪塔が大半を占める、(2)近世のものを含む場所はない、(3)寺院や境内墓地とは無関係に存在している、(4)概ね町内に一カ所の単位で存在している、などがいえる。著者は「これらの石造物群は町内の祭祀に起因する資料であること、その祭祀は18世紀には終息もしくは下火になっている考えられる(p.203)」としている。そしてこれらは「中世後期から近世前期にかけての頃の葬送供養が、町内という単位の共同体の仕事であったことを意味している(p.206)」という。具体的には、死穢を避けるための無常堂があり、死期が近づくとそこへ運んで最期を看取り、死後は共同体の力で近在の墓所へ埋葬し供養の標識となる石造物だけは無常堂付近に安置する、という流れを著者は想定している。そしてそれらの石塔・石仏は寺院墓地に取り込まれることはなかった。

しかしながら、著者のこの想定には疑問が残る。それは、死穢を避けるための無常堂にわざわざ死にそうな人を運んでいるのに、共同体で葬送をしたらその参加者が死穢になってしまうということである。死穢を避けるならば葬送は家族親類で行わなくてはならないと思う。とすると、むしろ近世の町が成立した時に、中世からの墓地を整理して町内ごとにまとめたと考える方が筋が通る。いずれにせよ、中世までの墓地と近世以降の墓地には断絶があるということがこれらの事例から言える。

中世村落の墓地については、滋賀県多賀町の敏満寺石仏谷遺跡と京都府与謝野町の地蔵山遺跡について取り上げている。敏満寺石仏谷遺跡は12世紀後半ごろに成立した墓地遺跡で、当初は墳丘墓であったが、15世紀から五輪塔が建立され、16世紀には石仏・一石五輪塔が多くなっている。近隣の墓地を見ると、14世紀や15世紀に宝篋印塔・五輪塔の建立が見られ、16世紀にはやはり石仏・一石五輪塔となる。地蔵山遺跡は、13~14世紀ごろに塚墓の造営にっはじまり、15世紀には仏教的石造物が建立され、16世紀が主体となっている。面白いのは16世紀で造墓が断絶することである。これは造営主体だった国衆とその家臣団が没落したことを表しているのかもしれない。面白いのは、地蔵山遺跡には寺院の形跡がないことである。

「中世墓の終焉と石材の転用」では、石材の転用から墓と石塔の観念の変遷を推測している。

中世に成立した城には、石垣などに石造物が転用されていることがよくある。例えば奈良県大和郡山市郡山城跡、兵庫県神戸市兵庫城跡などである。京都府福知山市の福知山城跡では、石造物の最新の年号は天正3年、石垣の構築は天正7年であり、わずか4年の差しかない。これは何を意味するのか。著者は「石塔が供養の対象となっている時間(中略)が数年程度の短いものだったのではないか(p.238)」というが、石造である以上ある程度の期間存続を期待したことは間違いなく首肯しがたい。また、著者は墓地の強制接収(敗者の一族の墓の破壊など)ではなく、機能が停止した墓地の石材を運んできたと考えるが、その根拠も定かでない。

一方、神奈川県小田原市小田原城跡にある池の護岸には、五輪塔や宝篋印塔の部材が大量に使われている。その総数2000点のうちほぼ60%が未使用品であった。つまり石塔が大量生産されており、それが余っていたことが想像される。

しかし江戸時代以降には、城の石垣などに石造物が転用される事例は激減する。また、京都市大雲院跡の調査では、844基の石造物(墓塔)がまとめて整然と埋められていたことがわかった。これは火災の後に行われた墓地整理に伴うものと考えられる。中世では石垣などに転用されていたのに、整然と処分したのは「16世紀末から18世紀初期頃の100年強の間に、人々の墓石に対する認識が変化した(p.250)」ためと著者は考え、「役目が終了していても墓石は丁寧に扱わねばならないという認識(同)」になったとする。

著者はその他、墓石を転用しなければならないような状況がなかったといった社会経済的要因も指摘しているが、そちらの方が説得力を感じた。例えば鹿児島では昭和40~60年代に集落墓地が納骨堂に整理されるという趨勢があったが、その際、墓石は階段や石垣に転用されている。著者がいうような「墓石は丁寧に扱うべき」とする感覚は鹿児島にはなかったようだ。とすると、近世に墓石転用が激減したのは、わざわざ墓石を転用しなくても石垣を造れる社会経済的な実力があったからだと考えた方がよいような気がする。

「近世への胎動、墓塔から墓碑へ」では、近世の墓から現代までの墓石の変化が概括される。

近世の墓石は、中世と違って石塔ではなく墓標となった。著者は研究史を簡単にまとめ、墓標になっていた次第を奈良県大和郡山市美濃庄町念仏寺の墓地にあった舟形の墓石を紹介して概説している。その変化は、仏塔という形態が完全に失われて文字主体となり、種子(梵字)が失われ、戒名の記載が優先されるようになる、とまとめられる。そして「江戸時代の中頃くらいを境として墓石は故人を象徴するものとなり、そこに故人の霊が宿っていると解釈するように発展したのではないか(p.261)」という。

本書は全体として、最新の研究成果を援用しつつ、象徴的な事例を丁寧に紐解くことによって石塔を語っており、平易かつ簡明である。石塔の本には文字資料(金石文)が大きく取り上げられてその造立の背景が推測されるものが多いが、本書はそういう個別事例の片言隻句にとらわれず、建立そのものを重視して考察を加えている。

ところで、本書を読む前から思っていたことであるが、中世の石塔文化の発祥で気になることがある。それは最古の例が京都周辺ではないことが多いということだ。笠塔婆、五輪塔、板碑の古い事例を振り返ると、

  • 笠塔婆:熊本市円台寺の建久4年(1192)、石川県珠洲市野々江本江寺遺跡の出土品
  • 五輪塔:兵庫県姫路市の天養元年(1144)の瓦製五輪塔、岩手県平泉町の中尊寺釈尊院墓地の仁安4年(1164)の五輪塔
  • 板碑:埼玉県熊谷市の嘉禄3年(1227)、石川県珠洲市野々江本江寺遺跡の木製板碑、鳥取県米子市吉谷亀尾前遺跡出土品

となり、かなり広い範囲に広がっている。宝篋印塔、宝塔、無縫塔は京都周辺で生まれたと考えられるが、では笠塔婆、五輪塔、板碑は京都で生まれたかどうか。本書の記載からは何ともいえないが、少なくとも石塔を建立するという文化がかなりのスピードで日本全国に広まったことはいえる。これは、京都で生まれた文化が徐々に広まったとするにはあまりに早いように思う。私としては、武士には公家とは違った死生観があり、武士が中心となって石塔文化を作ったと考えたい

では公家は武士の石塔文化をどう見ていたか。例えば摂関家は墓地に石塔を建立したかどうか。摂関家の墓地は宇治の木幡にあり、浄妙寺が建立された。浄妙寺跡は発掘調査がされており、室町期まで存在したことが明らかになっている。にもかかわらず浄妙寺跡からは石塔は発掘されていない。これを踏まえると、公家は石塔を建てる文化に否定的だったのではないかと思われるのである。ではなぜ公家は石塔に否定的だったのか。また武士と公家の死生観の違いとは何なのか。これについては改めて考えてみたい。

中世石塔の最新の研究を平易に学べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『墓石が語る江戸時代—大名・庶民の墓事情』関根 達人 著
https://www.shokeishuyu.com/2019/12/blog-post_31.html
墓石によって江戸時代の社会を考察する本。墓石を通じて社会を見る視点が独特な本。著者の関根達人氏は近世墓塔研究で著名。

『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること』水藤 真 著
https://www.shokeishuyu.com/2019/10/blog-post_4.html
中世の葬式がどうであったか検証する本。葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。

『石造物が語る中世職能集団』山川 均 著
https://www.shokeishuyu.com/2019/12/blog-post_27.html
宝篋印塔の起源を考察する本。宝篋印塔の成立事情を伊派・大蔵派の動向によって推測した意欲作。ただしその起源説は本書のいう阿育王塔を祖型とするものとは異なる。

『石塔の民俗』石井 卓治 著
https://www.shokeishuyu.com/2020/10/blog-post.html
墓石の成立と石塔を関連づけて語る本。新鮮な角度から墓石の形式の成立を論じた良書。

『中世の板碑文化』播磨 定男 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post_24.html
板碑の世界を概観する本。板碑の世界を手軽に俯瞰できる良書。

2026年6月6日土曜日

『[増補版]日本の戦死塚――首塚・胴塚・千人塚』室井 康成 著

日本の戦死塚について民俗学的に語る本。

日本の各地に、首塚・胴塚・千人塚などと呼ばれる塚が残されている。これらを著者は「戦死塚」と呼ぶ。それらには、
(1)その場所で行われた戦闘での犠牲者の遺体が埋葬された(と伝わる)場合、
(2)戦闘の有無にかかわらず処刑・自害等により死亡した人の遺体が埋葬された(と伝わる)場合、
の2つがあり、(1)は戦死だが(2)はそうではないのには注意を要する。この区別は本書ではあまり重要ではないが、概念的にはそういうことになる。なお著者の定義では戦死塚とは「合戦や戦時の謀略の渦中で戦死・自決・処刑された死者を埋葬したとする謂れのある古跡(p.7)」である。

私が興味があったのは(1)の方で、特に戦国時代の首塚・千人塚について歴史的な事実が知りたくて本書を手に取ったのだが、本書は民俗学的な観点から戦死塚を語っており、また戦国時代についてはほぼ取り上げていないため、私自身の関心とはずれがあった。民俗学的な観点とは、「その塚に本当に戦死者が埋葬されているかどうか、本当に誰それの供養塔なのか、といった史実の確認は脇に置き、人々がそこを戦死塚として伝承し、そう扱ってきた意味を問う」ということである。著者ははっきりと「歴史的真贋は関心の埒外である(p.8)」と書いている。

確かに蘇我入鹿の首塚など、民俗学的観点から見ないと切って捨てることになる。大化の改新で殺された蘇我入鹿は、斬首されてその首が飛び回ったという伝説があり、その首塚が各所に残っている。そのうち三重県松坂市の山中にあるのは、巨大な五輪塔である。もちろんこの巨大な五輪塔は蘇我入鹿の首塚・供養塔ではありえない。そもそも飛鳥時代には五輪塔そのものがない。では、なぜこの五輪塔は蘇我入鹿の首塚とされたのか。

巨大な五輪塔が山中にあれば、「これは一体誰の供養塔なんだろう」と思うのが人情だ。というのは、中世前期の五輪塔には通常文字が刻まれておらず誰の五輪塔なのかわからないのである。そこで江戸時代あたりに、知識人が周辺の歴史的事実を掘り起こし、「もしかしてこれは〇〇の供養塔ではないか」という仮説を提示したのだろう。そして、それを聞いた民衆が話に尾ひれを付けて誰それの首塚だという伝承ができあがってくるのだと考えられる。本書で取り上げられる戦死塚は、そのようにして出来上がったと考えられるものが非常に多い。戦死塚はある意味で近世の産物だ

しかし壬申の乱の敗者大友皇子の首塚とされる場所(岐阜県関ケ原町)は、五輪塔などはなく「自害峰」と呼ばれるただの森である(特徴的な三本の杉の木がある)。かつて地元住民は岐阜県等にここを陵墓として公認するように誓願を行っていたから、地元としては確実な伝承だと見なしていた。しかしここが首塚とされるに至った経緯は全くの不明だ。日本各地に、不気味な森(それは死体を棄てる場所だったと考えられるところが多い)が残されているから、ここも不気味さの謂れとして大友皇子が担ぎ出されたのかもしれない。

首塚といえば有名なのが東京大手町にある平将門の首塚である。ただし大手町の首塚は「そこが首塚であったことを示す石碑と、その保存区域のこと(p.65)」である。関東大震災後に大蔵省が首塚を壊して仮庁舎を建設したところ不幸が相次いで将門の祟りとの風聞がたち、これに応じて大蔵省が仮庁舎を撤去して将門の慰霊を行ったものだ。将門は、「討ち取られた武将の首が、衆人環視のもとに晒されたことがわかる初の事例(p.67)」であり、首を晒すということの衝撃が怨霊譚の成立に影響しているのかもしれない。

そもそも、首級を晒すというのは考えてみれば異常な刑罰だ。ギロチンで首が落とされたマリー・アントワネットとルイ16世も首が民衆に掲げられたと言われているが、一定期間晒されたとは聞かない。首を切り離すだけでもかなりの嗜虐性があるのに、さらにそれを晒すというのはどういう心情なのだろう。ともかく、首を晒すという行為と、その後「首塚」とされる場所が生まれてきたことを考えると、日本人は「首」に対して特別な意味を付与していたように思われる。

ちなみに将門の首は藤原秀郷により京へ運ばれたとされ(『将門記』)、洛中で晒された(『平治物語』)。伝説では、将門の首は晒されても3月も生き続け、「わが頸を続(つ)いで今一軍(ひといくさ)せん」と夜な夜な嘯いていた(『太平記』)。一方、大手町の首塚は、早くも鎌倉時代には将門の塚であると認識されていた可能性がある。こうした基盤の上、なぜ将門の塚が京から遠く離れた場所にあるのかを説明するために「首が飛んでいった」という伝説が江戸時代初期に生まれたと著者は考える。

ところで、蘇我入鹿の場合も首は飛んでいたが、首は飛ぶのに死体が飛ぶという伝説がないのは気になる。切り離された首というのは、すでに人ならざる者(幽鬼)と捉えられていた可能性が高い

ちなみに関東には将門の首塚とされるところが何カ所もあり、またそれらの首塚は霊験あらたかなところとされる。怨霊のエネルギーが霊験と受け取られるのは菅原道真の場合と同じで、権威に抵抗したことが民衆からありがたいものとして表象されたという側面もある。ちなみに関東には将門の胴体を埋葬したとされる「胴塚」も多い。そしてそれぞれの場所について、一応もっともらしい伝承が付随している。それは、地域のアイデンティティが首塚に仮託されているということなのかもしれない。歴史という形のないものを可視化する一つの装置が首塚だともいえる。

これに続いて、著者は源平の合戦(の特に平氏側)や楠木正成・新田義貞の首塚について語っている。将門の首もそうだが、誰それの首塚とされるものはたくさんある。もちろんそれらには誤伝も多い。例えば楠木正成の首塚とされる歓心院(大阪府河内長野市)の「御首塚」は、1359年に同寺で死去した新待賢門院の墓だったのではという。しかしながら、簡単には誤伝ともいえない場所も多く、それなりに筋が通った伝承が各地に残されている。歴史的に正成とは縁が浅い北関東にも正成の首塚とされる場所があるが、これすらも正成の縁者との関係があった形跡がある。著者が「正史から追いやられた、あるいは忘却された事実の一端を語っているような気がしてならない(p.152)」と述べるように、たくさんの首塚はそれぞれが正史に異を唱えている

しかしながら、誰それの首塚とされるものが近隣に何カ所もあるような状況は珍しくなく、「これらの全てが正しいことはありえない」と近世の人でも感じたことだろう。例えば新田義貞の首塚とされる古跡は京都から上野国新田郡(群馬県)までの道筋に4カ所ある。街道を通る人が矛盾を感じなかったとは思えない。このうち群馬県には桐生市と太田市に義貞の首塚があり、これは近接していると言っていい。これをどう解釈したらいいのだろうか。近世以前の人は、著者と同じように史実の真贋は関心の埒外だったのだろうか。異伝同士が矛盾しているから、異伝の説得力が低下しているような気がする。

ただし、数多くの異伝が生まれやすい事情はある。史書では首の処理についてことさら記載されていないことが多いのだ。多くの首塚には、故人と親しかった誰それが密かに首を持ち去って埋葬したという伝説が伴う。これも真実であるかどうか疑わしいが、このような伝説が成立する前提条件があったことは間違いない。つまり晒された首・胴体の処遇を人々は気にしていた。そして首を晒す方に任せていたら満足に弔われない可能性があったということだ。例えば、関ケ原の合戦で西軍毛利家の軍師的な存在であった安国寺恵瓊の胴体は、西笑承兌が引き取りを申し出たが奥平信昌により拒否された(p.213)。重罪人は弔わせないという意思があったのだろう。さらには、晒し首にあった人の墓はちゃんと造営されていなかった可能性が高い。首・胴体が合わさって親族が正規の墓所を作っていたら異伝が生じる余地はない

ここで、著者は指摘していないが戦死塚の呼称について述べたい。近世以前の戦死塚は、ほとんどが「〇〇塚」という呼称を持ち、「〇〇墓」と呼ばれるのは極めて稀である。なぜ「墓」でなく「塚」なのか。勝田至によれば、中世前期までは墓所は「塚原」と呼ばれており、個々の墓も塚状であることが普通だったという。つまり「塚」の方が古い言葉である。そして中世後期以降に、塚状ではない、我々がイメージする石塔を伴う「墓」へと変化したとされる。先ほど述べたように、戦死塚は多分に近世の産物という側面があるが、石塔中心の「墓」の観念が広まっていた近世に、なぜ墓の古称である「塚」という言葉が使われたのか。

それは、近世の人々にとって戦死塚は「墓」の概念に当てはまらず、むしろ「塚」と呼ぶ方がしっくりくるものだったからではないだろうか。もちろん、戦死塚には実際に塚状になっていた場所もある。特に古墳が誰それの首塚とされているような場合はそうである。ところが五輪塔など石塔が伴っている首塚の方がむしろ多い。これは何を意味するのか。「塚」と「墓」の違いは、形態だけでなく追善の在り方にもある。墓所が「塚」と呼ばれていた頃(中世前期)には、墓所には継続的な追善の祭祀(〇回忌など)が希薄であったが、「墓」と呼ばれるようになると追善法要が普通となった。この違いが「塚」の呼称に反映されているのかもしれない。戦死塚とされる場所は、少なくとも親族により継続的な祭祀が行われていない場所なのである。そもそも、親族により継続的な祭祀が行われていたとすれば、異伝が生じることもない。蘇我入鹿の五輪塔で述べたように、誰のものだかわからない大きな五輪塔があるからこそ伝説が生まれるのである。

つまり、親族による祭祀が継続的に行われている場所は、戦死者が埋められていたとしても「塚」ではなく、それは誰それの「墓」なのではないだろうか。

もう一つ注意したいのは、定義上当然ではあるものの、戦死塚の全てについて、死骸(の一部)が埋葬されているという伝承があることである。実は、中世の石塔は必ずしも墓(遺体・遺骨の埋葬)を伴ってはいなかった。蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔のような、古い時代の石塔は追善のための「供養塔」である可能性が高い。「供養塔」は墓とは違っていくつあってもよく、実際に生前にいくつもの「供養塔」が建てられることもあった。なお生前に建立する供養塔を「逆修塔」ということもある。近世には「逆修塔」の慣習はほぼ途絶えたと思われるが、戦国時代末までにはよく見られる。この時代にはいつ死ぬかわからず、死んでちゃんと供養が受けられるか不安だったからに違いない。

ともかく、古い石塔の場合はそれが墓であるとは限らない。にもかかわらず、戦死塚はかならず墓であると伝承されている。これには3つの要因が考えられる。第1に、「塚」は必ず葬地を指す言葉で、供養塔には当てはまらない。この「塚」の原意が戦死塚に反映されていると思われる。第2に、石塔=墓という近世の常識が戦死塚の伝承の基盤となっている可能性が高い。そして第3に、遺骸が埋葬されているということに人々が霊的な価値を感じていた。「供養塔」ではそれがない。首が埋まっているからこそ、そこは霊験あらたかな場所ともなるのである。

そう考えると、戦死塚の伝承は、「祭祀が途絶えた墓」という不安定な存在を、人々の手によって祭祀を継続させるために生まれたものなのかもしれない。どこの誰かもわからない墓(石塔)に、人々は手を合わせることはできない。一方で誰もそれを管理しないのも気持ちが悪い。だが、「〇〇戦役の犠牲者の墓」ということなら、たとえそこに親族・先祖が含まれていなくても、不遇な最後を迎えた人々のために人々は手を合わせ、それなりに管理していく。あるいは、それが過去の偉人の首塚であるということになれば、地域の歴史を物語る存在として管理していく価値を感じる。これこそが、日本各地に膨大な戦死塚が生まれた理由なのではないだろうか。

念のためいうと、この理屈はすべての戦死塚に当てはまるわけではない。もちろん来歴が確実な本当の首塚もある(例えば藤堂仁右衛門が建立した大谷吉継の首塚(p.196))。それに石塔がない戦死塚がある。例えば関ケ原の戦いの戦死者が埋葬された「東首塚」には塚だけがあり石塔がない。この塚が本当に戦死者の埋葬地なのかははっきりしないが、著者はこの首塚が竹中重門が築いたものとの伝承を紹介し、「家康が竹中重門に命じて首塚を築いたとする逸話は、後世、家康の神格化と竹中家による首実験場の整備が進むなかで、竹中家の先祖と家康との直接的な結びつきを示すものとして生成したのではないか(p.180)」としている。戦死塚伝承の生成には、様々な理由がある。

なお、近世には晒し首されてもその扱いは「お構いなし(=公権力は関与しない)」ということが慣例となり、死体は親族が懇ろに弔うのが普通になったと思われる。そもそも近世は平和な時代なので戦争自体がない。こうなると首塚の伝承はあまり生まれないが、幕末になって世の中が混乱するとまた首塚が生まれるようになった。そして幕末以降の戦死塚は、さすがに来歴が明らかなものが多くなる。それでも西郷隆盛の首がどうなったか異説がいくつか並立しているように、やはり首の扱いには異説があった。人々は首の行方について関心を持っていたが、確定的な情報がないというのは戦国時代と似たり寄ったりだ。

ところで、「千人塚」または類似の呼称を持つ古跡は全国に158例あり、そのうち103例が戦国時代のものである。これまで、戦死塚は多分に伝承的なものという前提で述べてきたが、「千人塚」は真実の戦死者埋葬遺跡である場合が多そうだ。それは、第1にその多くが詳しい築造の経緯を伝承していないこと(伝承が先走っている気配がない)、第2に塚の被葬者がその土地と深い縁を持たないとされること(地域の歴史・アイデンティティとの関連が薄い)、第3に祟りをもたらす存在として地域住民に怖れられていること、からいえる。そして千人塚は、名のある武将の首塚などとは違い、「不特定多数の戦死者の亡骸が一緒くたに埋葬されたと伝えられている(p.285)」。こういう場合、人々は死者は祟りやすいと考えていたようだ。

逆にいうと、仮に戦没など不遇な死を迎えたとしても、しかるべき人からの霊的処遇を受けることができれば祟りの原因にはならないと人々は考えていた。だからこそ中世後期以降の戦争では、敵味方にかかわらず戦後に大規模な供養が行われたのである。その供養は敵味方区別しない博愛の精神ではなく、祟りを怖れる心から行われていたといってよい。しかし死体の処理は間に合わないことが多く、やむをえず地元住民の手によって不十分な供養のまま処理され、それが不気味な戦死塚として伝わったと解釈できる。ちなみに最初に書いたように、こちらの方が私の主要関心である。

ところが、戊辰戦争以降には様相がガラリと変わる。鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩兵の全戦死者は一人ひとり墓標が立てられて供養されているのに、旧幕府軍の亡骸はそのまま放置されたという。「旧幕府側の戦死者のゆくえは諸説紛々としており、正確なことはわからない(p.299)」。

「戦死塚からみた鳥羽伏見の戦いの特徴は、勝者と敗者の戦死者が、同一箇所・手法により埋葬されることが、けっしてなかった点である。換言すれば、勝者は味方の戦死者のみを厚遇し、敵はお構いなしという、それまでの日本の戦争ではほとんど聞かれなかった戦死者の霊的処遇のあり方が、この戦いを契機に出現した(p.301)」。そして新政府側の埋葬地の多くは後年「官修墓地」となった。一方、「賊軍」の側の亡骸は地域住民によって遠慮がちに埋葬された。西南戦争の官軍側の戦死者は靖国神社で「英霊」となっているが、西郷軍側の戦死者は靖国神社では祀られず地元の南洲墓地に眠っている(地元民としては靖国神社などに祀られてほしくないが)。こうした点について、著者は「怨親平等や、勝者が敗者に憐憫の情を注ぐといった中世以来の伝統的な思想や民俗的価値観(p.318)」が無化された結果と考えているが、私はその背景に死者の祟りを怖れなくなっていたことがあるように思う。

なぜ死者が祟らなくなったのか。それは死後の魂の在り方に対する考え方が変わったためと思われるが、これについては機会を改めて考えてみたい。

ちなみに本書の巻末には、大化の改新から西南戦争までの期間に築かれたと伝えられる全国(沖縄を除く46都道府県)の戦死塚の一覧=1686例が150ページ以上にわたって掲げられている。この表がたいへんな労作である。著者は古戦場や城跡めぐりを趣味としており、その過程で知った戦死塚の情報を、自らの専門である民俗学にひきつけてまとめたのが本書とのことだ。文献だけでなく、実際に現地に行っているのに大変価値がある。

戦死塚から敗者への処遇を考える、足で稼いだ労作。

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の墓と葬送』勝田 至 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2026/03/blog-post_30.html
日本中世の墓と葬送について書いた本。葬送の本質について史料と民俗で迫る労作。

★Amazonページ
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2026年5月31日日曜日

『仏教土着――その歴史と民俗』高取 正男 著

仏教と民俗宗教の関係を考察する本。

本書は、昭和45年のNHKラジオのFM文化講座「日本民俗学の課題」の一部をまとめたもので(それにしても昔のNHKFMは硬質なテーマを放送していた)、仏教が土着するとはどういうことかをいくつかの題材で考察している。

日本人の信仰はまことに雑駁としたもので、そこには仏教にない要素が多分に含まれていた。しかし多くの日本人は、正月や盆の行事、民俗芸能、日常生活の隅々にあった俗信をまさに仏教の一環であるとも認識してきたのである。西川如見は「町人嚢」のなかで「日本にての聖霊祭の躰も、一向に仏法のみを用いたるものにあらず、みそ萩、青萱の筵、土器(かわらけ)、麻(お)がらの箸など、唐天竺の様子にはあらず、神道の躰なりといへり(p.21)」と述べている。如見がこう述べているということは、一般的にはそれが仏法に基づくものと認識されていたことを示している。なお、そういう儀礼は神道のものだ、というが実際には神道でもなく、今でいう民俗信仰であった。

前近代の社会において、民俗信仰こそ民衆の生活を強力に規定していた。廃仏毀釈で仏教を全廃した旧苗木藩領(岐阜県加茂郡白川町)では、仏教を棄てて100年にもなっているというのに(※本書刊行当時)、その死後の世界についての考え方はほとんど周りの村と変わらない。これは、人々が仏教を棄てたつもりで捨てきれなかったというより、そもそも彼らの他界観が仏教の理論に基づくものでなかったからだと解釈できる。この強力な民俗信仰を無視しては仏教は土着できなかったはずだ、というのが著者の考えである。仏教は「民俗信仰と妥協し、さらにはそれと離れがたく結びついている(p.30)」。

しからば民俗信仰とは何か? これがなかなか難しい。民俗信仰には一貫した理論もそれを唱道した人物もおらず、とらえどころがない。例えば7歳までに死んだ子供の埋葬を大人とは違う墓地にしたり、家の床下に埋めるといった村があったが、これは何に基づくのか。明らかにその観念の基盤は仏教ではない。著者はこうした行動を「早く生まれ変わってほしい」とか逆に「遠くの仏の世界ではなく近くに留まっていてほしい」といった願望の現れとしているが、実のところその理由は不明というほかない。なお縄文時代の竪穴住居の入り口の床下に幼児の遺体が埋葬されていた例もあるそうだ。

民俗信仰と仏教の関係を考察するために著者がとりあげる題材が、鹿児島にあった「カヤカベ教」という民俗宗教である。薩摩藩では一向宗が禁じられていたため、一向宗を奉じる人々は隠れ念仏を行っていた(※著者は「かくし念仏」と書くが、ここではより一般的な「隠れ念仏」とする)。本願寺(本山)は秘密裏に信徒を組織していたが、弾圧が激しくなった時期に本山との連絡が途絶えた地域があり、そこでは独自の念仏信仰が発展した。そうしてできた信仰が霧島の牧園町・横川町にあった「カヤカベ教」の名で呼ばれるものである。

「カヤカベ教」は他称で、その教徒たちは「牧園横川聯盟霧島講」と呼ぶ。表向きは霧島講(霧島信仰、霧島修験)の形をとり、大正や昭和の初めでは霧島神宮側は彼らを「萱壁組合」とか「萱壁講」とか呼んでいた。このほか彼らは、カヤカベ教を「吉永どんの宗教」とも自称してきた。藩当局の弾圧がもっとも激しかった時期に教団を主宰したのが親幸という人物で、彼の俗名を吉永市蔵といい、その死後、教祖の地位をその直系の子孫で継承したことで「吉永どんの宗教」というようになったのだという。

カヤカベ教については、龍谷大学が昭和39年に調査団を組織して調査を行い、その結果は『カヤカベ かくれ念仏』(法蔵館)としてまとめられた。著者はこの調査団の一員であったため、本書ではカヤカベ教についてかなり詳しく紹介されている(一般向けの本では本書が一番詳しいかもしれない)。

カヤカベ教では、牧園が11、横川が6つの「郡(こい)」という組織に編成されていた。一般の平教徒は「御同行衆(ごずぎょうしゅう)」と呼ばれ、その中の信心堅固なものが「知識」に昇格し、さらに郡ごとに「郡親(こいおや)」というリーダーが選ばれた。法会や葬式はこの郡親が主宰する。数個の郡を統括するのが「中親」で、教団運営の相談役として「取次ぎ」がいる。調査の時点で、郡親20数名、中親8名、取次ぎ3名がいた。このほか調査以前には、霊媒的な役目と考えられる「杓取り」という女性がいた。これらの役職は一代限りで終身であった。親幸の妻靏亀(つるかめ)も霊媒的な体質で、彼女は後に親幸と別れてカヤカベ教の別派「権次法」をつくった。

カヤカベ教は基本的には浄土真宗の教義を踏襲しているが、「オツタエ」という口承で伝えられてきた説教(法話)が興味深い。これには「仏法のはじまりや天地の開闢、聖徳太子の治世、法然・親鸞の事蹟から石山合戦、さらにはこの教えが起こり、伝承する過程での宗教坊や親幸の事蹟など(p.85)」が含まれた全13種が伝えられている。また、独自の教義として鶏肉を絶対に食べないことがある(知らずに鶏肉を食べても浄土には行けない、という)。著者は、隠れ念仏を偽装するためにことさら戒律を強調した結果、このような教義が生まれたと考えている。このほか、「お書物」と呼ばれる文書が残されている(後述)。

カヤカベ教に入信するためには、郡の全員から承認を受け「ヒキイレ」という儀式を行う。その他生活全般にわたる様々な儀式が用意されているが、特に葬式は注目される。教徒が亡くなるとその衣類を郡親の元に持参し、その衣類を一種の御霊代としてお座がたつ。そして葬式を行い、夜に納棺する。さらに翌日、タユドン(太夫)などと呼ぶ神職を呼んで神式による葬式を行う。神葬祭は、明治以降に加わった偽装のための葬式と思われる。このように二重の葬式をするのは、浄土真宗が解禁された明治以降にも彼らが隠れ念仏をしていたからである。

「お書物」には、親幸が教徒たちに回覧させた文書が含まれており、これは一種の冥界通信であった。親幸は亡くなった教徒がちゃんと浄土へ行ったか知らせていた。面白いことに信心堅固なものほど短い時間で浄土へ到達するとされていた。親幸は3日ほど寝続けることがあり、そういう時に親幸は「霧島の神に連れられて浄土へ行っていたという(p.103)」。しかし彼は阿弥陀如来に近侍したのではなく、薬師如来・伊勢・霧島六社権現・聖大明神が阿弥陀如来の言葉を次々に取り次いで親幸に伝えた、というような形で書かれた文書が多い。かと思うと、「かいの崎(健崎)」の庄兵衛の父親の次太郎(過去の往生者)は阿弥陀如来に近侍しているとされ、この次太郎を取次ぎとして阿弥陀如来に相談がなされてもいた。

ともかく、教団内で何か相談事があると、親幸に願い、親幸から霧島六社権現、権現から伊勢、伊勢から阿弥陀如来といった形で願いが累次に取り次がれ、阿弥陀如来からの回答はこの逆ルートで伝えられた。教団の組織運営に関することはこうした手続きが厳重を極め、文政11年の「御状」はその極致である。曰く「(杓取りに復帰させてくれという)春菊とお末の願いについて、御聖大明神と上積大明神の二神が86人の供衆といっしょに、二度と取違いはさせないと起請文を書いて、霧島六社権現に願い、それを受け取った霧島権現は、自分たち一存ではできないといって、日向の大当の権現以下の三神と相談し、2516人の供廻りと起請文を書いて伊勢に願い、伊勢の神は5032人の供廻りと起請文を書いて、阿弥陀如来の取次役に願い、取次役は供廻り2万65人と言葉をそろえ、起請文を書いて如来に差し出した(p.112)」。この要望を受けた阿弥陀如来は、二人を帳面に書き込むと帳面を汚すことになるといって、新しく名簿を作り直すことを命じ、玉突き的に人事の変更が行われた。

これに対し著者は「こういう託宣類似のことが、真実をこめて書上げられている点に、当時、カヤカベ教徒のおかれていた状況が、悲しいまでに反映している(p.113)」とするが、その「状況」とは何を意味するのか。また詳細は割愛するが、カヤカベ教の人事はなかなかうるさく、先ほどの「杓取り」復帰が重大な問題となったように、複雑な組織機構を備えていた。そしてこのような重要文書は、普通教祖か中親のもとで保管されていると思いがちだが、実見できた3か所は全て女性の有力平教徒のもとであった。このことはカヤカベ教の組織が単純なピラミッド構造ではなかったことを窺わせる。

普通の民俗宗教は、全体として一貫した理屈がなく、特定の唱道者がおらず、宗教のための上意下達的な組織がない(ただし講のようなものはある)。そういう意味では、カヤカベ教はむしろ仏教諸派のような唱導宗教に近い。親幸という教祖がおり、教祖が伝えとされる物語が信仰の中核となっていたのは、民俗宗教というより唱導宗教の特徴だ。

親幸は霊媒気質で、見てきたように異界を話す人物だったのだろう。今でも鹿児島にはそういう人がときどきいる。カヤカベ教はまさに「吉永どんの宗教」すなわち「親幸教」であったのだろうと私は思う。カヤカベ教が、元来は隠れ念仏であったというのは疑い得ない。ところがカヤカベ教は京都の本山を不審のまなざしで見ており、「本来の教えを伝えているのはこちらだ」という意識が強い。これは何を意味するか。カヤカベ教は確かに弾圧されていたが、それは藩当局からではなく、本山からだったと考えた方が理に適う。

おそらく、隠れ念仏に対する藩当局の弾圧が激しくなった時期に、この地域の隠れ念仏信徒と本山との連絡が途絶え、そこに現れたのが親幸であったのだろう。親幸は阿弥陀如来とつながり、本山以上の権威を作り上げた。そして親幸自身の仕事であるかどうかはともかく、信徒を本山とは全く違う形に組織した。その組織原理は、秘密保持というよりは権威の演出に大きな力が割かれているように見える。また故人が浄土へ往生できたかの決定権を親幸が持ち、往生にかかった時間によって教徒をランク付けした。こういう教団を、本山が異端として排撃しないわけがない。鹿児島の一向宗弾圧は、常に行われていたわけではなく、激しく弾圧された時期とそうでもない時期がある。そうでもない時期には本山は信徒とそれなりにつながっていた(でなければ隠れ念仏自体が不可能である)。であるから、カヤカベ教を本山が矯正しようとした可能性は大きい。

とすると、カヤカベ教の幹部としては本山に対抗する必要があっただろう。そのために作られたのが、天地開闢からの歴史を物語る「オツタエ」や、累次の神仏の取次ぎだったように思われる。一見荒唐無稽な神仏の取次ぎは、親幸・教祖の超越的な権威を強調するためのストーリーではなかったか。少なくともこれは秘密保持とは何ら関係ないのは明らかで、むしろどこか遊戯的な要素も感じさせる。ちなみに取次ぎに登場する「聖大明神」はこの地域にある地元の神社の神である。地元の神社の神から阿弥陀仏までがつながり、それを手中にしていたのが教団幹部だった。

そして本山がいう真宗の教義は多分に理念的・形而上学的であるが、カヤカベ教のそれは即物的・具体的だ。「どんな悪人でも一度でも南無阿弥陀仏と唱えれば往生できる」といわれるより、「私が浄土に行って確かめたところ、故人は浄土まで3刻かかったがようやく到達できた。日頃の信心のおかげだ」といわれる方が納得感がある。この納得感を武器に本山に対抗して出来上がったのがカヤカベ教であったような気がしてならない。このように考えると、カヤカベ教は、藩政府だけでなく本山からも隠れていた隠れ念仏なのではないか。

この仮説を裏付けるように、はじめ龍谷大学の調査団が村に入った時、教徒たちは「ある種の恐慌といってよい状態(p.99)」となった。彼らは本山が「むりやりに「折伏」しに来たと判断した(同)」のである。藩政府からの弾圧を気にする必要がなくなった信教自由以降も彼らが隠れ念仏を続けたのは、本山の存在が都合が悪かったからと考えるほかない。

本山という理論的支柱から決別した時、土俗的なコミュニティがどう宗教性を発展させるかという実例がカヤカベ教なのかもしれない。カヤカベ教では、「真宗教義の土俗化したものという言葉だけでは説き明かせない厳しい宗教性が、教徒たちの日常生活を貫いていた(p.99)」と著者はいう。迷信といえばそれまでだが、先述の「鶏を食べない」をはじめとして、カヤカベ教では各種の生活規定(戒律)があり、それを厳しく守っていた。他方よく言われるように、真宗は仏教諸派の中では最も迷信を拒否した宗派である。真宗では阿弥陀仏の絶対性が強調され、それ以外を些事として退けた。結果として、真宗では他の仏教諸派がうるさく言うような細かい儀礼や生活規定をほとんど否定し、信心のみを強調した。真宗の根本である念仏すらも、ああしろこうしろという規定はなく、一生に一度でも唱えれば阿弥陀仏は必ず往生へ連れて行ってくれるという。

そして真宗では「(他力に頼るほかない)悪人こそ阿弥陀仏は救ってくれる」という悪人正機説を強調した。ところが、こうした真宗教義は、真面目に生きている真宗門徒にとってそれほど魅力的でも信仰しがいのあるものでもなかったように私には思える。もちろんそうした教義は、悪を重ねなければ生きていけない人々、自力救済はできそうもない人々に真正面から向き合って形作られたものではあった(それに真宗では、すべての人は悪人だと喝破した)。しかし真面目に生きている(と自認する)人からすれば、そうした教義は何か物足りない。日頃の生活で戒律を守り、信仰に身を捧げている人こそ救われる方がずっと信仰のしがいがある。つまり「信仰しがい」が自然に発展していったのがカヤカベ教だったのではないだろうか。少なくとも、南無阿弥陀仏と唱えるだけの抽象的な救済よりも、鶏を食べないなど具体的な戒律・生活規範を守れば救済されるという方が、内的な安心感(=これだけやっているのだから大丈夫という確証)を得やすかったと考えられる。

著者は「真宗教義の土俗化したものという言葉だけでは説き明かせない厳しい宗教性」がカヤカベ教にあるというが、むしろ土俗化しているからこそ厳しい宗教性が発展していったと考える方が自然である。

話が飛躍するようだが、日本の部活動ではおそろしく厳しい修養が行われることがある。厳格な上下関係、挨拶と礼儀、道具に対する手入れ、グラウンド・体育館の徹底的な清掃、まるで苦行のごとく自らを追い込むこと、先輩や親・指導者への感謝の強調、生活規律(服装・時間管理・身だしなみ)の遵守などは、ほとんど宗教のようである。そしてこれは、著者がいう「宗教の土俗化」を象徴的に表しているような気がする。スポーツ科学に基づいた指導を行う本当の一流校ではこういうことは少ない(と聞く)が、ちゃんとした指導者を得難い田舎の伝統校でこそこうした厳しい修養が行われることが多い。これは、合理的な指導・理論に基づいた訓練よりも、精神性や根性論が優先されがちな日本の「土俗性」を示しているのではないだろうか? かつて部活動生が丸刈りだったのも、得度に際し剃髪していた仏教の在り方と共通する心象があったように思う。このように、部活動には土俗性と宗教性が同居していたと私は考える。そしてカヤカベ教の変容は、部活動と通じるものがあるように思えるのである。

つまり、宗教の土俗化とは、高僧の高邁な理想が堕落してしまうことのように思えるが、実際には、民衆が自ら望んで宗教を「スパルタ式」にしていくことなのかもしれない。民衆は様々な生活規定・禁忌を生み出す。そして理論に通じた高僧がいないことで、そういう何の根拠もない「迷信」がいつまでも退けられず、徐々に規定が累積して生活ががんじがらめになってしまう。実際にカヤカベ教は、そういう状態に陥っていた節がある。彼らが龍谷大学の調査をしぶしぶながら受け入れたのは、「鶏精進をはじめ不可解な禁忌の数々を守り、深夜の儀式を維持する後継者の育成は、不可能になりつつある(p.100)」という現状があったからだった。「この宗教が早晩消滅せざるをえないことは、どのように信心堅固な老人でも、ひとしく認めるところ(同)」であったのである。「水は飲むべきだし、練習はやたらにすべきでなく適度な休息が必要」などといってくれる「権威」がない状態では、日本人の土俗性はどんどん迷信を生み出しそれが厳しく守られていく傾向にある、ということは部活動が示している。だからこそある種の部活動は特別な人にしか選ばれなくなるのである。カヤカベ教と同じように。

ところでカヤカベ教では、本山には親鸞の「カチビル」すなわちミイラが安置されており、心だけ浄土に行ったとしている。なぜ親鸞のミイラがあると考えたのか不明だが、著者は湯殿山の即身仏などと類比し、これは古い民俗に基づく観念(信仰上のアタヴィズム(atavism 先祖返り))ではなかったかと述べている。即身仏とは、自ら命を絶ってミイラ化することであるが、上述の部活動的土俗性と、自ら命を絶つという究極の献身が相性がいいことは首肯されることだろう。

ところで、カヤカベ教と部活動を類比することは大変失礼な見方であるかもしれないが、部活動で育まれた人間性は本物であるとも私は思う。ほとんど宗教的とさえいえる部活動での人格陶冶は、決して迷信でがんじがらめになった人間を生み出すのではない。むしろ合理的なスポーツ科学によるトレーニングによって人格が陶冶されるかどうかの方が怪しい。そちらの方がスポーツの技能は向上するかもしれないが、やはり挨拶・儀礼・感謝・報恩のような部活動的指導の方が、人格面では有効だと思う。同様に、理念的・形而上学的な本山よりも、カヤカベ教の方がもしかしたら宗教的にはすぐれた内実を備えていたかもしれないのである。それが迷信や禁忌だらけだというだけで。

これに関し、著者は呪術について一章を設けて考察しているが、そこで非常に重要な指摘がある。曰く「科学が事物に潜んでいる法則を運用するように、呪術は事物のなかにある呪力を利用して現実の目的を達成しようとするからで、呪力という超自然の存在を前提にしながら、それに対する礼拝や祈願を含まないのが呪術本来のありかたである(p.157)」。つまり呪術は元来精神的なものでなく、科学的な論理に基づいているというのである。

私は「水を飲むな」と言われた時代の人間だが、それは部活動生を苦しめるためでなく「水を飲むとかえって疲れる」というのが理由だと言われていた。「水を飲むな」という「迷信」は、「水を飲むと疲れやすい」という一応科学的な論理に支えられていたということになる。ところが、次第に「水を飲むな」は、「苦しさに耐えろ」という精神論にすり替わっていった節もある。このように、土俗性は科学を精神化してしまいがちだ。著者が「礼拝や祈願を含まないのが呪術本来のありかた」というように、実際には礼拝や祈願を含む呪術へと転化しがちだった。

これを土俗宗教と仏教の関係に応用して考えると、部活動に対する科学と、土俗宗教に対する仏教は同じ位置を占めていることになる。「水を飲むな」が近年否定されたのは、水を飲まないと熱中症になるという科学の力であった。同じようにカヤカベ教を否定しうる力を持っていたのは仏教すなわち本山なのである。だからこそカヤカベ教は本山から隠れた。広範囲に組織化され、他宗との論争で鍛えられた教理持ち、普遍的な力を持っている仏教諸派は宗教というよりは科学なのだ。西洋で近代の科学革命を担った人々の多くが神学の徒であったことも想起されよう。

そして、雑多な迷信に覆われてはいても、土俗宗教の方がより「宗教」的なのかもしれない。ではその「宗教」を支えていたものは何か。著者は「人間個々人の意志力は、えらばれた人以外はけっして強いとはいえない。にもかかわらず、あれほどの言語に絶する苦患を加えられながら、なおも不退転の信仰と結束力を保持しえたのは、そこに村の全生活がかかっていたからという以外にない(p.79)」という。彼らの「宗教」は、確かに村というコミュニティに支えられていた。つらい部活動に耐えられるのも、仲間と運命共同体になっているからだ。つまり彼らの「宗教」を支えていたのは教義ではなく、仲間・コミュニティの存在であったと考えられる。教義に基づいた部派宗教は今でもそれなりに存続しているものの、民俗宗教が事実上壊滅してしまったのは、それが依拠していたコミュニティの崩壊に基づくのだろう。仲間内でしか通用しない理屈で作られた民俗宗教は、人々の行動範囲が広くなるだけで存在が危うくなる。

かつての精神的な「部活動」も、健全でスポーツ科学に基づいた「地域スポーツクラブ」へと変わりつつある。それが宗教からの土俗性の払拭と軌を一にしているといったら大げさだろうか。

カヤカベ教から宗教の土俗性を考える啓発的な本。

※今回の読書メモでは仏教の土俗性についての考察を中心にしたため、「呪術と宗教」「楽園恢復の願い」の章についてのメモは割愛した。

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2026年5月15日金曜日

『死者の救済史―供養と憑依の宗教学』池上 良正 著

民衆宗教を死者への対応の視点から再考する本。

本書は、「救済史」を冠しているが歴史を述べるものではなく、著者の宗教についての考え方を述べるもので、前半は供養、後半は憑依について述べ、最後に供養と憑依が共通の土台に基づくものであるとしてまとめている。

著者の日本の民衆宗教についての基本的考えは、「苦しむ死者」「浮かばれない死者」の魂をどうにかして「安らかな死者」へと救済することが期待されていた、とするものだ。

しかし著者自身も控えめに述べているが、古代の日本人が死者を「救済を必要とする存在」として認識していたかどうかは定かでなく、この前提が成立していたのかどうか疑わしい。

次に、「苦しむ死者」「浮かばれない死者」への対応として2つのシステムがあったと著者は考える。第1に〈祟りー祀り/穢れ―祓い〉システム、第2に〈供養/調伏〉システムである。第1のシステムは、祟る死者を祀ることによって慰霊するか、もしくはその死者が穢れているとして祓うという考えを表しており、著者はこれは仏教以前からある在来のものであると見なしている。第2のシステムは仏教による対応である。そしてこの2つのシステムは排他的なものではなく、在来の第1システムの上に第2システムが付け加わって、多彩な死者との向き合い方が生まれたと著者は考える。

ここでも著者は、第1のシステムについて仏教以前に死者が祟ると考えられていた証拠はないと一応は述べるが(p.41)、それでもこうした考えが在来のものであったとして話を進めている。しかしながら、証拠がないものを前提にするのは腑に落ちず、「苦しむ・浮かばれない死者を救済する」という前提も含め、著者の考えは図式が先行しており、史実への立脚が薄弱であるように感じた。管見の限りでは、〈祟りー祀り〉が現実化するのは平安時代以降で(古代において祟るのは死者ではなく神である)、また〈穢れー祓い〉は古代には死者に対して適用される観念ではない(死・死体は「穢」の一つであったが、それを「祓う」という対処法がない)。このように、著者の措定する図式は堅牢なものとはいいがたい。

それはともかく、こうした考えの下に『日本霊異記』で「苦しむ死者」がどう考えられていたかを分析し、続いて『法華験記』『沙石集』などから、その対処法がどう変わってきたかが述べられている。その要諦は、読経・念仏・造像・写経のような追善行為によって、自業自得・因果応報という自己責任で個人の行いによって完結していた死後の在り方が、他者からの働きかけでどうにかできるものに変換したのだ、ということである。読経・念仏・造像・写経といった行為は、本来は仏や僧侶への供養(布施)なのであるが、これが「死者への供養」と変換されていることも注目される。なお、このことを著者は「死者との個別取引」と呼んでいる。

このような変換によって、死者は「仏法による済度を願う弱者の地位(p.79)」になったという。一方で、生きている側にとってみれば、苦しむ死者などにおびえる必要がなくなったということになる。悪霊が現れたとしても、仏法によって調伏=救済できるのであれば怖れるに足りない。実際、「信長、秀吉、家康などの武将は、多くの敵味方の将兵の屍のうえに政権奪取をなしとげたにもかかわらず、日ごと夜ごとに怨霊に悩まされるということは、もはやなかった(p.92)」。『太平記』などの軍記物には、怨霊などにおびえず「俺の施しによって成仏させてやる(p.101)」といった「平安時代の貴族たちとは、根本的に異なる精神性(p.99)」が描かれている。そして亡霊の方も「むしろ大般若経の読誦を受けたことに感謝して、成仏してしまう(p.108)」。

だからこそ幽霊・亡霊などを手軽に扱えるようになったという側面があり、近世には怪談・怪異文学が全盛期を迎えることになった。ただしそこに描かれる幽霊は、成仏だけを願う存在ではなく、自由奔放にふるまっている。能のようなある程度類型化した世界と民衆が考えていた幽霊の世界はちょっと違うようだ。

さらに、著者は目を世界の民俗宗教に転じ、「世界宗教の土着化」の問題を探るテーマとして死者の供養を考察している。イスラーム圏、ロシア、ラテン・アメリカが取り上げられ、これらの地域では世界宗教を受け入れつつも土着の考えと融合したあり方で死者を扱っていることが指摘される。いわゆる世界宗教では、個別の死者を弔うことに大きな意味を付与していないが、結局、人間というものは死者に対して何らかの慰霊を行いたくなるものである。

なお、キリスト教では死者の魂の行方は元来「最終審判における天国と地獄」とイメージされていたが、これでは遺族による慰霊・供養の余地はない。そこで中世では、「とりなしの祈り(代禱)」とよばれる生者の力添えによって、人が受ける苦しみが軽減されるような中間的来世である「煉獄」が考えられるようになった。仏教の地獄も時限的であって生者の働きかけで苦痛が軽減されるという意味では同じであるから、地獄と煉獄は共通の性格が認められる。そして煉獄の存在によって、キリスト教圏でも日本の民俗・民衆宗教と似たような「死者供養」が行われているから、「比較供養論」=「比較煉獄論」が可能になると著者はいう。

次に考察の対象になるのが「憑依」である。まず「憑依」という言葉が研究史においてどう使われてきたのかを述べ、キリスト教での神の啓示などが事例に挙げられてその問題が提起される。それを簡単に述べると、「憑依」というと悪霊や苦しむ死者が「憑く」もので、神や仏の示現を宗教者が受け取る場合は「憑依」とは表現されないが、その両者に実質的な違いはどれほどあるのだろうか? ということである。これは現代の研究者の持つバイアスであると同時に、史料にも見出せる固定観念である。怨霊やもののけ相手だと「つく」「くるふ」「霊病」「物ぐるひ」などと表現され、神の場合は「つく」「託す」「のる」「かかる」「おりる」などと表現されているからだ。もちろん、憑依と神託では若干違う部分も見られるが、共通性の方が大きいと著者は考え、その境界は不明瞭だという。

そこで著者は「憑依」という語をより広い意味で定義することを提案し(その定義自体はここでは割愛する)、ケーススタディとして『比良山古人霊託』が取り上げられる。21歳の女性に憑りついた比良山の大天狗との問答記録である。ここで著者は「憑依」の文脈から離れ、問答自体の興味深い点をいくつか指摘している。問答者は天狗から要人や知り合いが死後に得脱・往生できたかどうかについて聞き出そうとしているが、天狗はある種の人々を「天狗道に堕ちた」と言っているのが面白い。鴨長明『発心集』にも天狗になった僧侶の事例が掲載されているが、日本人は僧侶が得脱に失敗して転生する場所として「天狗道」をイメージしてきたらしい。元来、転生先には天道・人間道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六道しかなかったのだが、阿修羅道のような存在として「天狗道」が付け加わったのである。

仏法に帰依しているならば人間道以上に転生することが期待されるものの、行いがあまりよろしくない僧侶についてはそうなっていてほしくない、という人々の期待が「天狗道」を生んだのではないかと思わされる。そして天狗道は、僧侶であるにもかかわらず、現世に激しい執着と怨念を抱いて死んだものの行先でもあった。つまりキリスト教圏の人々が「煉獄」を必要としたように、日本人は天狗道を必要としたのかもしれない。天狗は、仏法に詳しく、験力があり、死後の運命や他界の様子について知っており、そして人に憑依する。このある意味なんでもありの「境界的性格(p.186)」が天狗道を特徴づけている。

そしてここで重要なことは、天狗道という仏教の経典には現れない存在が憑依によって一般人の口から語られ、それが職業的宗教者の言よりも重んじられていた、という事実である。これは他の文化圏でも当てはまる。人々は教理よりも憑依を通じて霊的世界を知れると考えていた。そして「仏教的世界」と「巫者的世界」は別に存在していたのではなく融合していた。

ここで著者は無住の『沙石集』『雑談集』を分析の対象とする。僧侶が「夢」で「示現」を受けるエピソードを示し、それが実体として憑依の一種とみられるにもかかわらず、その正統性をアピールするために「夢」や「示現」といった用語が使われているらしいことを指摘する。そして高僧に死人の霊が取り憑いた事例を示す。つまり憑依は巫女のような下級宗教者とか平信徒だけでなく高僧にも起こりうる現象で、やはりそれは霊的世界へのチャネルとして扱われていた。だからこそ職業的巫者である巫女が、仏僧に拮抗しうる力があるとして認められていたのでもあった。そうした女性は「一方では「霊病」などといわれながらも、一定の仏教的教義を武器に、絶大な評判を得ていたことが推察される(p.222)」。

「憑依」が霊的世界へのチャネルであるとするならば、「供養」もそうだというのが著者の考えである。そして憑依で重要なことは、物狂いの状態になった時に、「憑依した霊的存在に名前をつけ、体験それ自体の存在価値を言語化する行為(p.229)」を行えるか否か、ということである。つまり単なる物狂いになっただけでは錯乱と変わりない。それが誰それの霊であるということが合理的に解釈できるかどうかが大事なのである。

「苦しむ死者」を自らに憑依させて要求を聞き出し、それに応じて供養を行うということは、霊的世界と現実世界を合理的に繋いでいることになる。そこに、教理的な宗教が担えない部分が存在している。近代では、憑依は主流派の宗教からは排除され、いかがわしい存在と扱われがちであるが、かつては憑依を介して死者の世界と現世とを繋いだ行者的な人々が大きな役割を果たしていた。現代でもそういう霊能者は存在しており、本書では密教系の女性僧侶の活動が例として取り上げられている。彼女は、霊が今どうなっているかを代弁し、残された人にどうして欲しいかを伝える。それは、苦しむ霊を救済するというよりも、残された人(ここでの例は子どもを失った女性)を救済する行為なのである(著者は指摘していないが)。

それは、憑依や供養がどう発展してきたのかを示唆している。それは「苦しむ死者」を「安らかな死者」に変えるというより、生と死の世界を統合した解釈を提供し、死者に執着して苦しむ生者をこそ救済するためにあったのではないかということだ。憑依や供養といった「死者との個別取引」の回路は、本来はどうにもならない「死」という現実を、事後的に働きかけることによって救済することを可能とし、そしてそのことによって生者にこそ救済を与えたのである。

供養と憑依をキーにして死者と生者との関係性を再考する変わった視点の本。

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2026年5月7日木曜日

『悟りと葬式――弔いはなぜ仏教になったか』大竹 晋 著

仏教による葬式や追善がいかにして始まったか述べる本。

仏教は、本来は個人の悟りを求めるものであったが、徐々に葬祭や追善を担うようになった。つまり死者のためのものになっていった。これは日本だけでなく東アジアに広く見られる。

ではそれはどのようにして、なぜ始まったのか。本書は極めて広い視野で経典を渉猟し、その次第を明らかにしている。具体的には、スリランカや東南アジアに現存している上座部のパーリ語三蔵、インド本土に展開していた説一切有部の漢訳・蔵訳の三蔵、そして大乗仏教の諸文献を動員し、布施・葬式・戒名・慰霊・追善・起塔についてその始まりを述べる。

なお、本書では出家者と在家者を明確に区別して扱っている。日本の場合は在俗出家があったためこの区別はあまり意味がなくなったが、元来の仏教ではこの区別は重要だ。

「第1章 布施の始まり」では、布施を成り立たせている論理が述べられる。

仏教の元来の目標は、煩悩を断ち切って輪廻から脱することにある。では在家者が出家者に布施という贈与を行うのは、この目標にどのように位置づけられるのか。

出家者が出家するのは、煩悩を断ち切るためである。では在家者はどうか。在家者は、煩悩を断ち切ることはできないが、来世ではせめて善趣(天・人間)に生まれたいと願う。そこでインドでは出家者に布施をするという副徳を積むことによって善趣への転生が図られるようになった。この背景には聖者崇拝がある。なぜ聖者に布施を与えることが「大きな果/報酬(←本書に頻出する用語。ここでは善趣への転生を表す)」となるのか。その理由は経典には述べられていないが、聖者への帰依そのものが重要であったようだ。つまり布施は「決して、出家者が在家者に提供してくれるサービスに対する代価ではない(p.30)」。しかし後に、葬式、戒名、慰霊、追善、起塔を出家者が提供するようになり、布施がそれらに対する代価としての性格を持つようになった。

「第2章 葬式の始まり」では、仏教が葬式を担うようになった次第を4つのケースに分けて論じている。

4つとは、(1)出家者が出家者の葬式を行う、(2)在家者が出家者の葬式を行う、(3)出家者が在家者の葬式を行う、(4)在家者が出家者に布施を与えて引導させて在家者の葬式を行う、である。

(1)出家者が出家者の葬式を行う

インドでは元来、出家者の遺体は路傍に捨てられていたらしく、『摩訶僧祇律』には「捨て去るべき」と規定されてさえいる。だが在家者の遺体は捨てられておらず、出家者の遺体遺棄は在家者から白い目で見られていたと考えられる。そこで在家者との軋轢を避けるため、出家者は仲間の遺体を葬るようになった。

中国では出家者の遺体は遺棄されていなかったと考えられ、唐代の道宣は「法王(ブッダ)と転輪聖王(帝王)とはともに火葬による(p.40)」と指示している(『続高僧伝』)。通常の出家者は林葬によったらしい。また北宋では禅宗が広まり、その教団運営規則「清規」で出家者の葬送法が規定された。

日本では平安時代以前は土葬が行われていたが、平安時代では穢の思想から死体遺棄が行われた。しかし出家者の遺体は火葬されるようになっていった。

(2)在家者が出家者の葬式を行う

インドでは、亡き出家者が阿羅漢である場合に在家者が出家者の葬式を行うようになった。『ディーガ・ニカーヤ』大般涅槃経では如来と転輪聖王を葬式することが述べられている。スリランカを訪れた法顕も阿羅漢の死者を在家者の国王が行ったことを報告している(『高僧法顕伝』)。またその際、四つ辻に塔を建てることも行われたらしく(『根本説一切有部毘奈耶雑事』)、遺体供養とは葬式と起塔とを含む概念であった。

南方(スリランカ)では、出家者は自らが聖者であると主張することが律によって禁じられていた。よって亡き出家者が聖者かどうかはわからなかったが、周囲の人によって聖者であると目される場合は葬式が行われるようになった。

中国でも同様であるが、これはインドや南方からの影響ではないらしい。中国では在家者と出家者がともに葬式を行ったと思われる。智顗の葬儀の場合は出家者と在家者が遺言に基づいて彼の遺体を龕に納めて墳墓に保存した。

日本では、在家者が出家者の葬式を行うことはほとんど考えられなかった。そもそも日本では聖者と目されるような出家者はあまり現れなかった。

(3)出家者が在家者の葬式を行う

インドでは、亡き在家者が阿羅漢である場合に出家者がその葬式を行うことが説一切有部において考え出された。しかし阿羅漢でない場合は葬式の対象とならなかった。8世紀には後期密教の『グヒヤサマージャ・タントラ』などに基づき、異生(=凡夫)の場合も出家者が葬式を行うようになった。

中国でも、インドからの影響ではなく、異生の葬式を出家者が行うことが考え出された。その最古の例は5世紀に曇遷が在家者の葬式を行ったものである。唐においては道宣が在家者が父母兄姉の場合に出家者がその葬式を行うことを認めている。

日本でも、中国からの影響ではなく、異生の葬式を出家者が行うことが古代に考え出された。

(4)在家者が出家者に布施を与えて引導させて在家者の葬式を行う

これはインドでは考え出されなかった。インドでは家庭行事において出家者に布施を与えて儀式を行ってもらうことはあったが、引導(亡者を導く)はしなかった。

南方でも同様である。僧侶が葬式に呼ばれても、それは引導のためではなく悪魔を追い払うためだった。

中国では北宋の初めころから在家者の葬式に出家者が訪れるようになったが、これは法語を与えて道理に気づかせることが目的であった。禅宗の出家者は悟り体験によって聖者の力を持っていると見なされており、その力が期待されていたが、これは引導そのものではなかった。

引導が考案されたのは日本においてである。その確実な最古の記録は9世紀の醍醐天皇の葬式である。さらにそれに先立って『都氏文集』には仁寿2年(852)に出家者に呪願させて在家者の葬式をしたと見なせる記録がある。引導は、元来は阿弥陀仏や勢至・観音に亡者を導くことをお願いするものだったが、鎌倉時代に禅宗が伝来すると、掩土や下火にあたって亡者に法語を与えることがそのまま引導であると考えられるようになり、そうした儀式は多宗派も模倣した。

「第3章 戒名の始まり」では、戒名が与えられるようになった次第を2つのケースに分けて論じている。

2つとは、(1)出家者が戒を授ける時、(2)出家者が亡者に戒を授ける時である。

(1)出家者が戒を授ける時

インドでは、戒名は考え出されなかった。仏典では十代弟子は氏族名や本名で呼ばれており、あだ名でよばれていた出家者も記録されている。所属部不明の『増一阿含経』ではブッダが比丘たちに本名で呼ぶことを禁止しており、後になって出家者が改名することも見られたが、授戒の際に名前が付けられたのではない。

授戒の際に名前を与えることが考案されたのは中国である。中国では北朝において出現した『梵網経』(5世紀)に基づいて、南朝で菩薩戒を授ける時に菩薩名を与えることが考えられるようになり、これが隋へと受け継がれた。これは、成人の時に字(通称)を与える習俗が応用されたとみられる。しかし唐以降は、菩薩名は廃れていった。

日本では、中国の習慣を引き継いで『梵網経』による在家者の授戒に菩薩名を付けることが行われたが、平安時代以降はほとんど行われなくなった。そして、室町時代に瑩山紹瑾の門流が『菩薩戒』の菩薩戒と菩薩名を与えてそれが広まり、遅くとも15世紀には在家者向けの授戒会が開かれて名を与えられたことが確認できる。

※在家者への菩薩戒の授戒のみの話で、出家者の場合は別に考慮が必要。

(2)出家者が亡者に戒を授ける時

出家者が亡者に戒を授けることはインドではなかった。亡者へ戒を授けることはタイ、チベット、日本に特有である。南方では死者の魂が付近に留まっていると思われていたため、出家者は在家者の要望に応えていたようだ。

亡者に戒名を授けることは日本で考え出された。臨終出家の最古の例は淳和天皇ないし仁名天皇で、臨終出家でも戒名は与えられた。死後出家の最古の例は九条兼実の息子、良通であ(1188)、死後出家でも戒名は与えられた。臨終出家や死後出家は出家としては多分に形式的であるが、出家者は速やかに涅槃にいけるという聖者崇拝がその背景にあった。浄土真宗や日蓮宗では、出家しなくてもすぐさま浄土へ転生して仏になるとされていたものの、やはり亡者に戒名を与えていた。

「戒名」は日本において生まれた言葉で、元来は法諱・法名・法号と呼ばれていたが、江戸時代に使われるようになった。戒を授けることと同時に与えられるためにこのような名称になったと思われる。そして、死後出家の際に与えられる名として戒名という言葉が生まれた(つまり戒名は「死後戒名」であった)と考えられるが、生前に与えられる法諱・法名・法号も江戸時代に戒名と呼ばれるようになっている。死後出家・死後戒名は江戸時代以前からあったが、これが一般化したのは『宗門檀那請合之掟』の影響であるとしている。

さらに日本では、鎌倉時代に位牌が宋から伝えられると、位牌に院号・位号(居士など)・置字(霊位など)を使ってランク付けされることが行われた。なお中国では位牌は出家者のためのもので、在家者には「神主(しんしゅ)」が用いられたが、日本では出家者・在家者ともに用いられた。

なお位牌において戒名にランク付けが行われたことは真言宗の頼勢により『引導能印鈔』(1669)で批判されている。ちなみに「居士」が元来寺院のスポンサーを表す言葉であるように、位号などは生前の身分によって付けられた。しかし本来は出家すれば在家時の身分は無関係になる。よって死後戒名に院号や位号をつけることは、亡者を在家者のままに留めることとなるから「矛盾している(p.118)」と著者は批判している。

「第4章 慰霊の始まり」では、慰霊という概念を整理し、5つのケースに分けて論じている。

まず慰霊とは、「すでに悪趣へ転生している亡者に布施を供えること、あるいはさらに善趣へ転生させること(p.121)」と定義している。5つのケースとは、(1)在家者が亡者に布施を供える、(2)在家者が出家者に布施を与えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる、(3)在家者が出家者に布施を与えて亡者を悪趣から善趣へ転生させる、(4)出家者/在家者が布施に呪文を唱えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる、(5)出家者/在家者が亡者に呪文を唱えて悪趣から善趣に転生させる、である。一見してわかりにくいが、布施を与える対象が亡者なのか、出家者なのか、そして亡者の転生先が餓鬼道であるかどうかがポイントとなる。

(1)在家者が亡者に布施を供える

インドでは、亡者にお供えものをするという土着習俗があった。仏教ではそれを取り入れ、餓鬼道に転生している亡者にお供えをすることで餓鬼道での飲食物が提供できると理論化した。

(2)在家者が出家者に布施を与えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる

インドでは前項の習慣が発展し、餓鬼に布施を与えることで善趣へ転生させることができると考えられるようになった。上座部の『ペータヴァットゥ』では、餓鬼に布施を与えるという慈悲によって与えた人はやがて善趣に転生し、餓鬼自身もただちに善趣へ転生するらしきことが書いてある。これは聖者崇拝がその基盤にあると考えられる。

(3)在家者が出家者に布施を与えて亡者を悪趣から善趣へ転生させる

さらにインドでは、餓鬼道以外の悪趣(地獄趣、畜生趣)にある亡者も出家者への布施で善趣へ転生させられると考えられるようになった。『盂蘭盆経』にそのことが述べられている。布施の対象は、仏・独覚・声聞・十地の菩薩であり、亡者や施主が善趣へ転生できる理由も、聖者が「定」に入ることの利益であるとされる。なお同経は以前中国で作成された偽経であるとされていたが、近年は偽経ではないと考えられている。

中国では『盂蘭盆経』に基づいて、出家者に布施を与える盆が使われるとともに、亡者の慰霊を行う中元節が成立した。

日本では古代に盂蘭盆会が伝わり、7月15日に出家者に布施を与えていたが、これがやがて亡者へ布施(供物)を与えるように変化して「お盆」となった。

(4)出家者/在家者が布施に呪文を唱えて亡者を餓鬼道から善趣へ転生させる

だんだんややこしくなってきたが、ここのポイントは「呪文を唱えて」という要素である。これもインドにおいて土着習俗に基づいて考え出された。7世紀頃の初期密教(『救抜焔口餓鬼陀羅尼経』)ではこのような考えが生まれていた。筆者は指摘していないが、呪文が登場したのは、聖者の存在感が弱まってきたことを感じさせる。聖者が定に入る功徳によって善趣へ転生するという考えのリアリティが低下し、呪文の効果だとした方が人々に受け入れられるようになったのではなかろうか。

中国では『救抜~経』が伝わり、餓鬼道のみならず悪趣から善趣への転生が可能と考えられるようになって、そのためのマニュアル(『施諸餓鬼飲食儀軌』、『施諸餓鬼飲食及水法幷手印』、『瑜伽集要焔口施食儀』など)が数多く作られた。中国では悪趣にいる亡者を呪文によって善趣へ転生させる需要が大きかったのではないかと感じさせる。

日本でも中国から『救抜~経』が伝わり、同様の考えとなった。

(5)出家者/在家者が亡者に呪文を唱えて悪趣から善趣に転生させる

これもインドで考え出され、7世紀頃の初期密教に属する『仏頂尊勝陀羅尼経』において説かれた。また『不空羂索神変真言経』でも光明真言などの呪文が善趣への転生に有効だとされている。

前出の経典が中国に伝わると、呪文によって亡者を善趣に転生させることが行われるようになったが、本書に掲載された事例は全て葬式の際に呪文を唱えるものである。明確ではないが、こちらは葬式の儀式として広まったため、広く亡者の慰霊という意味では布施を行う(4)の方が主流となったようである。

日本でも前出の経典が伝わって同様の展開となり、特に葬式の際の土砂加持が普及した(明恵が普及に力を入れた)。呪文(真言・陀羅尼)に力があるならば、わざわざ出家者に布施を行って呪文を唱えてもらう必要はなく、在家者が呪文を唱えれば十分ということになるが、江戸時代の臨済宗の悟り体験者たち(至道無難、盤珪永琢)はその見解に否定的だった。つまり呪文は出家者(聖者)が唱えてこそ意味があると思われていたようだ。

「第5章 追善の始まり」では、2つのケースに分けて追善の始まりについて考察している。

まず追善とは、亡者が未だどこへも転生していない間(通常49日間)の間に、亡者に善を追加してやることで、通常は「出家者に布施を行うという副徳を亡者に振り向ける」という形で行われる。2つのケースとは(1)在家者が出家者に布施を与えて追善を行う、(2)在家者が出家者に布施を与えて追善に類することを行う、である。

(1)在家者が出家者に布施を与えて追善を行う

インドにおいては、慰霊は行われたが、追善は行われていない。つまりすでに悪趣に転生した亡者を善趣へ転生させることは可能であったが、未だどこへも転生していない亡者を何らかの儀式によって善趣へ転生させることはできないと考えられていた。そもそもインドの大部分の部派では中有(中陰)を認めず、転生は速やかに行われると考えられていた。説一切有部と唯識派では中有を認めており、その期間は49日間であるとすることが多い。しかし説一切有部と唯識派でも他者による追善は考えられていない。

追善が考え出されたのは中国である。中国では『梵網経』により三七日、七七日の追善が行われるようになった。具体的には経典の読誦・講説・斎会(出家者に食事を与える)である。追善は『梵網経』の後にも継承されるとともに、七日おき(累七)に追善を行うという習俗が確立した。そして本来の追善は中有の間だけに意味があるが、儒教の祖先祭祀の習俗に影響されて「百日、小祥(一年の喪の終わり)、大祥(三年の喪の終わり)」も仏事として行われるようになった。

日本でも持統天皇の七七日の斎会を嚆矢として追善が行われ、聖武天皇では一周忌が行われている。鎌倉時代には三十三回忌まで含めた十三仏事が成立した。室町時代には、十三仏事でなく、十三年の間毎年年忌の斎会が行われることもあった。

(2)在家者が出家者に布施を与えて追善に類することを行う

ここでは南方の事例のみが述べられている。南方は上座部圏なので先述のとおり中有を認めず理論的に追善はありえない。ところがタイやベトナムでは死後七日目に「七日供養」と呼ばれる事実上追善と同様のことが理論的な裏付けなく行われている。

「第5章 起塔の始まり」では、3つのケースに分けて起塔(塔を建てること)の始まりを論じている。

3つとは(1)出家者が出家者の塔を起てる、(2)在家者が出家者の塔を起てる、(3)在家者が在家者の塔を起てる、の3つである。なお、ここでいう起塔は、一般的に塔を建立することではなく、誰かのために(墓としての)塔を建立することを意味している。

(1)出家者が出家者の塔を起てる

墓標としての塔を起てることはインドで考え出された。上座部の『ディーガ・ニカーヤ』大般涅槃経では、ブッダは如来・独覚・声聞・転輪聖王は塔に値すると述べている。それは、塔を見て心が浄らかになり、それによって天界に転生するからだという。ここで転輪聖王も含まれているのが注目される。このように元来は塔に値するのは悟りを開いた人に限られていたが、悟りを開いていない人にもそれは徐々に拡大された。

説一切有部のヴィマラークシャ(4-5世紀)の聞き書き『五百問事』には、「その遺骨を収めて亡者のために俱攞(くら)と呼ばれる塔を作ることがある。形は小塔のようであり、上に相輪がない」とある。「俱攞」とはkula(塚)の音写であるという。後期密教の実践マニュアルでも同様の記載がある。この時期には塔の建立は異生まで拡大されている。

異生の出家者の塔を特に望んだのは、比丘尼であったらしい。しかし元来は聖者の記念碑的なものであった塔を異生にまで起てることには比丘からは抵抗があったようだ。「比丘尼が出家者の塔を起てては感傷に浸り、比丘とのあいだで問題が起こったことはいくつかの部派に共通して伝えられている(p.193)」。

中国においてはインドとは独立に出家者が出家者(異生含む)の塔を起てることが東晋の半ばまでに自然に考え出され、唐にも受け継がれた。『禅苑清規』では夭折の出家者は火葬した遺骨を普同塔(共用の塔)に、高徳の出家者は遺体を結跏趺坐させたまま龕に納めて塔の地下に入れることが記されている。高徳の出家者の場合の塔はかなり大きいことが予想される。

日本では、なかなか起塔の習慣は生まれなかった。平安時代には出家者の廟を建てることは行われており、比叡山には最澄の廟があった。円仁は「比叡山には最澄の他に廟を造るな」と遺言していたが円仁の廟も比叡山に造られ、後にその廟の前に法華経を安置した塔も起てられた。しかしこれはあくまで法華経を安置する塔であって墓塔ではない。良源は天禄3年(972)に、自らの墳墓の上に真言を安置した塔を起てるよう遺言した。これは墓標の性格が強いが、それでも真言のための塔である。出家者が出家者の塔を起てるようになったのは、鎌倉時代に禅宗によって中国から伝わってからと考えられる。

(2)在家者が出家者の塔を起てる

亡き出家者のための塔を在家者が起てることはインドで考え出された。これはブッダが在家者に起塔の作業を任せたためとも考えられる。『根本説一切有部毘奈耶雑事』には、「阿羅漢の塔は相輪が四重」などその形態についての規定も見える。なお、聖者の遺骨に供養(布施)を行うことでその福徳によって天界への転生や般涅槃すると考えられていたが、これには異論もあったとのことである。

南方での状況は複雑であるが、基本的にはインドでの起塔が継承された。

中国でも、亡き出家者が聖者である場合は在家者によってその塔が起てられるようになった。南朝の劉宋にいたインド人出家者グナヴァルマン(求那跋摩)が亡くなった時は、出家者と在家者がともに「白塔」を起てている。智顗の場合も遺言に「二つの白塔を起て、見る人に菩提心を発させよ」とあり、「白塔」が起てられた(円珍はその墳墓を見ている)。起塔は亡き出家者が聖者である場合が中心で、聖者の記念碑的な性格が強かったようにも思われる。それにしても「白塔」とは何だろうか。

日本の場合は、在家者が出家者の塔を起てることはほとんどなかった。

(3)在家者が在家者の塔を起てる

インドでは、一般的ではなかったが土俗習俗に基づいて在家者が在家者の塔を起てることがあった。ただし本書にある事例は貴族の場合のみであるため、「土俗習俗」というよりは、記念碑的なものであった可能性もあると思った。

南方では在家者の塔は起てられていない。

中国では、唐において在家者の塔が起てられるようになり、北宋においてまとめられたとされる『臨終方訣』では在家者の葬式について窣堵波(ストゥーパ)の中に安置するという葬法が述べられている。

日本では、在家者の墳墓の上に呪文(陀羅尼)を安置した塔が起てられるようになった。文献上最古の事例は仁明天皇で、平安時代には天皇の陵の上に塔を起てることが行われた。醍醐天皇、御一条天皇、堀河天皇などである。在家者が在家者の墓として、五輪塔や宝篋印塔などの塔を起てるようになったのは鎌倉時代で、これらは「従来、日本において始まったと考えられていたが、近年、北宋の時代の中国において始まって、日本へ伝わったと考えられるようになっている(p.221)(石田尚豊、吉川功)」。ただし塔に遺骨を納入することは日本で始まったらしい。

「結章 葬式仏教の将来」では、これまでを総括し、仏教が葬式のためのものになったのはなぜなのかまとめている。

その結論は、「在家者が聖者崇拝を背景としてそれを願い、出家者が土俗習俗を背景としてそれに応えたから(p.226)」である。布施・葬式・戒名・慰霊・追善・起塔は、いずれも在家者が聖者を慕う気持ちを具現化したことが契機となっているのである。

とすれば、現在の日本において葬式仏教が衰退しつつあるのは、出家者が世俗化したことによって聖者を慕う気持ちがなくなっていることも一因であると考えられる。一般的には、葬式仏教の衰退は「家」の分解という社会経済的な側面から語られがちだが、著者は出家者の質がその本質にあると見る。本書に述べられる明治期の高徳な僧侶・西山禾山が執り行う葬式は、「確かにこういう人に葬式をしてもらえるなら、今の人も葬式をしたいと思うかもしれない」と思わせるものである。

そして、「出家者の悟りのための宗教と、在家者の葬式のための宗教とはまったく矛盾しない(p.232)」と著者は考え、むしろ高徳な出家者の出現こそ葬式仏教の復興に必要だと考えている。

「付録 『浄飯王般涅槃経』の真偽をめぐって」では、現代の日本で出家者が在家者の葬式を行ってよいという根拠として使われてきた同経について述べている。同経は中国の南北朝時代に流通したものである。本書では同経の全訳を掲載し、その文言を先行する経典(『大智度論』など)と比較することで、「中国において、ブッダもまた父の葬式を行った孝子であることを主張するために作られた、偽経であると考えらえる(p.256)」と結論づけている。

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本書は、インド・南方・中国・日本を横断して葬式仏教の来歴を語るものであるため一つ一つの項目は簡潔であるが、同時に緻密でもある。葬式仏教というと、日本の仏教の特質の一つとして捉えられがちで、その来歴も日本で完結する形で考察されることが多い。ところが本書では、仏教発祥・伝来の地ではそれぞれ仏教が葬式を担うようになった次第が述べられており、蒙を啓かれた思いである。ただし、それはインド、中国、日本と伝わってきたのではなく、断絶も見られる。特に中国は、インドから葬式仏教が伝わったというよりは、独自に葬式仏教が発展したという性格が強い。日本の葬式仏教は中国から伝わった部分も多いだけにこの点は注意が必要だと思った。

また、著者は葬式仏教の基盤には聖者崇拝があると述べるが、これはインド・南方・中国・日本を横断して概括的に言えるとしても、日本の状況にぴったりあてはまるとは限らない。というのは、葬式仏教として最も成功した宗派である浄土真宗を考えてみると、親鸞その人が「非僧非俗」を標榜し、浄土真宗では今でも「同朋」(宗教指導者と一般信徒、というのではなく門徒はみな平等、というような意味を含む)という言葉が使われるように、浄土真宗の葬式は必ずしも高徳な僧侶のありがたさで広まったわけではない。葬式仏教の創始は聖者崇拝によったとしても、それが広まった要因はまた別に考察する必要がある。

なお葬式や起塔の対象に、インドにおいてすでに「転輪聖王」が含まれていたことは気になった。転輪聖王とは仏教的な理想の帝王であるが、実際には現実の統治者にも適用された。つまり葬式仏教の対象に転輪聖王を含めたことは、仏教が世俗的統治者と融和的な姿勢にあったことを示唆する。日本の中世では王法仏法が相即不離であるとされたが、これは決して日本社会の特質ではないのである。葬式仏教について考察する上でも、日本の歴史だけを考えるのではなく、東アジアへも目を向けて共通の土台に基づいて考察することが非常に重要だと痛感した。

葬式仏教の来歴をかつてない視野で解明した労作。

【関連書籍の読書メモ】
『葬式仏教』圭室 諦成 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html
仏教が葬式を担うようになった次第を述べる本。葬式仏教論の嚆矢である名著。

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