2026年11月3日火曜日

『明治富豪史』横山 源之助 著

明治時代の富豪と海外植民を手がけた人物について語る本。

著者・横山源之助は、明治期における女工や炭鉱夫などといった労働者階級を活写した書『日本の下層社会』で著名である。横山は日本の労働運動の黎明における活動家であり、また理論的支柱でもあった。その横山が富豪について語るとは奇異な感を抱くかもしれない。

しかし労働運動が弾圧されて最初の芽が摘まれた後、横山は下層社会だけでなく中産階級・上流階級のありさまをつぶさに調査し、資本主義の全体像を解明しようと試みた。特に富豪研究はその中心で、横山はこれを大著にまとめる計画であったがそれが果たせず、雑誌に掲載された原稿をまとめた本書がその研究の一斑を伝えているに過ぎない。

本書は「明治富豪史」「富豪貴族」「海外の人」の3つの部分に分かれている。「明治富豪史」は、普通にいう歴史の記述ではなく、富豪に人脈を持つという設定の翁が一人語りするという、まるで『大鏡』のようなスタイルで書かれており、その文体も面白い。「富豪貴族」「海外の人」はそれほどではないが似たようなスタイルである。横山源之助節、とでもいえようか。

「第1 明治富豪史」は、明治期になって富豪になった人物を語るものである。

劈頭は「戦争」で大儲けした人物だ。例えば岩崎家がそれにあたる。戦争はともかくある種の人物をひどく儲けさせる。次が「贋造紙幣」。偽札で儲ける人物がそんなにいたのかと思うが、著者は「明治初年には、どんな奴でも贋札を遣わない者はなかった(p.17)」という。幕末から藩札の類は濫発され、薩摩藩も幕末には偽金を作っていた。両替のカラクリで濡れ手で粟だったのが安田善次郎。明治後にはちゃんとしたお金を偽造するのではなく、勝手に造られた贋造紙幣もあった(「大隈札」など)。

江戸期の富豪の多くは幕府から特殊の株(独占の保護)を受けていたため、幕府が滅びると共倒れした。そんな中で生き残ったのが三井家と住友家である。著者は三井家を支えた三野村利左衛門、同じく住友家を支えた広瀬宰平の存在がそこに大きく与っているという。それでは明治期になってから現れた富豪にどんな人物がいるのかというと、これをいちいち書いていると煩わしいほど本書には大量の人物が登場する。

まずは「薩長土肥」の人物。彼らは藩閥政治の保護を受けて伸張した。その豪物(えらもの)といえば五代友厚と岩崎弥太郎だという。なお、五代友厚は「開拓使官有物払下げ事件」(官有物を五代が不当に安く払い下げを受けたとされる事件)で悪名が高かったが、最近それは事実ではなかったことが明らかになった。しかし本書では、五代友厚が不正をしたとは一言も書いていない。しかし「思う儘(まま)に大阪の事業界を左右していた(p.33)」という。横山は労働者の目線を持ち、富豪には反発心を抱いていたと思われる節があるが、その筆は糾弾する調子ではないのが意外だ。

五代友厚については特別に一節が設けられその人柄も述べられているが、「大阪の事業界を左右」する人物でありながら、身なりなどには構わなかったそうで、「私の知っている五代は(中略)極めて質素な、むしろ無頓着な男(p.36)」だったそうである。本書が執筆された頃は「開拓使官有物払下げ事件」の汚名が着せられていたはずだが、著者の筆は五代に好意的である。ただ「孔子と、釈迦とが並んで説法しても、おそらく五代の自信を挫くことが出来なかったろうと思われる位、それはそれは自信の強い男じゃった(p.37)」ということだ。

しかし五代以外の藩閥関係人物について、著者の評価は辛い。煩瑣になるので具体例は割愛するが「ナニ、長州人は酷いことを遣る。なんの、長州ばかりでない。薩摩などは、もっと酷い(p.46)」という。

時代が動く時、富豪が生まれる。時流に乗って濡れ手で粟の事業をするものが現れるからだ。岩崎弥太郎はその一人である。幕末から一種の山師的商売を始めた岩崎は、廃藩置県の際に土佐藩の行っていた繭糸紡織と汽船の事業を引き受け、九十九商会(後の三菱会社)を立ち上げた。これは、廃藩置県にあたり同事業が追っていた20万両の借金を清算するために行われたものらしい(つまり岩崎は借金を引き受けた)。さらに佐賀の乱が起こると、この時軍器兵糧の運搬の命を受けたのが三菱だったのである。これで資本を膨らませた三菱がさらに儲けたのが西南戦争である。その頃の政府はあまり軍備がないために軍関係の輸送を岩崎に委託したのだが、その委託料が洋銀70万ドルだったといい、これによって海上王になっていくのである。戦争は庶民の生活を破壊するが、商人の懐をかえって膨らませる。「関西中国の商人原(あきんどばら)は九州を目掛けて損得の戦争をやりよった(p.59)」。

岩崎弥太郎と双肩をなすのが藤田伝三郎で、彼は元々長州閥と深い関係にあり、やはり西南戦争で政府の御用を受け、藤田組は被服・靴・食糧の輸送を一手に引き受けた。三菱の方が輸送はメインで藤田組にいくら入ったのかは定かではないが、これで藤田組が大きくなったのは間違いない。

もちろん、商人にも立派な人はいた。足尾銅山を引き受けた古河市兵衛などは「運鈍根」と口癖のように言っていたそうで、物事には「運」と「鈍」と「根(根気)」が大事だという信念で情に厚く親切で、「一度古河に使われると、みんな古河の為に、誠意を以て働いたそうじゃ(p.64)」。 

西南戦争が終わると激動の時代は過ぎ、一攫千金の大儲けはなくなったが、その後に富豪となっていった人物は、渡辺治右衛門、峰島茂兵衛、堀越角次郎など土地の騰貴によって儲けたものが多い。彼らが「維新当時、二束三文で購入(かいい)れた地所は、十倍となり、百倍となり、千倍となって、いつの間にか東京の大々地主となった。寝ている間に、大富豪となったのじゃ(p.73)」。

「第2 富豪貴族」では、富豪たちの生活実態が活写される。

まずは「富豪界の頭目」井上馨である。著者は井上の朝の日課や朝食の内容、井上自身の料理の腕など事細かく述べる。すごい取材能力である。次が岩崎弥太郎で、これは元女中さんによる証言である。家庭内に働く女中さんの目で見た岩崎ということで、かなりプライベートなことまでが暴露されている。続いて銀行業の「覇王」こと安田善次郎。安田の経歴は、これまでの一攫千金的な富豪とは違い、地道な努力によって開かれたものである。彼は人形町に9尺の間口で鰹節を売っていたのである。そしてやはり努力家の夫人と二人してこの零細商売で10両を溜めた。しかしこの10両の大金を泥棒に奪われてしまう。夫妻はこれにめげずに数年後また数十両の貯金をしたという。その安田も後に銀行業で濡れ手で粟の商売をすることになるのであるが。

次に取り上げられるのは大名華族である。彼らは維新直後は忘れられようとしたが、明治後半になって再び表舞台に出てきた。それは「市街宅地の所有者」としてである。東京市においてはその大地主のほとんどは大名華族であった。大名華族については個別具体の家というより、「大名華族の家はだいたいこうだ」という感じで書いている。もちろん具体例はあるが、事業家に比べると総論的である。

次が地主である。先述の通り、土地の騰貴によって富豪となったものは多いが、なぜ彼らが土地を購入したかというと、「多くは不用意の結果(p.122)」で、「先見に依って投資せる者は極めて寡い(p.123)」。 本書には明治末年頃の東京の地主の顔ぶれが掲載されているがこの表は興味深い。1位は岩崎家で22万1000坪、2位が三井家で17万2000坪、3位が峰島(コウミネ)で11万9000坪と続く。4位が阿部正植(旧大名)で、10位以内には旧大名が多い。17位には松方正義が3万1000坪でランクインしているが、彼はどうして東京の土地をこんなに持っていたのだろう。

「第3 海外の人」では、富豪ではなく海外の植民事業など国外で活躍した人を取り上げる。

この項目は取り上げられている人物そのものより、彼らが活躍した時代背景に興味が引かれる。例えば小笠原で信天翁(アホウドリ)の捕獲を手がけた玉置半右衛門。彼はなかば捨て鉢になって小笠原に渡ったのだが、アホウドリを捕獲して羽毛を売ることで儲けたのである。当時は小笠原に渡航するものが多かったのだという。今から考えてみると、次男三男で相続する土地や事業がなかったにせよ、狭い小笠原に渡ってどうするのかという気がするが、小笠原、そしてその先の南洋に渡っていくものが多かった。カロライン諸島、マリアナ諸島などに移住して真珠とか鼈甲のような商品を扱うといったことがその発端だったらしい。そして南洋経営の必要性を訴えたのが田口卯吉だそうである(→南島商会)。本書にははっきりとは書いていないが田口卯吉は士族の授産事業として南洋移住を唱えたらしい。

シンガポールに移住した人も多かった。そこで勢力を伸ばしたのが米井商会。この会社は南洋における醜業婦に商品(特に衣装)を供給することで発展した。この時代、女性は南洋にまで身売りに行かなければならなかったのだと思うといたたまれない。著者は「海外未開の地に一身を托して、日本人の先駆となっているものは、参謀本部派遣の視察員と、醜業婦である(p.148)」という。女性を買っていたのは参謀本部派遣の軍人だったのであろう。彼らは旅先でも女性を必要としたのである。何かそれだけで後の破局が予見されるような気がする。 

もちろん、海外との貿易を手がけたものも多いが、「貿易に依って巨富となった者といえば割合に寡い(p.153)」という。海外で成功したものは、土地、礦業、御用商人が多いという。満洲はその大きな拠点だったが、今から見ると意外なのはウラジオストックに日本人が多くいたということである。ここでは日本人の雑貨商が多いという。ロシア全体からみるとウラジオストックは僻地なので商機があったのかもしれない。ともかく日本人はかなり広範囲に商売を拡げていた。中国は言うまでもなく、シャム、ハワイ、フィリピンなどでも日本人は商売していた。そして北米は最大の貿易相手でもあり太平洋沿岸だけで在留日本人は約8万人、商店員は2千人以上だという。

このように日本人が海外に飛び出ていくということになると、移民事業そのものを手がける会社「移民会社」が出てくる。これはほんの一時期の現象であったのだが、それでも目覚ましい規模で移民が行われたのが見て取れる。移民事業が行われたのは明治18年頃からだという。当時ハワイ政府から日本政府に移民の要望があったのだという。この事業に応募してハワイに渡ったのが2194人もいたというのだから驚く。明治30〜31年には、1年に2万から3万人がハワイに渡った。それほど、人々は新天地を求めていたのである。

ハワイ移民が盛んになるとこれを斡旋する会社がたくさん作られたが、それらの会社に「五会社」という同盟が結ばれた。カルテルの類であろう。移民するような人は日本での生活に行き詰まった、切羽詰まった人が多かったから、そこにつけ込んで移民会社は好き放題しており、その悪評も甚だしかったらしい。ためにカルテルが組まれたのであろう。ただ、著者は「五会社の布哇移民に功勲多きを認めないのは偏頗である(p.177)」として五会社の功績も認めている。

ともかく、五会社の専横には反発勢力が生まれ、五会社内部も一枚岩ではなかった。そんな中、五会社のうちの一つを経営していたのが衆議院議員でもあった日向輝武が、五会社の均衡を破って設立したのが「大陸植民会社」である。

一方、ブラジル移民の構想もかなり古かった。しかし日伯間には条約がなかったためにブラジル以外の南米がまずは中心となった。ペルーには明治32年に初めて移民が行われ、数千人の日本人が移民したという。この事業の中心となったのが田中貞吉という悪名高い人物で、夭折した田中を継いで起こったのが「明治植民会社」であった。その後ブラジルとの条約がなり、ブラジル移民を斡旋したのが「皇国植民会社」である。

このように移民会社は盛衰を繰り返したが、明治末年になって多くの会社が廃業の憂き目をみた。それは政府が満洲や韓国への移民を重視した結果、それ以外への移民の条件が相対的に悪くなったことが主因である。しかし著者はそういう政策的な理由だけでなく、そもそも移民会社にも原因があるという。それは「日本の移民業者は、その取扱高で手数料を数えている口入業者である。その間に抱負なく、理想なし(p.194)」という点につきる。今の外国人研修生を斡旋している業者にもいえそうなことである。

本書の最後には「仏魂商服の人」という項目がある。これは仏教に帰依した商売人の意である。先に登場した「皇国植民会社」でブラジル移民を立ち上げたのが水野龍で、彼は熱烈な日蓮信仰を以て南米に渡ったという。なぜブラジル移民が計画されたかというと、当時五会社がハワイ移民事業を独占していたという事情があるらしい。しかしブラジル移民へは日本政府が冷淡で、水野には無理難題をふっかけたらしい。水野はそれにめげずブラジル政府との交渉を行って無事ブラジル移民の端緒を開いた。が、あまりにもその経費がかかりすぎたために皇国植民会社は第1回ブラジル移民で破綻してしまった。満州国の思想的支柱に日蓮主義があったことは有名だが、ブラジル移民にも日蓮主義がかかわっている可能性がある。

なお、様々な事業を手がけて成功したが、何らかの事情でブラジルに脱奔したのが山県勇三郎。この人はアムハラバこと西田和協の熱心な信者だった。ブラジルに行って後も、アムハラバへの献金を続けたという。

「日本人は内向き」といわれているが、明治時代から昭和初期にかけて、日本人は積極的に海外に出て行った。 明治時代では失業士族が新天地を求めたという側面が大きく、大正・昭和になると農地を相続できない次男三男が出て行ったという側面が大きいように思われる。明治維新後、日本は急激な人口増大を続けたので、食っていけない人がたくさんいたのである。そう考えると、人口減少局面にある日本が内向きになるのはやむを得ないことなのかもしれない。

富豪・事業家から明治時代を見る特異な本。

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2026年10月3日土曜日

『ピアニストは「ファンサ」の原点か―スターとファンの誕生史』かげはら史帆 著

リストファンについて考察する本。

本書は、リストに熱狂する女性ファンの様子を描いた1842年の風刺画を読み解くことで、ファンとは何かを追求していく本である。著者自身の言い方では、「この一枚の風刺画から見える歴史上の”ファン”と”スター”の事例に迫り、その時代や社会や人々の分析を通して、現代のクラシック音楽文化やファン文化を再照射しようと試みる本(p.7)」である。

ファンとスターは近代社会の産物である。大勢の人気に支えられた商売というものは、情報が広く流通せず、人がそれほど移動できない社会では成立しようがない。前近代の音楽については王侯貴族と教会の存在感が大きいが、近代において「公衆」なる存在が出現したことで音楽の構図は変わった。「公衆」は、同じ本や新聞を読み、同じ時間と情報を共有する。彼らの存在によって「ごく一部の人物が異常なほどの著名性を得るという現象が起き(p.29)」た。

重要なことは、この「著名性」である。別にファンというわけでなくても、みんな著名人に興味があり、その人物についてああだこうだ言いたい。つまり公衆は著名人を「消費」したくてたまらない。ベートーヴェンが1827年にウィーンで亡くなった時、2万人もの人が葬儀に詰めかけたというが、参列者にはベートーヴェンの音楽など聴いたこともないはずの階層の人までがいた。彼らは多分「あのベートーヴェンの葬儀に行った」という事実を欲しがったのだ。そういう裾野があるからファンというものが成立するのである。

そういう時代背景の下に、圧倒的なスターとなったのがフランツ・リストである。彼は1811年生まれで、わずか9歳でピアニストとしてデビュー。カール・チェルニーとアントニオ・サリエリに学び、1830年代のパリで人気が爆発。1839~47年には計1000回にも及ぶヨーロッパツアーを行って演奏活動から引退し、翌1848年にはヴァイマールの宮廷楽長となって以後作曲やピアノ指導、宗教活動を行った。

実は「1790年代のウィーンでは、若手のピアニストたちが演奏バトルをするカルチャー(p.60)」があった。リストの人気が爆発する60年ほど前である。要するに聴衆はピアノ演奏を聴いて感動するのではなく、盛り上がっていた。だからこそバトルが成立した。現代のコンクールでも勝ち負けは決まるが、ここではどっちが盛り上がったかということが勝敗を決めたのではないかと思われる(もちろんそのためには派手な曲や演奏が求められたであろう)。

チェルニーによれば、なんとベートーヴェンでさえ「泣かせる」芸を心得ていたという(p.60)。ベートーヴェンにはそういうバトルの好敵手(「命がけの敵」)がいた。ヨハン・バプティスト・クラーマー、ヨーゼフ・ヴェルフル、ダニエル・シュタイベルトといった人たちである。彼らは聴衆を「泣かせる」「しびれさせる」という「カッコいい」パフォーマンスを追求した。これに対するベートーヴェンは圧倒的な即興演奏技術を持っていたとはいえ、彼らに完全勝利したのではなく、20代の終わりからは聴覚障害により作曲に専念するようになった。

そしてこのライバルたちの系譜が、次世代のヨハン・ネポムク・フンメル、フェルディナント・リース、ジョン・フィールド、イグナーツ・モシェレスなどに受け継がれ、1800~20年代に活躍した。ここで重要なのは、この世代の人々は「ダンディ」という価値観を重要視したということだ。この「ダンディ」は今の意味とは違い、伝統に縛られず今この瞬間に輝くことを重視する男性の在り方を示す語(著者の説明を要約)である。つまり脱古典主義的なのがカッコいい、という価値観があった。そしてこの時代のダンディズムは、マッチョイズムとは対極にあった。当時はロマン主義の真っただ中である。ロマン主義では、神秘的なものや女性的なものが愛好され、男性の肉体はむしろ嫌悪される傾向にあった。

こういう時代の趨勢の中、リストが登場する。彼は背が高くて痩せており美貌の持ち主だった。ちなみに彼のライバルとされることもあるショパンは、背が低くて女性的で病的な雰囲気さえあった。彼は衣服やインテリアにお金を使い、高価な絹のネクタイを巻いて部屋をエレガントな調度品と花々で美しく飾っていたという。ショパンがそういう趣味だった、というだけでなく、そういう美意識が支持される時代だった、ということである。

リストが手本にしたのは「ヴァイオリンの悪魔」と呼ばれたニコロ・パガニーニであるが、パガニーニは神秘的な雰囲気、悪魔と契約したと言われてもおかしくない風貌を自己プロデュースしていた。しかしリストはそういう表面的な真似ではなく、古今東西の書物を手当たり次第に読んで、ベートーヴェンやバッハの作品を研究し、その上で派手な奏法をマスターして頭角を現した。彼は自ら本格派になろうとしていたのである。リストの時代も、ジギスモント・タールベルク、シャルル=ヴァランタン・アルカン、アレクサンダー・ドライショックといったピアニストがリストに勝るとも劣らない派手な演奏技巧を競っており、リストはピアノがうまい人はごまんといることを知っていたからこそ基礎が大事だと思ったのかもしれない。

しかしリストは自己プロデュースでも一流以上だった。「演奏中にこの長く美しい髪がファサッ……と鼻のあたりにかかるのを、首で軽く振って払ったり、かきあげたりする仕草は、この上なく魅惑的であった(p.74)」という。女性がキャーキャー言ったのも当然である。彼は孤高のピアニストではなくエンターテイナーであった。

その人気を基盤にして、リストは「リサイタル」(2時間程度の独演会)を初めて行った。この頃の音楽のコンサートというのは、入れ代わり立ち代わりいろいろな演奏家・オーケストラが登場する演芸大会のようなものであったが、リストはピアノのみの独演会を行った。これは「常軌を逸した、傲慢で王様気取りな思想(p.81)」でさえあった。ちなみにこの頃のコンサートはお客が席に座って静粛に音楽を耳に澄ます……のではなく、お客同士で話したり(社交の場)、キャーキャー言ったりする、今でいうライブのような場であった。リストのリサイタルも「ディナーショーやファンミーティングのような「交流」の要素も強かった(p.83)」ようである。

リストは私生活でも話題を提供した。20歳手前でアデル・ドゥ・ラプリュナレド伯爵夫人と、その後は6歳年上のマリー・ダグー伯爵夫人と不倫関係になり、ダグー伯爵夫人とは駆け落ちして子供も設けている。ロマン主義全盛のこの頃はこういう道ならぬ恋が持ち上げられており、かごの中の小鳥のごとき高貴な夫人が自らの意思で若く才能のある若者と結ばれることが「社会への反抗や反骨(p.85)」を象徴していた。

さらにリストは、チャリティーも行っている。祖国(とリストが自己規定した)ハンガリーの災害のためにチャリティー演奏会を行ったのである。彼はノブレス・オブリージュを果たす人としても公衆から認められた。要するに、リストはこの時代がピアニストに求めているもの全てを自覚的・無自覚的に体現したのである。

本書でこういう例えがされているわけではないが、この時代背景はどことなくビートルズ登場前後のロックミュージックシーンに似ている。旧来の道徳や社会規範が力を失い、テレビという新しいメディアの登場によって大規模な大衆が生まれ、そして大衆向きの新しい音楽が求められていた……というのが19世紀初頭の状況とリンクする。仮にベートーヴェンをビートルズに宛てるとすれば、リストはジミ・ヘンドリクスということになろうか。

ともかく、リストは時代の寵児となり、時代そのものを変えた。例えば、リストは女性からオペラグラスで凝視された。女性が憧れの男性を堂々と凝視するなどということはそれまでなかったらしい(オペラグラスは、観劇のためでなく客席を見るために使われていた)。女性が「男性アイドル」を主体的に消費するようになった姿が、リストファンには看取される。女性たちはリストに入れあげて、時には失神さえした。当時の医師はそういう「リストマニア(p.106)」を狂気と見なして、治療が必要な真正の「病気」であると大真面目に考えていた。リストの演奏から電流が発生してそれが観客を感電させてしまう、などという珍説を見ると、病気がどっちだったのかわからない。

今ではコンサート中の失神は酸欠と関連させられることが多く(「病気」の一種かもしれない)、当時の女性もコルセットできつく胴を締め付けていたことが失神の要因だったのかもしれないが、彼女らは「失神したかった(p.116)」精神状態にもあった。つまりロマン主義に彩られた新たな自由の時代が到来したことを感じているのに、実際には女性は家を守るという価値観は強固で、家父長制の下で抑圧されていたのである。ちなみにこの時代にも女性音楽家はいる。有名なのはメンデルスゾーンの姉ファニー・メンデルスゾーン、シューマンの妻クララ・シューマンだ。彼女らは抜群の才能を持ちながらも音楽家としての活動を身内から快く思われていなかった。それでも二人が女性音楽家第一世代として多少の足跡を残せたことは、この時代の雰囲気を伝えている。

要するに、この時代の女性は自らが主役にはなれないという状況の中にあった。そんな中でリストの熱狂的なファンをやることは、女性ができる主体的な数少ない活動の一つでもあった。彼女たちは——想像をたくましくすれば——リストを全身全霊で「推す」ことで、自分の人生を生きたのである。現代の抑圧された女性と同じように。

ちなみに、「サロン」も当時の女性に許された数少ない活動であった。「ヴェロニカ・ベーチは、サロンを、「男性社会の秩序に阻まれて女性には許されなかったものを、みずからの知的欲求と知性によって自己実現できる自由な場」と定義づけて(p.131)」いる。リストもダグー伯爵夫人のサロン出身ともいえる。リストは、女性の自己実現を託されて世に出たのかもしれない。

そういう女性ファンは、時として眉を顰められる問題行動を起こした。例えばリストの飲み物の残りを奪い合ったりキスを迫ったり、自宅に押し掛けたり、卑猥な言葉を使ったりということが当時批判されている。ファンの一部は、リストを性的に消費していたのである。実際に彼女らがそうした行動をしていた直接の証拠はないものの、リストは自分自身を「あやつり人形(p.145)」だと言っているから、いくばくかは主体性が侵害されるようなことが実際にあったのであろう。

これまで、女性ファンに着目して論説が進んできたが、この時代の男性は良心的だったかというともちろんそういうことはない。例えばバレリーナに入れあげる男性は多かった。そもそもバレエの鑑賞には性的な視点がつきまとう。リストに入れあげる女性よりももっとあけすけに男性はバレリーナを性的に消費し、興行主の方もそれを煽っていた。そしてうまくバレリーナとの逢瀬に持ち込めなかったムラムラした男性が劇場のまわりをうろついていたため、劇場周辺には大勢の娼婦が立つことになった。またバレエ人気は、人工的に作られたバレリーナのライバル関係がメディアによって煽られることでも高まった。○○推しと△△推しがどっちが優勢か、みたいなものである。リストの場合も、タールベルクとのライバル・対立関係が、リスト自身が火に油を注ぐタールベルク批判記事を書いていやがうえにも盛り上がった(ダグー伯爵夫人がゴーストライトした可能性が高い)。今でいう炎上商法みたいなものである。

ところで、著者が言っているわけではないが、男性ファンには欲望があることが当然とされる一方、女性が男性アイドルに熱中するのには何か社会的な要因があるはずだ、という分析にはジェンダー的な偏りがあるように思われる。バレリーナに熱中する男性ファンだって自らの心の空虚さを埋めるという秘めた目的があったかもしれず、そういう分析がなされることもないわけではないが、それがなくても欲望は前提とされる。であれば、女性たちがリストに入れあげたのも、単に女性にも男性同様欲望があったということにすぎないかもしれないのだ。著者の分析は的を得ていると思うが、こういう視点も頭の隅に置いておきたい。

このようにリストとファンの関係を様々に考察した後、著者は改めてリストに熱狂する女性ファンの様子を描いた1842年の風刺画を取り上げる。そしてそれが、リストではなくファンを風刺したものであることを強調し、そうした風刺がなされたのは「女性が、音楽芸術の聴衆として当時の社会から正当に評価されていなかったから(p.184)」だという。女性は「芸術の受容者として軽んじられていた(p.185)」。当時は音楽批評雑誌が次々と創刊され、(いうまでもなく!)男性の批評家が力を持ち始めていた。

リストマニアの女性たちの態度は「いわゆる音楽芸術の鑑賞らしいものでは(p.192)」なかったが、かといって気軽な消費行動とも違い、むしろかなり「重い」ものであった。それは「これまでの狭義の音楽史や音楽批評の世界が見落としてきた、あるいは文字通りに”軽”んじてきたもの(p.193)」だという。そして「従来のファン/ファンダム研究において、芸術分野の愛好家は研究対象から除外されてきた(p.194)」が、著者がリストマニアをあえて「ファン」と呼ぶのは、「19世紀において、リスト・ファンが芸術のメインストリームから除外された存在だったから(p.194)」だという。つまり、リスト・ファンの女性たちも「音楽芸術の受容者(p.196)」の一つの姿であったと認め、より広い視野から「ファン」として捉えなおしてはどうかと著者は提案するのである。

しかしこの部分は私はちょっと引っ掛かった。というのは、著者の論述には「芸術」という枠組みが自明なものとして設定されているが、これは曖昧な概念だ。例えば、19世紀のバレエは芸術なのに、現代のアイドルグループの一糸乱れぬダンスを芸術と見なさない理由は何なのだろう。私はアイドルのダンスだって芸術だと思う。ビートルズやジミヘンは芸術とは言えないのか。逆にマルセル・デュシャンの『泉』(男性用小便器を芸術に見立てた作品)は芸術なのか。芸術と芸術ならざるものの境界は何なのか。結局、芸術については「人々が芸術だと思っているものが芸術」というトートロジー的な定義しかできないのではないか。少なくとも、現在の「芸術」という概念を当時の文化を分析する際に無自覚的に適用すると、かえって見えなくなるものがある気がする。

そもそも、当時の人々はリストやタールベルクのピアノ演奏を「芸術」と思っていたのか。リスト自身、「スター・ピアニストを続けている限り、芸術家として真っ当な評価を受ける日は来ない(p.188)」と思ってヴァイマールの宮廷楽長に転身したのである。当時のビアにストは、現代でいうロックミュージシャンにずっと近く、彼らの音楽は高尚な趣味ではなくて大衆的な喝采の対象であった。だからこそリストはスターになりえたし、そこから抜け出ようともした。にもかかわらず、著者はリストファンを「音楽芸術の鑑賞者」「芸術文化の愛好家」「音楽芸術の受容者」であったと再評価しようとする。

著者がリスト愛好家を「ファン」と呼ぶのは、クラシック音楽における「演奏家」と「聴衆」という関係を相対化し、「スター」と「ファン」まで包摂するものとして「クラシック音楽」をより広い視野で理解しようという試みであったと思う。しかし議論の果てに、「ファン」も「音楽芸術の受容者」と規定したことで、かえって既存の「芸術」の権威を追認しているように見える。「彼女たちの営為を「芸術」への参与と認めてあげたい」というのは一見女性を評価しているようだが、著者がやんわりと批判する19世紀の音楽批評家と同じく、一方的に文化の価値に優劣を付けているのではないか。そして「クラシック音楽」を高尚なものと見なす既成概念に回帰しているだけなのではないか。

むしろ本書の論旨は、当時の音楽シーンは「芸術」よりも「大衆演芸(エンタメ)」の文脈で理解する方がよい、というもののような気がして仕方ない。そしてリストに熱中した女性たちは、コンサートホールの「聴衆」であるよりは、現代の「推し活」の女性たちと似ていたのである。彼女たちを「芸術の受容者」であると規定することは、むしろ彼女たちの性格を見失うことになる。例えば現代のM!LK(男性アイドルグループ)推しの女性たちを「芸術の受容者」であったと考えたら、彼女たちを歪めて理解することになるような気がする。少なくともそれで彼女たちを「正当に評価」したということにはならないだろう。

もし「芸術」の文脈でリストとファンの在り方を考えるならば、むしろ「現在”芸術”として受容されているものであっても、当時の演奏家と観客を”芸術とその鑑賞”という権威主義的な枠組みで見てしまうと、その実相を理解しづらくなる」ということなのではないだろうか。リストとファンの間にあった音楽を、我々が今、「芸術」と呼んでいるだけなのだ。そしてリストとファンの関係を理解するためには、それが「クラシック音楽」であったという前提を疑ってみる必要があるように思われる。

19世紀の音楽文化を受容側から考える良書。

【関連書籍の読書メモ】
『19世紀のピアニストたち』千蔵 八郎 著
https://www.shokeishuyu.com/2021/01/19.html
19世紀前半のピアニストたちの多様な生き様。

『クララ・シューマン』萩谷 由喜子 著
https://www.shokeishuyu.com/2021/04/blog-post.html
クララ・シューマンの伝記。

『もう一人のメンデルスゾーン——ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルの生涯』山下 剛 著
https://www.shokeishuyu.com/2024/05/blog-post.html
メンデルスゾーンの姉の生涯を述べる本。非凡な才能を持ちながら、時代の制約からついに活躍できなかった女性を描く力作。

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2026年9月28日月曜日

伊藤 七日 著『前夜 of きいろいおうち浮遊記』・『沖縄移住記 果報(かふー)を探して 8 years』

北海道から沖縄に移住した女性が、車一つでZINEを売る旅に出るまでの記録。

通常、この読書メモは一記事に1冊だけだが、今回は2冊取り上げる。『前夜 of きいろいおうち浮遊記』と『沖縄移住記 果報(かふー)を探して 8 years』の2冊である。これらは内容的に関連しているし、その方が書きやすい。

さて、この2冊の本は、先日ひょんなことから出会った女性から直接もらったものと買ったものである。『前夜〜』はフリーペーパーで、『沖縄移住記』は本なのだが、どちらもこの女性の日記的エッセイである。そして現実の時間は『沖縄移住記』→『前夜〜』だが、このメモでは私が読んだ順に『前夜〜』から書く。

この女性は、車中泊して本を売りながら西日本を旅するという。

一応、西日本各地で開催されるZINEフェスでZINEを売るということを目的にしているが、本当の目的は「自分でいられる方法を探すこと」だ。この『前夜 of きいろいおうち浮遊記』は、この旅に出る直前までの心の動きが書いてある。 

彼女は北海道から沖縄に移住して暮らしていた。しかし仕事に追いまくられ、四六時中頭から仕事のことが離れなくなり鬱一歩手前になる。

そして仕事を辞め、本を売る車中泊ツアーに出ることを決心する。彼女は35歳。「35歳で、沖縄ではそこまで悪くない待遇の仕事を捨てて、やりたいことを追いかけてまた放浪の身になろうだなんて、多くの人にとってドン引きだって、わかってる(p.3)」と自ら言う。

35歳でこんなことをやるなんて遅すぎる、といいながら、彼女はこの思いつきを実現することに邁進する。このあたりは読んでいて引き込まれる。この無鉄砲な車中泊ツアーを計画しているのが20代の若者なら、きっとこのZINEはワクワクする計画を練る楽しい文面になっただろう。しかし彼女は、自らの思いつきを肯定しながらも、自分がどうしようもない行き止まりに向かっているのではないかという客観的な視点が頭のどこかにある。つまり、彼女は考えなしに無鉄砲な冒険をするほど若くなく、世の中というものを知っている。にもかかわらず、彼女はその不確かな旅の終わりに期待することしかできない。

もちろん、このZINEはそういう悲愴な内容ではない。むしろ彼女は新しい世界へ踏み出すことに高揚している。それに鬱になりかけながら仕事を続けるより、そこから逃避する方がよほどマシなのは確かだ。自分が壊れてしまったら何の意味もない。だが何にせよ、ただ楽しいだけの旅の前夜なのではなく、ほんとうはやるべきでないかもしれない、いや、やらない方がいいのはわかっているが、それでもやってみたい、という思いがこの前夜記の読後感を複雑にしている。

『沖縄移住記 果報(かふー)を探して 8 years』は、『あさひかわ新聞』に月イチで連載したものをまとめ加筆修正したもので、彼女が沖縄に移住してからの8年間の記録である。

詳しくは書かれていないが、彼女は大きな悲しみを抱えて北海道から沖縄に来たらしい。それは新天地を求めての楽しい移住ではなかったように思うが、彼女自身は「お気楽な移住」だと言う。

しかし彼女の生活はお気楽ではない。彼女は転々と仕事と居住地を変える。それは、ある程度の安定が訪れようとすると、自ら「これではいけない」とその場所から移動してしまうという性分があるからのようだ。まるで積み木遊びを永遠に続けてしまう子どものように、彼女は積んで崩してを繰り返す。

一方で、彼女は「地に足がついた暮らし」にも憧れる。というより、単に放浪が好きなのではなく、「地に足がついた暮らし」に憧れながら、彼女はそういう生き方が出来ないから面白い。もし放浪が好きなだけの人だったら、こういう文章にはならない。

彼女は、まるで泳ぎ続けなければ死んでしまう魚のように進歩や向上を求め、新しい考えや世界の見方を吸収する。もちろんそれ自体は素晴らしい。だが傍目には、彼女は癒しがたい飢えを抱えているようにも見える。彼女はどんなに素晴らしいものを手にしても、そこに安住することを拒否する。

途中、コロナ禍で釣りに没頭するところがある。

ここは、大昔に読んだヘミングウェイを思い起こさせた。ヘミングウェイには『老人と海』(これは釣り文学の傑作だ)だけでなく、多くの釣り文学がある。それはただ狙った獲物を釣り上げるだけでなく、釣りに託して人生を語るものだ。だがヘミングウェイにとって釣りは本気で取り組むゲームではあったが、であるからこそ比較的気楽なものだったと思う。しかし彼女にとって釣りは、ゲーム的なものであったようには思えない。大げさに言えば彼女は「生きている実感」を求めて釣りをしていたのではないか。

『前夜〜』では、私は彼女のことを単純に現代の生活(特に仕事!)に疲れた人と思い、そこから逃避するために車中泊ツアーをするのかと思っていた。しかし本書を読んでみると、彼女にはそれ以上の陰翳がある。

だいたい、『前夜〜』では35歳でこんなことをやるなんて遅すぎる、と自嘲していたが、20代の頃の彼女もどんどん新しい場所に飛び込んで冒険している。もう20代でやりつくしたではないか、と傍観者としては思う。しかし彼女はそれでも満足できない。きっと一生満足できないような気がする。しかもそんな自分を一段高いところから眺めて、「やれやれ」と思う客観性を彼女は持ち合わせている。このメタ性が、はっきりとは書いていないが文章の端々にある。それがこのエッセイを極めて立体的なものにしている。

しかも「やれやれ」と思いながらも、彼女はいつも自分を肯定する。というより、一生付き合っていかないといけない存在(=自分)を嫌いになってもしょうがない。ならば好きになろう、というような覚悟がある。だから癒しがたい飢えを抱えながら、それを肯定し、むしろいつまでも貪欲であり続けたい、と自己規定する。彼女はとても前向きだ。しかしそれすらも、どこか「自分に言い聞かせているような感じ」を仄かに残す。この多重性が本書の大きな魅力である。 

ちなみに、彼女はとても文章が上手い。最近読んだZINEの中では一番上手いと思った。本書には空白期(2023年5月〜9月)があり、それは別の本『くるま旅日記!』にまとめてあるという。こちらも買っておけばよかったと後悔した。

2026年9月21日月曜日

星野元豊・石田充之・家永三郎校注『親鸞(日本思想大系11)』

親鸞の主著『教行信証』。

私は数年前『教行信証』を読もうとしたが、その時は準備が足りないと痛感し、まずは源信『往生要集』、法然『選択本願念仏集』を読んだ。親鸞に繋がる浄土教思想発達の重要な2冊を読んで準備はできたと思い、このたび『教行信証』を開いた。

【参考】『往生要集』の読書メモ
https://www.shokeishuyu.com/2024/10/blog-post_11.html

【参考】『選択本願念仏集』の読書メモ
https://www.shokeishuyu.com/2025/02/blog-post_24.html

しかしながら最初に告白しておくと、私は『教行信証』を5%くらいしか理解できなかった。『往生要集』や『選択本願念仏集』は意外とわかりやすい。特に源信の筆は極めて論理的だ。彼の文章にはまず主張があり、その根拠となる経典論書が引用され、次にそれに対する予想される反論、それへの反駁と続いて、必要に応じて源信自身の疑問や私見が整然と述べられる。さらに源信自身よくわからないということについては正直にそう書いてある。耳慣れない専門用語は大量に使われているが、論理の流れは極めて平明である。法然の場合も、主張、私釈(自身の解釈)、問答などは源信に倣った構成である。

しかし『教行信証』はそうではない。経典論書の引用ばかりが延々と続く箇所があり、親鸞がそれらの引用で何がいいたいのかわからなくなる。かと思うと畳みかけるように親鸞の主張が述べられたりする。そもそも『教行信証』の本当の書名は『顕浄土真実教行証文類』であって、「文類」とは経典や書物の文章を集めたものであるから引用が多いのは当然であるが、『往生要集』や『選択本願念仏集』のような整然とした引用ではなく、いわば研究ノート的な長大な引用が行われ、そこから一種の飛躍によって親鸞の思想が開陳されるという構造になっている。

しかも、親鸞の思想そのものも源信や法然とは異質である。源信や法然は、「どうすれば往生できるのか(浄土へ往けるのか)」ということについて考究した。大雑把に言えば、源信は「観想念仏を行うことが必要だが大事なのは信じる心」、法然は「称名念仏は下根の人だけでなく全ての人に有効であり、念仏以外の行は捨てるべき」といったことが主要な主張だ。彼らは主に念仏の方法論について考究したのである。しかし親鸞は彼らの考えを下敷きにしつつも、「往生するとはそもそも何なのか」「なぜ人は往生できるのか」「往生したら人はどうなるのか」といったことについて考えた。つまり親鸞の思想は多分に思弁神学=スコラ哲学的なのである。こうした考察は、大陸における浄土教の先駆者善導などにも窺え、法然もその思想を受容していた。しかし法然の段階ではそうした形而上学的な疑問よりも、往生の方法論(念仏は有効なのかどうか)がずっと重要であったためそれほど議論されていない。ところが親鸞の頃になると念仏の有効性が確立した(と親鸞は思っていた)ためか、それを支える形而上学的思惟にまで手が届くようになったということなのかもしれない。少なくとも本書からは、形而上学的な思惟を好む人物としての親鸞を強く感じた。

『教行信証』は次の6部構成になっている。
(1)顕浄土真実教文類
(2)顕浄土真実行文類
(3)顕浄土真実信文類
(4)顕浄土真実証文類
(5)顕浄土真仏土文類
(6)顕浄土方便化身土文類(本・末の2部構成)
これらはそれぞれ「教巻」「行巻」「信巻」「証巻」「真仏土巻」「化身土巻」と呼ばれている。なお、書名が『顕浄土真実教行証文類』で「信」を欠いているのは成立の事情が影響しているらしい。

まずこの構成を見て思ったことは親鸞は「真実」にこだわりが強いということである。これは、当時真実でない教えがはびこっていた、ということではなくて、権実(ごんじつ=仮と真)の枠組みの話である。仏教には相互に矛盾するような内容の経典が多い。例えばA経では「誰でも成仏できる」といい、B経では「成仏は難中の難である」といったような具合である。仏教では経典を釈迦の説いた教えとしているが、このように矛盾する主張をどう考えたか。仏教思想家たちは、釈迦の教えは目の前にいる人の理解力(機根)や状況に応じたものだったと考え、多くの教えを「方便」だとした。先の例では、「本当は成仏は難しいが、そうすると多くの人は修行しないので、誰でも成仏できるという教えを方便として説いたのだ」と整理するのである。実際にはもう少し複雑だが(=教相判釈の枠組みも必要)大雑把にいえばこういうことだ。

そして、顕密仏教では念仏を方便と見なしていた。親鸞が生きていた頃の顕密仏教では往生には莫大な作善が必要だと考えられ、また往生は難しいこととされていた。しかしそれでは多くの人が浄土を希求することはない。だから釈迦は方便として念仏の教えを説いたのだと考えたのである。これは自然な解釈である。ところが親鸞はこの見方に真っ向から反対した。親鸞は「釈迦在世中はそうであったかもしれないが、現在は末法の世であり念仏以外の仏法はもはや有効ではなく、むしろ末法では念仏こそ真実の教えなのだ」と考えた。そのうえ念仏の教えにも真と仮があると考え、阿弥陀四十八願のうち第18願を真実と見なした。親鸞は念仏の教えの内部にも権実の腑分けを行ったのである。

(1)教巻

教巻は非常に短い(3ページ)。「教え」については、親鸞に主張すべきことはあまりなかったということなのだろうか。世間一般に流布されていた教えは親鸞から見ても正しいものだったということなのかもしれない。なお、冒頭に「二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり(p.15)」とあるのは著名であるが、親鸞は最初から「還相(げんそう)」つまり往生したものが現世へ還ってきて人々を導くという考えを提示しており、これは『教行信証』全体を通じたテーマとなっている。

(2)行巻

当時、念仏は行(修行)ではないという風潮があったのだろうか。親鸞は「世間の人は~と言っているが本当は…」のような言い方をあまりしない。本巻でもどういう点が当時の社会常識であり、またどの点が親鸞の思想に基づくのかよくわからないのだが、論理展開を見る限り親鸞は「念仏は行であるに他ならない」ことを強く主張している。

ところで私は一部しか読んでいないが、明恵の『摧邪輪』は『教行信証』の成立の有力な契機の一つとされる。明恵は法然没後に『選択本願念仏集』を読み、それを『摧邪輪』で邪説として退けた。ここでの法然批判の中心は「念仏の教えには菩提心(さとりを求める心)がない」ということである。そもそも往生したいというのは、浄土という安楽な世界へ行って永遠の楽しみをむさぼりたいという自利の心である。そこには悟りを得たいという気持ちも、人々に功徳を廻向したいという利他の心もない。様々な仏教的実践の一つとして念仏があるならばよいが、念仏だけすればよいという専修念仏の場合はそうした大乗仏教的実践が何一つないことになる、というのが明恵の批判だったようである。これに対し、親鸞は反論してはおらず、そもそも『摧邪輪』の引用もない。しかし行巻には明恵に応えているようなところがある。

親鸞の主張は、「念仏による往生は、自らが安楽な世界に行きたいということではなく、往生することで悟りを得ることが究極の目的であるのだから、念仏は大乗仏教的な行に他ならない」ということである。もちろんこれは親鸞の独創ではなく、すでに中国浄土教の道綽『安楽集』に「もし人、菩提心の中に念仏三昧を行すれば、一切の煩悩、一切の諸障、ことごとくみな断滅す(p.36)」とある。また往生すればさとりを開けるという考えは源信・法然も持っていた。しかし彼らの場合、往生して阿弥陀仏に近侍することで次第にさとるという考えだったのが、親鸞では念仏をしたその時に正定聚(さとりを得ることが決まっている地位)につき、往生すると即時にさとりを得る(往生即成仏)と考えた。つまり往生と成仏に即応の関係を見、往生を願うこと=さとりを願うことである、と整理したのである。

さらには、往生を願うことそのものが、浄土へ往きたいという自らの意思によるものではなく、阿弥陀仏が人々を救うために名号(称名念仏)を選んだことによる帰結(回向)によるものであるとし、それ自体が仏の行であると考えた。「これ凡聖自力の行にあらず。(中略)みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし(p.53)」と親鸞はいう。この「念仏成仏」は善導の言葉で、普通は念仏は往生のためと思っているが、むしろ仏によって導かれ成仏する(さとりを得る)、というのが真宗なのである。

そして本章の最後には、阿弥陀の誓願(四十八願)についても、「真実の行信あり、また方便の行信あり(p.64)」として権実の枠組みがあることを簡単に触れている。ここでは真実の行の願を「諸仏称名の願=第17願」、真実の信の願を「至心信楽の願=第18願」であるとしており、それ以外を方便と仄めかしている。

さらに本章の末尾には「正信念仏偈」が置かれている。「正信偈」は、真宗では聖典として読誦されるものであるが、私はずっと「正信偈」は『教行信証』の内容を要約したものだと思っていた。ところが思った以上に「正信偈」は唐突に『教行信証』に挿入されており、内容的にも行巻との関連は薄い。「正信偈」では、まず阿弥陀如来に帰依することの素晴らしさを述べた後、七高僧(龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、法然)と呼ばれる中国浄土教からの系譜が讃嘆されるが、特に七高僧については行巻ではまとまった記述はない。どうして「正信偈」を行巻に挿入したのか、親鸞の意図はよくわからない。

(3)信巻

信巻の冒頭には特別に「序」が置かれている。これは信巻が独立して執筆され、後に『教行信証』に編入されたことを示唆しているのかもしれない。そうでなくても信巻には特別な位置づけがあるようである。

この「序」の冒頭、親鸞は「信楽(しんぎょう)を獲得することは如来選択の願心より発起す(p.71)」という。「信じよろこぶという境地に達することは、仏のはからいである」というのである。それなのに「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ふて金剛の真信に昏し(同)」と嘆いている。「定散」とは、浄土を観ずる「定善」と日常的な善行である「散善」を意味する。どちらも、浄土教において行うべき善行とされていたが、親鸞はこれを「自心」すなわち「自らの意思で行うもの」と軽んじ、阿弥陀仏の計らい(他力)である「金剛の真信」こそ重要だとする。しかし法然は『選択本願念仏集』で定散両門の意義を消極的ながらも認め、それによる往生を否定はしていない。ところが親鸞はこれを一歩進め、定散両門は「迷い」であるとしている。一般的には、自らの意思で行う善行の方がよいに決まっているが、親鸞はこれを顚倒させ、仏のはからいに任せる方が尊く、むしろ自らの意思などは低次元のものだとしている。

本文に入ると、特に信巻は難解に感じる。議論の要諦が私には見えてこない。そしてこのあたりから、親鸞独自の訓読が頻出するようになる。よく知られる通り、親鸞は経典論書の引用にあたり、無理としかいいようがない訓読を行った。原典の意味を自らの主張に引き寄せて引用したのであり、ある意味では改変に近い行為である。どのような引き寄せを行ったのかというと、大雑把に言えば「〜すべき」という文を「仏が我々に〜させている」とか「仏が〜した」と読み替えた。

ところで「信」の問題は、源信以降大きくクローズアップされている。源信は「行」とともに「信」が重要だと考え、『往生要集』では心の在り方が往生には重要であると(特に後半になるほど)力説している。『観無量寿経』でも、往生には①至誠心(しじょうしん)、②深心、③廻向発願心の3つを備えなければならないとされ、法然は『選択本願念仏集』で特に②を「深信の心」であるとし、「疑ひなく」「一心にただ仏語を信じ」ることが重要だと強調した。また③廻向発願心については、善根を積み重ね、それを「皆真実の深信の心の中に廻向して」往生を願うことだといい、有名な「二河白道の譬え」でも、周囲の人々の「そんな危険な道をゆくのはやめろ」という声に惑わされず進む(信じる)ことが重要だとしている。

しかし親鸞はこういった「信」の在り方を根底からひっくり返す。親鸞はこれまでの「信」をめぐる議論を表立っては否定せず(というより、親鸞は法然の教えを忠実に継承していると自認していた)、これまでの論説を確認するように引用している。「二河白道の譬え」は引用でなく親鸞独自の説明で述べ、法然の譬えをじっくり確認している。しかし、先述のとおりこのあたりでは引用の訓読が微妙に改変され、徐々に論述が親鸞の思想へカーブしていくような感覚がある。源信・法然の段階では、「行」はもちろん大事だがそれに「信」が伴うことが必要、という感じだったのが、親鸞は「信」のみに価値を置く。例えば「涅槃の真因はただ信心を以てす(p.84)」という。ただし親鸞の認識は「信」も「行」も阿弥陀仏から与えられたもので渾然一体ということのようである(このあたりがハッキリとは読み取れなかった)。そして一般的にいう「行」は「雑毒(p.88)」などと斥けられ、むしろ浄土には障りとなると言っている。

そして議論は「信」から「心」に移り、至誠心について「この心則ちこれ不可思議不可称不可説一切大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく(p.87)」という。この心は、私たちの心ではなく、阿弥陀仏の心なのである。我々凡夫の心についての議論がいつのまにか阿弥陀仏の心の話になっている。ちなみに親鸞は「欲生心成就(第18願の文)」を「至心廻向してかの国に生まれむと願ずれば…」ではなく、「至心廻向したまへり。かの国に生まれむと願ずれば…」と読み替える。元の文では「心を至す」のは衆生だが、親鸞では「心を至す」のは如来である。親鸞の場合、常に主体性は仏の方にある。

さらに親鸞は「回向利益他の真実心」について涅槃経を引用し、「(前略)真実と言ふは即ちこれ如来なり、如来は即ちこれ真実なり。真実は即ちこれ虚空なり、虚空は即ちこれ真実なり。真実は即ちこれ仏性なり、仏性は即ちこれ真実なり(p.87)」という。これは引用であるが、このトートロジー的な言説は親鸞らしい部分である。なお親鸞は、源信や法然のように理路整然と論述するのではなく、いわば同じところをぐるぐる回るように論述し、しかもいつも同じような場所にいきつくような感覚がある。その行き着くところの一つが涅槃経であるようだ。ここで「虚空」が入っているところも注目される。親鸞ならずとも当時の仏教思想の根本には「空」の思想がある。「信」にしろ「心」にしろ、あるいは浄土にしろ、究極は「空」であり「無為」であるということは本書全体に仄めかされている。

それはともかく、「至心・信楽・欲生、その言(ことば)、異なりといへども、その意(こころ)これ一つなり。(中略)真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく(p.94)」と述べ、急に「真実の信心は、必ず名号を具す」という。なぜ名号が伴うのか、別の箇所には名号の重要性が述べられるが、ここでは何の説明もない。法然は「名号は易行なるがゆえに庶民でも実践可能だから、如来はこれを選び取った(選択した)」と考え、その考えを親鸞も継承していたから説明が省略されているとも考えられるが、親鸞における名号の意味は法然とは大きく違っている。くり返しになるが、それは凡夫が自力で行う精一杯の行なのではなく、如来によって廻向された結果なのだ。

このように議論が中途半端になっているように見えるが、さらに話題は菩提心についてに移る。菩提心には「竪」と「横」があり、またそれぞれ「 竪超(じゅちょう)・竪出」、「横超(おうちょう)・横出」があるという。細かい議論は省くが、「竪」は顕密仏教による自力の菩提心で、「横出」とは定散両門など念仏の中でも自力の菩提心、そして「横超」が「これ乃ち願力廻向の信楽、これ願作仏心といふ。願作仏心即ちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり(p.95)」という。かみ砕いて言えば、「横超」は阿弥陀仏の廻向によって与えられたもので、それは「仏になるべく願う心」に他ならないから大菩提心なのだ、と親鸞は言う。しかしその論拠はちりばめられた引用からはいまいち明らかでない。しかし親鸞はこのあたりでは緻密に論証するのではなく、「十念」とは何か、「一念」とは何か、など補助的な議論を立て続けにしている。

結局、親鸞のいう「心」とは何なのかが問題だ。善導は観経疏で「この心作仏す。この心これ仏なり、この心の外に異仏ましまさず(p.100)」と述べるが、親鸞はこの言説を引用しながらも、その「心」を巡る言説は堂々巡りをしているような気がする。そして究極のところでは「ただこれ不可思議不可説不可称の信楽なり(p.95)」のように、「人智を超えたものだから議論はできない」と言っている。ただ、源信や法然に比べて、親鸞が「心」について考えに考え抜いていることだけは確かだ。ともかく「念仏の衆生は横超の金剛新を窮むるが故に、臨終の一念の夕べ、大般涅槃を超証す(p.107)」るのである。ちなみに源信は『往生要集』で「臨終の一念は百年の業に勝る」とし、臨終の作法を事細かに述べたが、親鸞は臨終についてはほとんど重視していない。念仏者の往生は臨終を待たずともすでに決まっていて、臨終はそれを「超証」するだけである。

こうした議論の後、親鸞は涅槃経の長大な引用を行う。阿闍世(あじゃせ)王の物語である。この物語の引用は、信巻全体の3分の1にも及ぶ。阿闍世王は、無実の父を殺したことで後悔に苦しみ、ひどい瘡(かさ)が出来てしまう。その苦しみに耐えかねる様子を見て、いろいろな人が訪れて阿闍世王に語りかける。最初は大臣、その次に家臣が次々と訪れる。彼らは、阿闍世王を責めるのではなく、「そんなことを気にする必要はない」と言う。さらに耆婆(ぎば)という当時のインドの名医も登場するが、彼は「悔悟の念を抱いているとは素晴らしい。あなたは教えられずして阿耨多羅三藐三菩提(さとりの心)を得ている」などという。さらには釈迦が登場し、そもそも全ては空であり実体はないのだから、殺人もまた非有であるなどといい、阿闍世は救われる。

この物語が挿入されたのは、悪人は救われるのかどうか、という問題への補助線なのだろう。しかしながらこの物語では、阿闍世王は確かに父を殺したが、彼は大変に後悔しており、その点を多くの人が認め、「そこまで苦しむのならもうあなたの罪は償われた」というような言い方をする。つまり阿闍世は完全な悪人とはいえない。だからこそ救われた。一方親鸞はこの物語を受け、「難化の三機、難治の三病(=五逆・謗法・闡提)は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀(こうあい)して治す(p.129)」という。阿闍世王の物語は、罪を犯しても懺悔・悔恨が重要だというメッセージだと思うが、親鸞は「阿弥陀仏にすがれば救われる」と繋げる。この繋がりがどうもしっくりこない。確かに阿闍世王は仏によって救われた。だが彼の中に救済が内在していたという感じが強いのである。

また、『大無量寿経』には、往生の対象として「唯除五逆誹謗正法(ただし五逆と誹謗正法を除く)」とあり、五逆や謗法は救済の対象から除かれている。しかし親鸞は経典を引きつつ、五逆(父殺し・母殺しなどの殺人罪等)は往生できると述べる一方で、誹謗正法は重罪であり往生は不可能だとする。かと思えば、「ただ如来それこの二つの過(とが)を造らむを恐れて、方便して止めて往生を得ずと言(のたま)へり。またこれに摂せざるにはあらざるなり(p.134)」といい、五逆・謗法を除くのは方便だという。親鸞は、五逆・謗法も救われてしかるべきだと考えているが、経典論書の引用では答えが出ていないようだ。一般的には五逆・謗法など往生できなくても仕方がないと考えられていたはずだが(なにしろ、普通の人にとっても往生は不確かだったのだから)、親鸞はここで全ての人を包摂しようと格闘しているように見える。

(4)証巻

冒頭、親鸞は真実の「証」について「これ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり(p.139)」という。これはすでに語られてきたとおり、浄土に至るということが「無上涅槃」すなわちさとりそのものであるという宣言である。そしてさとりを得た往生人は、還相回向して人々を救うのである。

ここで興味深いのは、還相回向とは一体どのような存在として人々の前に現れるのかということだ。我々は往生人を仏に準じる存在としてイメージしているが、親鸞の還相回向はそういうものではないらしい。親鸞は「もし人、ひとたび安楽浄土に生ずれば、後の時に三界に生まれて衆生を教化せむと願じて、浄土の命を捨てて願に随ふて生を得て、三界雑生の火の中に生まるといへども、無上菩提の種子、畢竟じて朽ちず(p.141)」という。つまり、還相回向といっても、仏のようになった往生人が蓮台に載って救いにやってくる、というより、浄土の命を捨て現世へ生まれ変わって、また人生をやり直すというイメージが近い。しかしそれでも無上菩提(さとり)の種は失われていない、という。この親鸞の考えは経典論書に基づかないもののようだが、極めて興味深い。

親鸞は形而上学的思考を好んでいるが、怪力乱心を語らない。超自然現象などを信じないのである。親鸞はあくまで現世的・即物的に見える。還相回向といっても、それは生まれ変わりという即物的現象に依拠している。こういった、ある意味では科学的な発想をした人は親鸞以前にはいなかったのではないだろうか。例えば曇鸞は『往生論註』で「還相とは(中略)生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かへしむるなり(p.143)」というが、具体的なイメージが不明だ。

親鸞は、往生したらどうなるのか、というイメージを追求していく。当時の人は往生すればきらびやかな世界にゆくと思っていた。現代でも「浄土に行けばその人にとって一番よかった時代の姿になれる」などという俗説がある。確かに死ぬ間際の弱った姿で浄土へ行ってもあまり楽しそうでない。ところがこういう安易なイメージを親鸞は採用しない。僧肇の「法身は像(かたち)なくして形を殊にす(p.148)」を引用し、「法身の世界」について考察する。その議論を約すれば、法身(さとりの身)は具体的な姿を持たない究極の真実だ、ということだ。であるから現世で法身を認識することは不可能で、あくまでも応身(仏が人々と救うためにその資質や能力に応じて現れた姿)しか認識はできない。往生人、すなわち無上菩提を得た人も同じで、この真実の世界に赴くために具体的な形象を持たないということになる。これを親鸞は「清浄法身(p.151)」といっている。

しかしながら、具体的な形象を持たないというと、全く人間のイメージから隔絶しているし、では我々が拝んでいる阿弥陀仏とか薬師如来とかいう仏像の意味は何なのだということになる。ここで親鸞は「諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。(中略)この二の法身は異にして分かつべからず(p.149)」という。つまり仏像の姿は「方便法身」であって、これも法身であるが、方便として姿を現したのだという。こういう理念操作が親鸞の面白いところである。

ここでは方便と真実が一体であるとしているものの、親鸞が真実をより重要視しているのは言うまでもない。浄土の有様もこれと全く同じである。道俗の人は浄土を安楽な世界だと思っているが、実はそうではないという。それどころか「ただかの国土の受楽無間なるを聞きて、楽のための故に生まれむと願ずるは、またまさに往生を得ざるべきなり(p.152)」と親鸞はいう。そもそも往生を願うことは如来の廻向、全くの他力によるのではなかったのか、と言いたくなるが、浄土の安楽に惹かれて往生を願うのではダメだと親鸞はにべもない。むしろ「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すが故に(同)」往生を願わなくてはならない。何か先の議論と違う感じがする。そして親鸞は「かの仏国は即ちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり(p.152)」と、浄土を「方便」と言い切る。

人々がイメージする、きらびやかな宝に満ちた安楽世界としての浄土は「方便」なのだ。真実の浄土は、一切の形象を持たない真実・真如・無為の世界である。後に親鸞は『正像末和讃』で「自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば うたがうつみのふかきゆえ 七宝の獄にぞいましむる」と詠んでいる。「七宝の獄」とは、七宝(七種類の宝)が満ちた牢獄なのであるが(後出)、そこは一般的には極楽とイメージする場所であろう。しかし親鸞にとっては、そこは人々が表面的な安楽を楽しむだけの低次元の場所であり、本当の救済ではないと考えている。

最後に曇鸞の『往生論註』を引用し、「五種の門(五果門)」が解説される。この五門とは、元来は自利と利他の因行によりさとりを得ることを5つの漸次的段階で述べたものだが、これを親鸞は他力によって往生した者の段階的な証しとして読み替えているようだ。この5つの詳細は割愛するが、最後の五門が「薗林遊戯地門(おんりんゆげちもん)」というもので、「応化身を示して、生死の薗、煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し、教化地に至る(p.157)」という還相回向の相である。このように、往生することは大涅槃へ至ることであり、そしてより高次には人々を救うという利他行に他ならないというのが親鸞の考えなのである。

(5)真仏土巻

真仏土巻では、先の証巻で簡単に触れた真実の浄土の様子が説明される。なお真仏土巻に入ると急に読みやすくなる。

冒頭、真仏土は「光の世界である」ことがこれでもかと縷述され、仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏壇過度人道経(←耳慣れない経典)を引用し「阿弥陀仏の光明は殊好なること、日月の明よりも勝れたること、百千億万倍なり(p.163)」という。ここは少し引っかかる。光のような形象については、「方便法身」ではないのかと思うのだ。それよりも「真の浄土は無である」と言われた方が先ほどの議論と整合して理解できる。そしてこの光明には人々を導く力があるのだという。続いて(同経の引用の続きで)「世間諸有の婬泆・瞋怒・愚痴のもの、阿弥陀仏の光明を見たてまつりて、善をなさざるはなきなり(p.164)」などという。これは引用とは言え、信巻や証巻での言説と全く違って面食らう。親鸞は阿弥陀仏の光明で善をなす、などという言説をいかにも拒否するように思うのだ。人々が善をなすのは阿弥陀仏の廻向なのだと親鸞ならいいそうだ。「光明」と「廻向」という表面的な違いであるが、この違いは大きい。ここでは思弁的思惟は影を潜め、なんだか俗説を真に受けている感じさえする。私の実感としては、真仏土巻は親鸞が最初に書いたもののような気がする。それで読みやすいのかもしれない。

このように始まったところで、また涅槃経(北本涅槃経)のそれなりの分量の引用がある。涅槃経は親鸞にとって非常に大事なもののようである。この引用の中で「涅槃の性は無苦無楽なり(p.167)」とか「涅槃の性、これ大寂静なり(同)」とかいい、やはり涅槃(さとり)の世界が無為であるという主張がなされる。「親鸞が戻ってきた」という感じがする。また涅槃経の引用に「衆生の根性に決定(けつじょう)あることなし(p.170)」という。これは、衆生には確たる性質(根性)がないから、さとりを得られるかどうか定まっていないという意味である。当たり前のことのようであるが、こういう人間観は親鸞の基盤にあると思われる。だからこそ阿弥陀仏の計らい・廻向が重要になってくるのである。この涅槃経引用部分によって、冒頭の俗説的な雰囲気が改められる。

しかし、その後は教・行・信・証巻の論旨を繰り返すような記述が続く。もし真仏土巻を最初に執筆したとすれば、ここは親鸞の思想の萌芽的な部分なのかもしれない。これに続く部分では、またしても阿弥陀仏が光明の仏であることが繰り返される。曇鸞『讃阿弥陀仏偈』では「法身の光輪、法界に遍じて、世の盲冥を照らす(p.178)」という。これは先ほどの仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏壇過度人道経と似てはいるが、阿弥陀仏の光がすでに世界に満ちている、としている点で思弁的であり親鸞的である。同偈は続いて「無対光」とか「歓喜光」「無称光」などといって阿弥陀仏の光を讃嘆し、「光によりて成仏したまふ(p.197)」という。これは先ほどの「阿弥陀仏の光明で善をなす」と似たような言説であるが、その光が世界に満ちているという前提ならば証巻までの思想と接続できる。

続いて、善導の『観経疏』に基づき、阿弥陀の浄土が「報」なのか「化」なのかと問題提起する。「報」とは「報土」の略で、「報土」とは「報身」のいる場所である。「報身」は「法身」と似ているが、願を立ててそれが成就したことで仏となった身、という意味である。しかしながらここでいう「報土」「報身」とは、真実の世界であることを企図しており、「化」すなわち「化身」「化土」とは方便の世界であると理解できる。さらに親鸞は「有仏無仏、諸法の性つねに空なり。性空なる、即ちこれ涅槃なり(p.182)」と述べて、こうした議論を「空」と接続する。その後、この浄土が「報法高妙にして小聖かなひ難し(p.182)」という。「報身・報土は非常に高く妙なるものなので、初地の位に至らない菩薩のような小聖は入ることができない」というのである。にもかかわらず凡夫がなぜ入れるのか。それを親鸞は「仏願に託するに由りて(同)」入れるのだといっている。

さらに善導の『法事讃』により「極楽は無為涅槃の界なり(p.183)」と引用し、浄土に至ることでさとりを得るという議論が再び続く、その後「無量光仏、無辺光仏、無碍光仏、…」と阿弥陀仏の「光」の異名を連ね、ほとんど唐突に「しかれば如来の真説、宗師の釈義、明かに知んぬ(p.184)」として「安楽仏国に到れば、即ち必ず仏性を顕はす。本願力の回向に由るが故に(同)」と結論づける。これは前半の議論の蒸し返しであるが、おそらくこちらの方が先に執筆されたのであろう。そして最後に、「また仏土について真あり仮あり。選択本願の正因に由りて、真仏土を成就せり(p.185)」として真仏土が光の世界であると同時に虚空の世界であると述べている。そして「仮の仏土とは…」として「方便化身・化土」があると述べて真仏土巻を終えている。

(6)化身土巻 

化身土巻は2つの部分に分かれている。親鸞の真筆ではどちらも同じ標題「顕浄土方便化身土門類 六」を持ち、のちに2番目の方に「六末」と記入されたために便宜的に「本」と「末」と区別しているが、ここでは見出しでは分けないこととする。

「本」では、『教行信証』の中でも最も親鸞らしい議論が展開される。それは、すでに述べたように阿弥陀四十八願にも権実(仮と真、方便と真実)の枠組みを適用して腑分けしていくというものである。その入り口はまず「懈慢界(けまんかい)」である。浄土にまでは到らない行者がいく仮の浄土「化身土」が「懈慢界」だ。これはもちろん親鸞の発案ではなく、中国浄土教から見られる。ここは一見すると浄土のようなきらびやかな世界なのであるが、真理というものが欠けている場所なのである。

ではどのようなものが浄土行きに不十分なのであろうか。それは浄土を願いながらも「疑惑して信ぜず。しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生まれむと願ぜむ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れ(p.191)」るのである。つまり阿弥陀仏の力を信じず、自力の修行を行って浄土を願うものがいくのが懈慢界である。ここは「七宝の牢獄(同)」とされる。宝が満ち溢れている場所で、そこで苦しむというものではないのだが、ただしそこでさとりを得るということがない。私の様な凡夫にとってみれば懈慢界の宮殿で十分であり、無為の世界である真仏土などはよくわからないのであまり行きたいと思わない。そしてこれは親鸞在世当時の人々にとっても似たようなものだったと思う。親鸞は先に「楽のための故に生まれむと願ずるは、またまさに往生を得ざるべきなり(p.152)」と釘を刺しているが、これは一般的には安楽を求めて往生を願う人が多かったことを示している。真の世界に行きたいというのはいわば宗教的天才のみではないだろうか。

そもそも懈慢界=化身土がなぜ構想されたのか。こういう誘惑的な方便の浄土を構想せずに、最初から無為虚空の浄土だけを設定する方が教えとしてはずっとわかりやすい。しかし化身土は必要なのである。なぜなら、『観無量寿経』では浄土の有様を観想念仏することを勧めているが、この経典に述べられる浄土の有様が財宝が溢れた場所なのである。真仏土は無為虚空のものであるのに、どうして財宝が溢れた場所を人々に説くのか、ということになる。この矛盾を解消するには権実によるしかない。親鸞は、『観無量寿経』で説かれた浄土の様子は方便であった、と整理するのである。冒頭に述べたとおり、親鸞は「末法では念仏こそ真実の教えだ」と考えたが、親鸞の思想の行き着くところ、念仏の教えも全てが真実とは見なせなくなったのである。実は浄土三部経と呼ばれる『阿弥陀経』『大無量寿経』『観無量寿経』の記述のかなりの部分が、親鸞の思想とは整合しない。親鸞はこれらの経典を権実の枠組みで整理する必要を感じたに違いない。

そこで「ここを以て三経の真実は選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、即ちこれもろもろの善根を修するを要とするなり(p.200)」ということになる。つまり、三経(三部経)の本体(真実)は「選択本願(第18願)」を中心としたものであって、それ以外は善根を勧めるための方便だ、というのである。これはかなり過激な主張ではないだろうか。さらに親鸞は、具体的にどこが方便なのかということを考察していく。その中心は「心」である。これもくり返しになるが、「行よりも信、心の在り方が大事」というのが親鸞までの思想家たちの到達点であったが、これが方便なのか真実なのか、それが問題になる。

ところで「心の在り方が大事」といえば、莫大な作善などと違い誰でも実践可能のように思うが、我々凡夫が心の在り方を自ら律していけるのかどうか、極めて頼りない。というか、心を十分に律していけるなら聖道門(修行によってさとりを得ようとするやり方)が実践可能である。末法の世では聖道門の実践は不可能だから浄土門(念仏)に頼る他ない、という理屈だったはずが、念仏には「心の在り方が大事」でこれが実践可能だとすれば聖道門も可能ということになり矛盾する。

さらに詳細は割愛するが、『大無量寿経』と『観無量寿経』では三心、『阿弥陀経』では一心とありどちらが真実なのかという問題提起がされ、種々考察がなされた後にこれらが同じ意味であることが解明される…のだが、私にはその理屈がよくわからない。ともかく心の議論を一通り行った後、「いま三経を按ずるに、みな以て金剛の真心を最要とせり。真心は即ちこれ大信心なり(p.204)」と述べ、経典に述べられる「心」は「金剛の真心」即ち阿弥陀如来から回向されて与えられた「大信心」であるから、人間の意志力によるものではないと結論付けられる。

そしてこのあたりは大変難解というか、議論が見えてこないところがある。様々な経典の内容を細かく方便に分類していくのだが、方便と真実が入り乱れてわけがわからない。ちなみに親鸞が方便・真実の弁別で重視したのは阿弥陀四十八願のうち以下の3つである。

第18願(念仏往生の願)
たとひわれ仏を得たらむに、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん、もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

第19願(至心発願の願)
たとひわれ仏を得たらむに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。 

第20願(至心廻向の願(植諸徳本の願))
たとひわれ仏を得たらむに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳本を植ゑて、心を至し回向して、わが国に生れむと欲わむ、果遂せずば正覚を取らじ。

このうちまず第20願について考察し、これが方便であるとする。名号を聞けば往生するのだから真実ではないかと思うが、親鸞は「信」の問題を取り上げて議論している。そして第19願についても「もろもろの功徳を修して」というところが問題なのだと思うが(例によってよくわからない)、そもそも自力の功徳があると思っている時点で思い上がりだ、というような態度が親鸞にはあり、これも方便とされている。結局、古来浄土教思想家が重視した上記3つの誓願のうち、真実は第18願のみであり残りは方便ということになる。全部で48ある誓願全てについては考察されていないが、親鸞の言い方は「第18願のみが真実」という雰囲気が濃厚だ。

では第19願や第20願を信じて善根を積んだ者はどうなるのか。これが「懈慢界」に行くわけなのである。彼らは「疑惑して信ぜず」だったわけではないのに浄土へ行けないのはおかしいと思えるが、親鸞の立場からはたとえ念仏(名号)を熱心に称えていても「おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号(名号)を以ておのれが善根とするが故に信を生ずることあたはず(p.214)」なのである。 念仏を善根と思っているようなやつには本当の「信」が生まれない、という。

阿闍世王の物語の部分で、私は「親鸞はここで全ての人を包摂しようと格闘している」と書いたが、このあたりでは逆に、往生できる人について厳しく弁別しようとする雰囲気がある。そもそも「化身土巻」は、浄土三部経という根本経典にすらメスを入れて真仮を弁別しようという巻であるが、救われる人についても「少しでも自力があればダメ」と切って捨てているようなところがある。しかし私にはなぜ親鸞がそのような峻厳な態度を取らざるを得なかったのか、本文の記述ではいまいちわからなかった。

そして親鸞は次に聖道門がこの末法の世では有効ではないということを熱弁する。法然においては末法の認識はそれほどでもなく、聖道門も滅尽するのは末法一万年の後だ、としていた。つまり法然の時点では聖道門も有効だったのである。ところが親鸞は「聖道の諸経は(中略)すでに時を失し、機に乖けるなり(p.215)」という。これが親鸞独自の認識なのか、親鸞の頃には社会的にこういう認識になっていたのかはわからない。ちなみに親鸞は「すでに以て末法に入りて六百八十三歳なり(p.217)」といっている。なおこのあたりの議論は極めて平明であり、思弁的ではない。

そして親鸞は「末法には、ただ名字の比丘のみあらむ。この名字を世の真宝とせむ(p.220)」という。「末法にはただ名ばかりの僧侶しかいないのだから、この名ばかりの僧侶を宝としよう」というのである。そして末法の世では、破戒とか無戒というのも意味はないのだから、「破戒・無戒ことごとくこれ真宝なり(p.221)」という。何か開き直りという感じがしないでもない。よく知られる通り親鸞は「非僧非俗」を標榜し(これは権力者から僧としての立場を剥奪されたために言ったことで、自らの意思で非僧になったのではないが)、堂々と妻帯した。末法であるためにそもそも戒は無意味になる、というのがその思想的根拠だったかのようにこの部分は読める。

ちなみにこの末法の考察によって「本」は終わっているが、ここはあたかも全体が終わったかのような雰囲気がある。

「末」では、「天神に帰依せざれ(p.226)」という議論が全体を通じてなされる。 この部分は私はそれほど興味を持っていないので率直にいうと斜め読みした。

いうまでもなく、仏典にも様々な鬼神が登場する。あるいは仏法を護持し、あるいは仏法を誹ったり修行者を邪魔したりする。そんな中で悪鬼神を崇拝するなというのは当たり前のことだが、では仏法を護持する存在をどう捉えるか。親鸞は大方等大集経巻六月蔵分「諸天王護持品」を引用し、大梵天王をはじめ様々な存在が世界を護持していたことを述べる。となればこうした神々を崇拝してもよさそうなものだが、そうした世界は「漸次に劫尽き、もろもろの天人尽き(p.236)」ていった。そして悪世の世になっていき、ついに釈迦が生まれて仏教の教えを説いた。大梵天王らはその教えに靡き、仏教に従うようになったのだという。つまり、今の世ではわざわざ世界を護持する神々を崇めなくても、神々が仏法に従っているのだから仏法さえ尊べばよいではないか、というロジックである。

しかも世は末法である。首楞厳経では「わが滅度ののち末法の中に、この魔民おほからむ、この鬼神おほからむ、この妖邪おほからむ(p.244)」といい、人々を惑わす鬼神が多いとしている。だからこそ多くの経典では「邪神・外道に帰依せざれ(p.245)」(地蔵十輪経の引用)など、鬼神を祀らないように誡めている。明解に言っているわけではないが親鸞は「鬼神に帰依しても救われることはない」といいたいようである。

ところで、親鸞当時の神祇と仏法の関係は本地垂迹説によって連結されていた。にもかかわらず、本巻には本地垂迹説が全く登場していない。例えば、人々は八幡神を阿弥陀仏だと見なして祈りを捧げていた。こういう場合はどうなのか。親鸞は意図的に本地垂迹説を無視していると私は思う。それは、基本的に「文類」すなわち引用が中心の本書のスタイルにおいて、十分にテキストが揃わなかったという事情もありそうだが、私の実感としては「本地垂迹説に深入りしたくなかったのでは」という気がする。本地垂迹説は仏典とは全く違う体系の理論であり、その融通無碍さによって親鸞の思想は容易に熔解してしまう気がする。そもそも、本地垂迹説は権実の枠組みを基盤としている。仏の世界を真実としつつも、真実は凡夫には理解しがたいので(和光同塵=その光を和らげて)、神として垂迹して人々を救う、というのが本地垂迹説の基本的構造である。こうして現れた神としての仏を「権現(ごんげん)」といい、それは「権(仮)に現れた」という「方便」の姿である。このロジックは、念仏の教えすらも方便と見なす親鸞の理論とバッティングする。二重三重に「方便」を重ねることになり、一応思弁的に理論を構築はできても屁理屈的になるような気がする。こうしたことから親鸞は本地垂迹説を意図的に無視したのだと思う。

続いて親鸞は老子と孔子を取り上げる。意外なことに親鸞は仏教の方が遥かに優れている、とは言い切らないのだが、儒仏を対比する数々の言説を引用し、徐々に仏教の優位性を仄めかしている。そして最後に論語を引用し、孔子の言「人いづくんぞよく鬼神に事へむや(p.257)」で論考を閉じている。

最後に、標題はないが後書きの部分がある。「聖道の諸教は行証ひさしく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛りなり(p.257)」から始まり、ここからは法然一門が興福寺(とそれに応じた院権力)から弾圧されたことの怒りがほとばしっている。『教行信証』の中で親鸞の個人的な体験が激情をもって書かれているのはここだけである。最後から2つの引用を紹介しておこう。最後から2番目が道綽『安楽集』から「(前略)前に生まれむ者は後を導き、後に生まれむ者は前を訪(とぶら)へ(後略)(p.259)」という有名な一文。そして最後が華厳経「もし菩薩、種種の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすことありとも、菩薩みな摂取せむ(同)」。道綽『安楽集』は理解できるが、なぜ最後が華厳経の偈なのか。これはしっくりこなかった。しかもここでは「種種の行を修行する」とか「善・不善の心を起こすことありとも」といった、親鸞が超克してきたものが述べられている。主語が「菩薩」なのもよく分からない。これまでさんざん凡夫と如来の関係について述べてきて、なぜ「菩薩」の修行について述べるのか。そして種々の行は捨てて本願のみに帰依し、如来の回向による信にまかせよ、というのが『教行信証』の要諦ではなかったのか。

敢えて解釈すれば、この菩薩は法蔵菩薩(阿弥陀如来がまださとりを得る前の名前)なのではないか。もちろん華厳経の原文では法蔵菩薩について述べているわけではないだろうが、親鸞がここに法蔵菩薩を重ねたとしたらどうか。阿弥陀の四十八願はこの法蔵菩薩の時の誓いであるから、この偈は「法蔵菩薩が、真実と方便が入り交じった一見不審にも思える誓願を立てるという修行をしているのを見て、世間の人はよくわからないと思う心を起こすかもしれないが、法蔵菩薩=阿弥陀仏はそれもみな認め包摂してくれるのである」ということを含意しているのかもしれない。だとしたら私も包摂された一人である。

*****

私は『教行信証』を読んで、親鸞の思想について語る本が汗牛充棟をなす理由がわかった。法然の思想について語る本はほとんどいないのに、人は親鸞については熱く語る。第1の理由は、親鸞の思弁的思考は解明しがいがある、ということだ。源信や法然の思想は、分かりやすいが、まさにそのために考究するしがいがないのかもしれない。一方、親鸞の思想ははっきり言ってわからない。わからないから考究したくなる。第2の理由は、親鸞自身、その思想が揺れ動いているということである。『教行信証』は、場所によってかなり雰囲気が違う。そして親鸞の言っていることも微妙に違う。一貫した著作というよりは、論文集的といってもいい。そこから親鸞の思想を抽出する作業はそれだけで面白そうだ。

しかしながら、真宗教義について専門的に学ぶ必要がない私にとって、親鸞の思想に付き合うことはかなり面倒なことでもあった。『教行信証』は、私の読んできた本の中でも五指に入る読みづらい本だ。冒頭に5%しかわからなかったと書いたのは誇張ではない。今少し読み直してみると、特に最初に読んだ部分については2回目の読書でかなり違った理解が得られるような気がするが、正直なところもう読み直す気は起こらない。このメモにもずいぶん見当外れなことが書いていると思うがご寛恕願いたい。

ところで、「5%しかわからなかった」身としては僭越だが、親鸞の思想には矛盾があると思った。縷々述べた通り、親鸞は「自力があっては真の浄土へはいけない」と強調する。『教行信証』は教え諭すような著作ではないから、「だから自力を捨てよ」という言説は意外に見られないが、「自力から離れて他力へまかせよ」という論旨であることは明らかだ。しかし人はどうやって他力へ移行できるのだろう。これが「自力の限界をさとって、主体的に他力を選ぶ」ということなら、「自力(自らの意志力)によって他力へ移行する」ということに他ならない。他力に向かうためには自力が必要だということになると矛盾している。そもそもそれができるなら聖道門が実践可能ということになってしまう。

『歎異抄』で親鸞は、悪人は他力を頼むほかないから往生できる、「自力の善人」は善行を積むという自力から離れがたいから往生から遠い、という主張をしているが、「自力の善人」がどうやって自力から離れられるかという議論はやはりない。「衆生の根性に決定(けつじょう)あることなし(p.170)」という前提から考えると、我々凡夫は他力にしろ自力にしろ自ら主体的に選べるようなものではないと考えるのが自然だ。とすると、「自力の善人」にとって救われる道はないのではないか。といっても、懈慢界も方便とはいえ浄土には違いなく、阿弥陀仏が救わないというのではない。しかし経典には阿弥陀仏は(五逆・謗法は除き)全ての人を救うとあるのに、親鸞はそこに自力・他力の区別を持ち込んで真の救済を限定的なものにしているのは間違いない。親鸞は阿弥陀仏の広大な慈悲・回向の力を強調しながら、その力に与れるのは一部の人だけだという結論に達している。阿弥陀仏の力を信じ切れていなかったのは親鸞その人なのではないか。

その点、阿弥陀仏は帰依する人々を「信・不信をえらばず」全て救う、と考えた一遍の方がよほど論理的に一貫している。『教行信証』は形而上学的な思弁の果てに、自力と他力、方便と真実のどんづまりへと行き着いているようにも見える。

もっとも『教行信証』は親鸞の到達点ではなくむしろ出発点的な著作である。晩年、親鸞は多くの和讃をつくり、人々を教え導き、その中で思想が円熟して「自然法爾(ほうに)」という境地へ辿り着いた。私はまだ「自然法爾」がいまいちわからないが、上述の矛盾点が解消されている可能性は高い。

ただ、こうした疑問があるにしても、今は『教行信証』を読めてよかった、というのがありのままの感想である。日本の思想史における高峰の一つであることは間違いない。

形而上学的に往生を理論化した浄土教思想の高峰。

【関連書籍の読書メモ】
『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。

『選択本願念仏集』法然 著・大橋 俊雄 校注 
https://www.shokeishuyu.com/2025/02/blog-post_24.html
法然の主著。専修念仏教団を生み出した、念仏至上主義の書。

『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著
https://www.shokeishuyu.com/2024/01/blog-post.html
厳密な史料批判に基づいた親鸞の生涯。歴史学における親鸞研究の到達点。 

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2026年8月10日月曜日

『日本古代の国家と仏教』井上 光貞 著

古代から鎌倉時代までの仏教を概観する本。

私が本書に興味を持ったのは、平雅行氏の『日本中世の社会と仏教』がきっかけである。そこでは、本書と『日本浄土教成立の研究』(井上光貞氏が本書の前に書いた本)が検討の俎上に載せられて批判された。批判の要点としては、第1に平安浄土教と法然との思想的違いを明確にできていない、第2に平安浄土教への理解が足りない、第3に浄土教の発展を中下級貴族の没落と関係させて述べた、などである。

【参考】『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著
https://www.shokeishuyu.com/2025/01/blog-post_19.html

本書は1971年の刊行であり、50年以上も前の本であるから(『日本中世の社会と仏教』刊行の時点でも)内容が古くなっていることは当然だが、あえて批判の対象となるということはそれが強力なドグマとして受け取られていたことを意味する。そんなわけで特に平安浄土教についてどう説明されているか気になって本書を手に取った。

本書は3部構成で「前篇 律令国家と仏教」「中篇 王朝国家と仏教」「後篇 鎌倉仏教と国家」となっているが、私の関心は中篇にあるので、前篇と後篇は簡略なメモとする。

「前篇 律令国家と仏教」では、古代国家における仏教の様相が語られる。

本書は「国家と仏教」という大きなテーマを掲げるが、著者は意外と概説はせず、象徴的な事例を選んで詳説するというスタイルをとっている。

本篇第1章では、十七条憲法と三経義疏が紐解かれる。特に三経義疏については類書に比べかなり詳しい。

第2章では中国・朝鮮の仏教が俗権の支配下にあったことを述べ、続いて古代日本の律令制でも同様に国家が仏教機構を統制していた(僧綱制)と指摘する。しかし「唐では国家権力が直接教界を統制する形態にまで進んでいたが、日本は国家権力が、教界の代表者を通じて統制する形態を学んだ(p.39)」。また国家は豪族が設立した氏寺を一定の基準で官寺化し(食封有る寺、定額寺)、また私寺の存在を否認した。続いて僧尼令の体系について詳しく述べ、また国分寺の整備について詳しく検討している。

第3章では行基と鑑真について述べる。著者は大仏については簡単に済ませ、むしろ行基が各種の社会事業を行って民衆に受け入れられたということを重視している。道鏡についても簡略である。「国家と仏教」という視点からは、大仏建立や道鏡政治の方が重要に思われるが、著者がなぜここを簡略に済ませたのが詳らかでない。

第4章では、まず光仁・桓武朝において仏教の統制が強化され年分度試制が創始されたことを述べ、次いで最澄の改革を取り上げている。ここで著者は最澄の「一切皆成・法華一乗」の主張について「一切衆生の平等を主張しつづけたことは仏教の歴史上重要な意味をもつ(p.98)」としている。また最澄の戒壇設立運動にも詳しく触れる。第3章で鑑真について取り上げたのも戒壇・戒律に関係があるからのようだ。空海については『三教指帰』、『秘密曼荼羅十住心論』とその要点を記した『秘蔵宝鑰』、『性霊集』などが詳しく紹介され、空海の思想は自らの完成を目指すものであるものであると同時に世俗道徳と妥協(恩の強調など)したものであることが指摘されている。著者は「空海の視座の高さは日本古代を通じて第一級(p.124)」としつつも「しかしそのあまりにも現実的な思考には、最澄にみられるような批判的精神が欠けていた(同)」と評価している。

「中篇 王朝国家と仏教」では、摂関・院政期における仏教の動向について述べる。

第1章では天台浄土教と貴族社会について述べるが、その冒頭で律令時代にも阿弥陀仏像や阿弥陀堂が造られたことについて「そのほとんどは自己の魂の救済のためのものではなく、死せる親族等の追善のためのものであった(p.133)」とあり疑問を持った。それらが追善のためのものであったのか、これは別に確かめてみたい。

さて、著者はまず天台浄土教の発達について確認する。天台浄土教は智顗の説が基盤となり、最澄が六祖堪然以降の天台宗を移植し、さらに円仁が五大山念仏三昧を唐から伝えたことで発展した。ちなみに円仁の遺命によって始まった不断念仏は8月の11日から8日間行う年中行事的儀式である。そして天台浄土教は文人貴族に受け入れられていった。

さらに著者は空也を詳しく取り上げ「空也の念仏勧進は、民間浄土教の発達上画期的なもの(p.142)」と評価している。ただし空也の念仏は民衆には大きな影響を与えたが、「空也の念仏は、叡山の学僧や文人貴族の天台浄土教のそれとは著しくちがって(p.140)」いた。それでも天暦時代には貴賤の広い支持を得た。

一方、空也の活躍と同時期、良源は藤原師輔の護持僧になって、横川楞厳院に法華三昧堂が草創された。浄土教は摂関家に受容されたことで非常に隆盛する。そして良源門下には多数の学僧が輩出された。良源が師輔の子の尋禅を引き立て、結果として良源没後に天台座主となったことは異例な人事であったため、叡山の門閥化に道を開き、またそれに対する反発が起こった。結果として叡山は山門と寺門に分裂することになった。

次に千観と慶滋保胤が取り上げられる。千観は天台僧で、後に空也の教えにより遁世したとされる。応和2年(962)の『十願発心記』の他、千観には数多くの著作があり、しかも彼は教団を組織して厳しい禁欲生活をしていたようである。また彼は「文献的にたしかめられる最初の和讃(p.149)」である阿弥陀和讃をつくっており、、浄土教の大衆化も示している。空也に次ぐ浄土教実践の先駆者と言えよう。一方、慶滋保胤は「観学会」という結社をつくっているが、これは3月・9月の15日に法華経を講ずるのを聞き、経中の一句を題として詩を作り歌を詠じ、あわせて阿弥陀仏の名号を称えるものであったらしい。千観と比較すると保胤の実践は文人貴族的だが、保胤はまた「権門勢家の造寺造塔のむなしさを鋭く批判(p.151)」もしている。彼は後に出家して観学会は解散されたが、時を同じくして比叡山横川に二十五三昧会が結成されている。これにも保胤は関与した。著者は千観と慶滋保胤に共通して「教団の世俗化・貴族社会の門閥化に対するはげしい批判的精神(p.153)」があるとしているが、どちらかというと「空也ー千観」の民衆的浄土教と「良源ー慶滋保胤」の貴族的浄土教という2つの系譜として理解しうるように感じた。

さらに著者が「名利の外に魂の自由と一切衆生の救済を求める精神運動(p.153)」のピークと位置づけるのが良源の弟子である源信とその著書『往生要集』である。『往生要集』は後世へ大きな影響を与えた著作である。著者は『往生要集』の内容を詳しく紹介し、源信が菩提心を強調していることを指摘している。単に往生を願うばかりでなく菩提心が重要と言っているのは、後年、明恵が法然の『選択本願念仏集』に対して菩提心が閑却されていると激しく批判した(→『摧邪輪』)のを想起すると興味深い。

源信は『往生要集』執筆後先述の二十五三昧会に加入したが、社会的活動を停止したわけではなく、むしろ旺盛に著述を行い、また宋の仏教界との交流によって疑問点を解消しようと試みるなど意欲的に活動した。彼は名利への関心を持たなかったが貴族からの名望は高まり、特に藤原道長は源信を慕っていた。また源信は遁世後に「霊山釈迦講」という結社を別に作っておりこれが興味深い。これは釈迦像を本尊に、毎朝釈迦を供養し、また毎月晦日、法華経を講じる講でその講衆は600人もいたそうだが、「源信の晩年にはじめた講が、阿弥陀講ではなくて釈迦講である(p.165)」のは何を意味するのであろうか。本尊が釈迦仏であり法華経を中心とした信仰であったことは、原点回帰的なものがあるのかもしれない。著者は二十五三昧会がごく限られた人のためのサークルであったのに対し、霊山釈迦講は「上は貴顕から下は在地人を包含する(p.167)」人々に開かれた(=実践可能な)ものであったという点を重視している。

摂関期には貴族が出家し、また浄土教の実践を行うことが広まった。花山天皇も出家し、二十五三昧会に結縁している。そしてこの時代に特に盛んになったのが阿弥陀堂の建立である。摂関・院政期には寺院・堂舎の建立が非常に盛んになったが、著者は特に阿弥陀堂に注目してその建立を表にまとめている。特徴的なことは、摂関期においてはそのほとんどで丈六阿弥陀像が、院政期になると九体丈六阿弥陀像が祀られていることである。かなり巨大な阿弥陀像を建立するのが普通になっていたのである。そのピークは12世紀前半の白河・鳥羽院政期である。ところで著者はこれらの「阿弥陀堂には死者の追善のために造られ、周忌の法会を営むことを本体とするものも少くな(p.182)」いと述べるがこれは本当か。院政期の周忌は3回忌までが普通であったと思われるが、3年のために堂舎を建立するとは思えない。一体貴族たちは何のために阿弥陀堂が必要だと思っていたのだろう。著者は「無常の現世に極楽浄土の幻想を享受しようとする頽廃的な心理にねざすものであろう(p.184)」というが、わかったようなわからないような説明である。しかし奥州藤原氏の藤原清衡が建立した平泉中尊寺金色堂は、確かに須弥壇下に清衡の遺骸が納められているので追善の目的があったのは確かであろう。

一方、叡山の方では「有力山門僧の出自をみても、ほとんどが受領層以上の子弟、座主の半数は摂政・大臣家の出自というように著しい門閥化を示し(p.185)」、教団の門閥化が進んだことで学問・故実の秘伝下が進んでいった。その趨勢の中で本覚思想を基調とする中古天台が発達した。そして「院政期には一般に天台教団の学問が衰微したので、浄土教上見るべき著作も、天台にはほとんどみられなくなった(p.188)」。その例外として真源の「自行念仏問答」と皇覚の「枕雙紙」(ともに伝源信撰)が取り上げられるが、著者は「千観・源信時代のそれのようなリゴリズム(厳格主義)がみられなくなっている(p.189)」とし、「この時期の仏教史の真の担い手(同)」を地方民間布教僧ではないかと問題提起するのである。

第2章では、説話集を題材に平安期の民間仏教が詳説される。平安時代になると、度牒制など律令時代にあった民間仏教を抑制する種々の規制がなくなり、「既成教団から独立した民間布教者の活動が自由になってきた(p.195)」ため、民間布教者の聖・上人の活動が活発になった。その様相を説話集により窺うことが本章の目的である。

『日本霊異記』の著者の景戒は薬師寺沙門とはいいつつも妻子がおり貧しい生活を送っていた人と思われ、彼は「官寺の大僧よりも慈悲にあふれた私度沙弥の乞食業に強い同情をいだい(p.198)」ており、教団と一定の距離があったことが窺える。またそこには「たとえ悪果を得ても近親・縁者の功徳によって容易に悪報を解除される話(p.200)」が多い。また地獄や閻魔の話も多く、そこには唐の『冥報記』と『金剛般若経集験記』の影響が看取される。

さらに著者は『日本霊異記』において現れる、沙門・沙弥・優婆塞などの非公式な(国家に僧侶として扱われない)僧侶の呼称を検討し、それらの呼称が本来の意味(=私度、在家信者など)を越えて使われだしていることを示すと同時に、民間仏教者を類別する心象があったことを指摘している。

『日本霊異記』に見える在家信者は、「貴族が少くて、大部分が郡司や富豪、及び公民である(p.205)」。これは、律令時代には在地の郡司層が仏教受容に重要な役割を果たしたことを示唆している。また最も多く見られる経典は法華経である。

次に検討されるのは往生伝と験記である。中国では、「金剛般若経・法華経・華厳経など特定の経典ごとに編まれた説話集(p.209)」があり、『法華験記』もその系譜に位置付けられる。『法華験記』では『日本霊異記』と同様に前世に悪業を犯したものが法華経の功徳で今生には持経者になるなどの話が実に多いが、『霊異記』とは違ってそこには「原罪的な罪業感が濃厚であって(p.211)」、法華経によっても簡単に罪障を消滅させられはしないという暗さがある。よって『法華験記』には苦行者が多く登場し、「経典の読誦・書写によってただちに賊難・水難を免がれることのできる楽天的な霊異記とは全く性格を異に(同)」している。

ここでも著者は僧侶の呼称について着目し、「聖・上人・仙」の用語が「沙門」とともに普通に使われるようになったことを指摘する。しかしその意味は沙門と同じではない。院政期には何々聖と呼ばれるものが非常に多くなるが、正式な僧侶ではない、という否定的な含意があった沙門とは違い、むしろ「聖・上人」は高く評価されるようになったと思われ、また「聖・上人たちが、一つの宗教的社会層として形成されてきたことを示(p.215)」している。また聖と上人の違いについては、「阿弥陀聖・小田原聖などと固有名詞的によばれたものには山林修行、苦行、遊行、入水、焼身など、異常な宗教的霊力や行為を示す行者が多いのに対して、上人には都市や農村に定着し、隠棲して自利の業を積み、又は説法などによって人々の尊崇を集めたものが多い(p.215)」と指摘している。そして『法華験記』の世界は、「上人的ではなくて聖的(p.216)」である。『法華験記』の説話には山岳を舞台とするものが多く、先述の通り苦行的な持経者が多い。また『法華験記』には在地武士層が数多く登場し、例えば合戦で矢が当たらない、観音が身代わりになり傷を負わなかったなど、現世的な利益を目的とした「在地武士層の仏教——ここでは法華信仰——の原初的な状態を示している(p.219)」と考えられる。

次に『今昔物語集』から特に地蔵信仰が検討される。『今昔物語集』には、地蔵菩薩が地獄に救済者として現れ、弁護人として訴えてくれる、という説話が散見される。地獄から救い出された後には阿弥陀如来に頼るという筋も多い。それらの説話には貴族性が希薄で、郎等武士が登場することが多い。そして南都北嶺の寺院はほとんどなく、庶民の集う寺が目立っている。「地蔵信仰がとりわけ下層の身分に厚い(p.226)」のである。ちなみに『今昔物語集』には様々な仏教説話が含まれているが、なぜ地蔵説話のみを取り上げたのか著者は説明していない。

次に院政期の往生伝が取り上げられる。院政期には大江匡房『続本朝往生伝』、三善為康『拾遺往生伝』・『後拾遺往生伝』、沙弥蓮禅『三外往生記』、藤原宗友『本朝新修往生伝』などが相次いで書かれた。これらは全て文人貴族の作であり、『今昔』などの説話集と違う性格がある。それは説話集では「地獄の責苦や冥官の裁判、人が畜生に転生する話など、いわば民間信仰的な色彩の濃厚な輪廻転生思想がひろくみられたのであるが、一般に往生伝では、この種の話が稀薄(p.229)」であって、例えば『法華験記』の覚念伝では虫であった前世で法華経文も一部を食い破ったことが宿業となっているという話が主となっているのに、為康はこの話を『拾遺往生伝』に取り上げながらその部分を全く削っている。「教養ある知識人としての筆者はそれに興味をもてなかったからであろう(同)」 。地獄や六道輪廻に対する恐怖から往生を希求したわけではないようだ。為康はそれよりも念仏によって往生ができるかどうかということに関心を注いでいた。それは「日々に念仏や読誦を重ね、厳しい精進を自己に課しながらも、不往生の不安から脱却できなかったためであろう(p.231)」と著者はいう。

そして往生伝には下級の僧侶はあまり登場せず、顕密の大寺院、特に叡山が中心となっている。ただし大寺院に属しながら本寺を離れて別所に移り、そこで行いをする別所上人が登場して人々から崇められており、「浄土教の発達は本寺よりもむしろ別所に移った観を呈して(p.235)」いる。また院政期往生伝ではより下級の僧侶が多くなっており、また地方在住のものも多く見出され、東北・北関東・中国地方西部を除いて全国に及んでいる。つまり浄土教は院政期には全国に広まっていた。鎌倉仏教が浄土教を広めたのではなく、「あらかじめ日本の各地に、主として天台宗の浄土信仰が諸信仰と混同した形で広まっていた(p.239)」のである。なお在家信者も貴族社会がメインではあるが中流貴族および下級官人が登場してきている。

第3章では、別所念仏について述べている。院政期には別所が64箇所あったことが確認される。叡山の別所の大原、高野山の別所、天王寺の念仏別所などである。大原は摂関期から確認できるがその歴史を劃したのは良忍で、彼は手足の指を切燃して仏経を供養したことでも知られる念仏上人である。良忍の伝記的事実ははっきりとはわからないが、融通念仏を教導したとされている。融通念仏とはそれぞれが称える念仏が互いに融通し合って往生の機縁となるという念仏の捉え方である。

高野山は、正暦5年(994)に諸伽藍がほとんど全焼してから衰微していたが、様々な努力を経て、中興の祖明算の頃からは大寺院としての風格を取り戻した。どうやらこの復興の過程で、聖・上人僧がかなり高野山に入ったらしい。この別所聖人が高野山でかなりの勢力となり、真言宗の僧侶と並んで高野山を構成する要素になったようである。覚鑁はれっきとしたエリート僧であったが、なぜかこうした念仏上人の阿波上人青蓮の下に身を寄せた。そしてやがて高野山の改革を目指し、挫折して紀伊根来に逃れるのである。ともかく高野山の別所聖人は浄土教の一つの中心となっていたようである。

次に天王寺念仏宗が取り上げられる。「天王寺の西大門は極楽の東門であるとする信仰が発生し、伽藍の西方外側の地域が浄土教霊跡とされ、願生者が巡歴・集合するようになり、あわせて天王寺そのものも、貴賤の参詣を得て盛大となった(p.259)」。特に白河院政期の永暹上人は注目される。彼は出雲鰐淵寺から出て、「大仏事を修すること六度、そのたびごとに足指を切って燃燈供養し(中略)百万遍念仏を修すること数を知らず(p.260)」という苦行者で、多くの人に念仏を勧めた。また鳥羽院政期の出雲上人は京の貴賤の熱狂的な信仰を得て百万遍念仏の大規模な念仏衆を組織していた。これは衆徒が毎年一度ずつ入れ替わり立ち替わり昼夜不断に念仏を続けたもので、法皇や女院もこの念仏衆の一員であった。彼の念仏は「勇猛之念仏」で少し妖しいところがあったらしく、藤原頼長は「其の説、正直に非ず、怪となすに足る」(台記)と冷ややかである。しかし彼は組織者としては一流で、その40年後にも念仏衆は続いており、後白河法皇は天王寺に参詣して念仏三昧院に泊まり百万遍念仏に参籠している。栄西は『興禅護国論』で「念仏宗は先皇勅して天王寺に置く、今の尊卑の念仏はこれ其の余党なり」と述べている。天王寺の別時念仏は「「念仏宗」といわれるほどの大きな組織を京都・近郊の願生者の間につくりだした(p.263)」が、残念なことに「すぐれた教説と伝統を生みださなかった(同)」。

本章の動向を私なりにまとめると、天台浄土教には「円仁ー良源ー源信ー往生伝」の貴族的浄土教が京畿周辺に興隆した一方、地方や庶民世界には「空也ー千観ー説話文学ー良忍(融通念仏宗)ー天王寺念仏宗」の民間的浄土教が広まり、それが次第に重なって鎌倉仏教につながっていった、という図式となる(後述)。 

「後篇 鎌倉仏教と国家」では、鎌倉仏教の動向を専修念仏と日蓮を中心に述べている。

第1章ではまず法然と『選択本願念仏集』について述べ、それが『往生要集』の引用していない善導の観経疏の文を発見して専修称名の確信を得たものであったとしている。法然は武士からの帰依を受けたが鎌倉幕府からは弾圧された。ただし法然を強く批判した興福寺に対して、朝廷は法然に対しては同情的であった。なお法然は伽藍は否認し居所を草庵と読んだが、縦の師弟関係は重んじたのが後の親鸞と違う。

ところで、法然の門下から出た幸西はいわゆる一念義を説いた。阿弥陀仏の名を称え、その願力の謂れを聞いて領解するのを一念といい、この一念領解の心の起こるとき往生は決定するという考えである。これは十悪・五逆も障りないとされ、造悪無碍に陥りやすかった。

次に親鸞ついて述べ、『教行信証』について検討を加えている。これを「選択集と比べる時、最も中枢的な特色は、真宗教学でもいっているように、回向の観念の転換(p.301)」であろうとし、念仏は自ら行うものでなく、阿弥陀仏の回向によって可能になるものというのが独自の教説であった。また親鸞は「往相回向ノ心行ヲウレバ、則ノ時ニ、大乗正定聚ノ数ニイルナリ」(教行信証化身土巻)というように、即得往生、すなわち現世において死後に必ず成仏する位に定まると強調しているが、これは中古天台の本覚法門の影響があるようである。親鸞の教えは武士、さらには農民など一段と下層の人々に親近的であり、またその教えは法然のような説教調ではなく「自分もともに悩めるものとして語りかけている調子(p.312)」がある。しかしながら親鸞の教えは念仏以外を認めないものであり、当時の常識であった神仏習合を否定して神祇不拝を伴ったために種々の軋轢を生んだ。

第2章では日蓮と一遍が取り上げられる。日蓮は国家に対して諫暁を行って弾圧された。しかし日蓮は迫害をうけることによって我が身の正しさを確認している。さらに日蓮は法然を激しく批判したが、「禅宗は天魔波旬の説」「大小の戒律は世間誑惑の法」といって禅・律も非難している。とにかく批判・非難のエネルギーはすごい。しかし意外にも日蓮は儒教道徳・封建道徳は大事にしており、その門弟・檀越を「一門」の語で表している。日蓮は家庭道徳を強調しており、「法華信仰と祖先や父母への報恩は一体のものであると考え(p.350)」ていた。「日蓮の理想は、家族・親類・縁者がみな法華経の信者となり、かれらの上にたつ主君もまた信者たるような世界であった(p.353)」。

また論述の中心ではないが、日蓮は墓を重視している。見延を去る際、お世話になった南部六郎三郎実長に「いづくにて死候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(身延沢)に立させ候べく候」(波木井殿御報ー433号)と述べ、また伊豆の檀越南条氏の墓にわざわざ参って懐かしんでいる。いわゆる鎌倉仏教の祖師には墓を重視する性格が薄いが、日蓮は例外のような気がする。日蓮は死の直前に高弟6人を「本弟子」と定めているが、死後彼らは輪番で身延の墓所を守ることとしており、これも日蓮の姿勢の表れであろう。

また日蓮は自分の信者は仏になると言っていて、家族3人がまとめて入信した際「三人ともに仏になり給、ちちかた(父方)、ははかた(母方)のるい(類)をもすくい給ふ人となり候」(兵衛志殿御返事−291号)と述べている。

次に一遍については、南無阿弥陀仏と称えれば「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」全ての人が救われるということと、全てを捨てなければ生死を離れることは出来ないという単純明快な確信が強力な行動原理となった。そして「念仏をする衆生がそのままに阿弥陀仏であるという機法一体の所説(p.366)」が形成された。一遍の念仏は、信心などとは無関係に救われる・仏になれるという易行を基調にしつつ、自らは苦行を行い、自らに同行するもの(時衆)にも厳しくそれを求めた。つまり一遍の念仏には易行と苦行が同居していた。また他の専修念仏運動が神祇不拝を主張していたのに対し、一遍は積極的に神社に詣でた。これらは融通念仏宗の影響が大きいのではないかと著者は指摘している。

*****

本書は全体として、冒頭に述べたように概説というより象徴的な事項の詳説という性格が強く、書き下ろしの本なのだが論文集のような性格が強い。著者はあとがきで「日本古代仏教の中から鎌倉仏教のうまれてくる過程を一貫した観点で扱ってみたいという年来の課題(p.405)」に取り組んだというが、その「一貫した観点」が私には明確には摑めなかった。

特に「国家と仏教」を銘打ちながら、本書には国家論が稀薄なのが不思議だった。古代において大仏建立と道鏡がほとんど取り上げられていないのは先述したが、例えば摂関院政期の国家が主導した寺院建立の動向(六勝寺など)も非常に簡略であり、寺院や僧侶の国家制度の変容なども一瞥はされているが詳述はされない。そして後篇にいたっては国家の要素は皆無といっていいほどである。むしろ著者は、国家と少し距離のあるものについて力を込めて描いている。後篇で、鎌倉仏教の中でも最も国家と遠かった日蓮と一遍について取り上げたのはその象徴である。また、本書には社会経済的な視点もほとんど見られない。この時代を語る上で荘園制は避けて通れないと思うが、本書には荘園制についてもほとんど述べるところがないのである。こういう次第であるから、私としては、著者のいう「一貫した視点」は、むしろ国家の外を向いているような気がした。

ところで、本書は古い本であるから額面通り受け取れない部分がある。一番大きいのは、1975年に黒田俊雄氏が「顕密体制論」を発表し、鎌倉時代においてもいわゆる鎌倉仏教は少数勢力であって、依然として「顕密仏教」が力を持っていたというのが通説となったことである。つまり「鎌倉仏教のうまれてくる過程を一貫した観点で扱ってみたい」という問題意識自体が、それほど意義のあるものではないということになる。もう一つが、顕密仏教の改革を企図した人々が「遁世僧」であったということが本書にはほとんど書かれていないということであるう。「遁世」という用語は本書にも登場するものの、さほど強調されていない。現在の学説では「鎌倉仏教」という枠組みよりも、「顕密仏教」と「遁世僧」の関係が重視されている。

そういった難点が本書にはあるが、「中篇」は個人的には面白く読んだ。特に説話類から民間的な浄土教を検討するという手法はなかなかエキサイティングであった。しかしながら、「円仁ー良源ー源信ー往生伝」の貴族的浄土教と「空也ー千観ー説話文学ー良忍(融通念仏宗)ー天王寺念仏宗」の民間的浄土教という二つの浄土教があったという井上氏の見立ても、平雅行氏によって批判されている。例えば井上氏が民間的浄土教(※氏の用語では、「民間浄土教」)の嚆矢として扱う空也についても、文人貴族は高い関心を有し実際「空也誄」が源為憲によって作られている。逆に源信の『往生要集』でも観想を第一義としつつ、それを実践しえない人にも様々な(より簡易な)行を勧めている。この二つの系統は截然と分けられない。平氏は「ここにあるのは二つの浄土教ではなく、一つの仏教、一つの浄土教観における達人宗教と大衆宗教との二元的・階層的構造である(『日本中世の社会と仏教』p.53)」と述べる。民間にも浄土教が広まったのは、民間が独自にそれを発達させたというより、顕密仏教が民間を包摂していったと認識した方がよいとし、貴族と民間の浄土教の実践に違いがあったとしても「思想の違い、宗教の違いを必ずしも意味してはいない(同書p.54)」という。確かに貴族と民間の浄土教は大枠ではほとんど違いがなく、二つの浄土教があったとは言いづらい。

しかしながら、「円仁ー良源ー源信ー往生伝」系統と「空也ー千観ー説話文学ー良忍(融通念仏宗)ー天王寺念仏宗」の系統に細かい違いが存するのも事実で、その細かい違いが面白い。二つの浄土教はなかったかもしれないが、「浄土教の受容の仕方には二つあった」というのが本書を読んだ私の感想である。例えば現在でも、純文学と大衆文芸(エンタメ)には截然とした区切りはないし、同じ著者が純文学とエンタメの両方を書いていることもあるが、これを受容する読者の側には純文学とエンタメには異なる心理・向き合い方があると思うし、そういう違いを細かく見ていくのが文芸批評の醍醐味ではなかろうか。そういう意味で、井上氏の「二つの浄土教」の視点は、多少の修正が必要であるにしても有効ではないかと思うのである。ただし「○○は純文学と言えるか」というような問の立て方がしばしば不毛であるように、個別の事象(例えば空也)が貴族的浄土教なのか民間浄土教なのか、といった考究はおそらく有効でなく、大まかな二つの流れがあったと考えるのがよいと思った。

「国家と仏教」の視点は薄弱だが、平安浄土教を独自の視点で語る労作。

【関連書籍の読書メモ】
『日本中世の社会と仏教』平 雅行 著
https://www.shokeishuyu.com/2025/01/blog-post_19.html
顕密仏教と浄土教を考える論文集。専修念仏教団と顕密仏教の関係を詳細に明らかにした労作。

『阿弥陀聖 空也――念仏を始めた平安僧』石井 義長 著
https://www.shokeishuyu.com/2025/11/blog-post.html
空也の評伝。初めて空也の生涯を実証的に明らかにした労作。

『往生要集(上下)』源信 著、石田 瑞麿 訳注https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/10/blog-post_11.html
往生のための理論書。念仏理論の始まりとなった歴史的名著。

『選択本願念仏集』法然 著・大橋 俊雄 校注
https://www.shokeishuyu.com/2025/02/blog-post_24.html
法然の主著。専修念仏教団を生み出した、念仏至上主義の書。

『改訂 歴史のなかに見る親鸞』平 雅行 著
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
厳密な史料批判に基づいた親鸞の生涯。歴史学における親鸞研究の到達点。

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※本文で引用したのは岩波書店日本歴史叢書版。

2026年7月31日金曜日

「細君」坪内 逍遥 著(『坪内逍遥・二葉亭四迷集 新日本古典文学大系明治編18』所収)

坪内逍遥の中編。

坪内逍遥はその後半生をシェイクスピア全集の翻訳に傾け、また小説よりも戯曲・演劇に力を注いだので、『細君』はその合間に書かれた例外的な作品ということになる。

今から見れば古色蒼然としたこの小説を私が読んだのは、明治時代の人々の生活実態やその心情が知りたいと思ったからなのであるが、意外にもここに描かれる「夫人」の心情は今の女性と大差がない。

主人公の「夫人」は、社会的な地位はあるが浮気で愛情のない夫との家庭生活に倦み、しかし金銭的に厳しい実家との板挟みになって離婚に踏み出すことができない。この状況からは、女性が自活できない明治の家父長制全盛期の様子が窺えるのであるが、ではこの女性が単にモノのように扱われているかというとそうでもないのが面白い。というのは、「夫人」自身、打算による結婚をしているのである。「夫人」は学生の頃から「負惜みの強いのと愛嬌の乏しいので人に知られ」ていて、友達を冷ややかに批評するばかりで全く真心に欠けており、当然男性にモテるということもなかったが、「見事立派に片附て鼻をアカして見せやうと」し、「夫の人柄には好(このみ)はない。只中等より以上の宅(うち)へ縁附いて元の友達の顔が見たい」、つまり、身分以上の男と結婚して友達を見返してやりたい、というだけで結婚相手を決めたのである。

しかし案の定、家庭は冷ややかで、お金はそれなりにあっても「夫人」にとっては万事が不如意であり、夫が支配権・決定権を持っている状態に甘んじるよりは、貧乏でも自由に生きた方がよいのではないかと考えるようになっていった。

こういう状況で「夫人」の心情を作者が説明する文章がまた面白い。曰く「夫人は最早小説を弄ぶ十六七の娘にもあらず、又西洋の女にもあらねば、学校に在りし時とは違ひ同権又は愛情と云ふ事を雛形の通りには思はねども」、それでも思い悩んでいたという。この小説が発表されたのは明治22年であるが、すでにこの頃、学校では「男女同権」や「男女の愛情を基盤とした婚姻」といったことが教えられ、それを「雛形」のように思う観念があったということになる。しかしそれが現実とは違うという認識もあったわけである。

この感覚は現代でも同じようなものではないだろうか。一応、男女同権は当然のこととされてはいるものの、未だに家事負担は女性に大きく偏っているなど男女同権とは程遠い現実があり、女性自身しょうがないことだと諦めている。そういう感覚をすでに「夫人」は持っているのである。男女同権の教育と、それが理想に過ぎないとする諦観は意外と早くから浸透したようだ。

ちなみに、この頃の小説の会話文は初めの括弧(「)はあるが終わりの括弧(」)はない。会話文の終わりには「ト言いつゝ」などと必ず「ト…」があるのでさほどわかりづらくはないのだが、最初は慣れなかった。

最後に小説としての面白さについていうと、最初の方はあまりドラマチックではない作品だと思ったが、徐々に筆が乗ってきたのか後半はなかなかスピード感があり、特にラストはシェイクスピアばりに劇的な悲劇となっていて読みごたえがあった。

明治20年代の上流階級の生活実態を活写した作品。

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2026年7月24日金曜日

『明治東京畸人伝』森 まゆみ 著

谷根千の人々を描いた作品。

著者は、季刊誌『谷中・根津・千駄木』、通称「谷根千」の編集人である。この雑誌は地域の話題を取り上げる雑誌だが、地域にあるものを紹介するだけでなく歴史的に深掘りする特集が組まれており、本書はそこで取り上げられた地域ゆかりの人物について、雑誌の記事を補筆して書かれたもののようである。また特に畸人とされる人ばかりを取り上げているのではない。

よって、『明治東京畸人伝』というよりも、『明治谷根千人物誌』とすべき内容である。

さて、谷根千とは、皇居の北東に位置した下町的区域で、南・東は上野公園と東京大学、北・東側はJR(日暮里・西日暮里)、西側は駒込までのエリアであり、その面積はだいたい約1.5km四方くらいと思われる。この狭いエリアに、まさに多士済々の人物が暮らしていた。

こういう本の面白いところは、何の脈絡もなく人物が登場することである。何しろ、その共通点は谷根千に住んでいた、ということしかないのだから。もちろん、パリのモンマルトルのように、ある地域に特定の業界の人々が集まることはある。しかし谷根千の場合は良くも悪くも、いろんなタイプの人々が入れ代わり立ち代わり暮らした。

明治初年に写真館を開いた横山松三郎、宝丹という薬を売りまくった守田宝丹、最初期のピアニストで派手なパフォーマンスによって人気を得、ベルリンとウィーンに渡って絶望し自殺した久野久(くの・ひさ)、岡田式静座法という健康法・修養法で人気となった岡田虎二郎、藪蕎麦の元祖三輪伝次郎、とんでもない貧乏なのにサトウハチローの面倒を見ていた(同居させていた)詩人の福士幸次郎、『尋常小学読本唱歌』を編集し新作唱歌のリーダーだった吉丸一昌(「早春賦」、「おたまじゃくし」など)、ハーフの芸者春日とよ、上野公園一筋の名物園長古賀忠道、女遊びが激しい文筆家の物集高量(もずめ・たかかず)など、大文字の歴史を学んでいてはあまり登場しない人々が次から次に取り上げられるのが面白い。

とはいえ、やっぱり知っている人物が登場するといろいろ参考になる。一番面白かったのは幸田露伴が名著『五重塔』のモデルにした谷中五重塔(天王寺五重塔)の話である。谷中五重塔は昭和32年7月6日に放火心中で焼けて失われた。この五重塔の心柱が懸垂式で上からぶら下がっており土台には接していなかったとか、谷中共同墓地はこの五重塔があった天王寺の境内だった(土地が新政府に接収されて墓地にされた)といったトリビアルな話題が興味深かった。この他有名な人物としては、村山槐多、サトウハチロー、河口慧海、川端康成、北原白秋、三遊亭円朝などが取り上げられている。ちなみに章立てられてはいないが、森鴎外、宮本百合子、朝倉文夫(彫刻家)も谷根千に住んでいた。

そして本書の掉尾を飾るのが渡辺治右衛門である。明治の末での東京の地主は、1位が岩﨑家(22万1千坪)、2位が三井家(17万2千坪)などと続き、5位だったのが渡辺治右衛門(6万3千坪)だ。今では知る人も僅かだが、渡辺治右衛門は東京で五指に入る地主だったのである。渡辺家はもともと海産物問屋だったが、土地への投資で巨富を築き上げた(大概の金持ちがそうだが)。そして渡辺銀行を創業。金融業としては良心的な商売をしていたらしい。ところがこの渡辺銀行が一夜にして倒産する。

若槻礼次郎内閣で蔵相を務めた片岡直温(なおはる)が国会答弁中、むかっ腹を立てて「ただいま渡辺銀行が倒産した」と言ってしまったのだ。これは、直前に渡辺銀行から手形の決済が難しい旨の連絡を受けていたことを受け、つい口を滑らせて話を盛ってしまったもので、実際には渡辺銀行は別の銀行から融資をうけて事なきをえたものの、国会で「倒産した」と言われた打撃は大きく、とんでもない取付騒ぎが起こった。もちろん、手形の決済ができないくらいのなので経営が傾いていたことは事実であったが、預金者が大挙してお金を引き出しに来たのでどうしようもなくなったのだ。さらにこの騒ぎは他の銀行までも飛び火し、19行が倒産あるいは休業に追い込まれた。「わずか数日の間ではあったけれども、銀行の取付けが洪水のように市中のすべての銀行の前に殺到した時の物凄さは、今ふり返ってみても怖ろしいほどであった」と大阪毎日新聞経済部長だった下田奨見が述懐している。

ともかくこの騒ぎで預金がなくなってしまった(結果的に引き出せなかった)人が多く、谷根千では「ワタナベヂエモン」に対する恨みは激しい。しかし渡辺家の人たちは総じて良心的で、政府の失言によって倒産した部分もあったにもかかわらず政府を糾弾するようなこともせず、財産のほとんどを失いながらもそれなりに矜持をもってその後を生きた。

本書を読みながら、地縁というものの面白さを改めて感じた。地縁を中心に歴史を見ると、歴史の流れとは違ったところに目が行く。例えば鹿児島でいうと加治屋町をこんな風に描いたらどうなるだろう。よく知られる通り、加治屋町からは西郷隆盛や大久保利通、大山巌、東郷平八郎など明治の偉人とされる人がたくさん出た。だが、西郷家の隣、大久保家の隣にはどんな人が住んでいたのだろうか。それで明治維新が修正されるとは思わないが、これまでの明治維新とは違った断面が見えそうである。

地縁にこだわって歴史と人物を語る好著。

【関連書籍の読書メモ】
『五重塔』幸田 露伴 著
https://www.shokeishuyu.com/2018/05/blog-post_20.html
幸田露伴の若き日の傑作中編小説。

『チベット旅行記』河口 慧海 著
https://www.shokeishuyu.com/2015/05/blog-post.html
黄檗宗の僧侶によるチベット滞在の記録。チベットに興味があろうがなかろうが、エンターテインメントとして読める第一級の旅行記。

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