坪内逍遥はその後半生をシェイクスピア全集の翻訳に傾け、また小説よりも戯曲・演劇に力を注いだので、『細君』はその合間に書かれた例外的な作品ということになる。
今から見れば古色蒼然としたこの小説を私が読んだのは、明治時代の人々の生活実態やその心情が知りたいと思ったからなのであるが、意外にもここに描かれる「夫人」の心情は今の女性と大差がない。
主人公の「夫人」は、社会的な地位はあるが浮気で愛情のない夫との家庭生活に倦み、しかし金銭的に厳しい実家との板挟みになって離婚に踏み出すことができない。この状況からは、女性が自活できない明治の家父長制全盛期の様子が窺えるのであるが、ではこの女性が単にモノのように扱われているかというとそうでもないのが面白い。というのは、「夫人」自身、打算による結婚をしているのである。「夫人」は学生の頃から「負惜みの強いのと愛嬌の乏しいので人に知られ」ていて、友達を冷ややかに批評するばかりで全く真心に欠けており、当然男性にモテるということもなかったが、「見事立派に片附て鼻をアカして見せやうと」し、「夫の人柄には好(このみ)はない。只中等より以上の宅(うち)へ縁附いて元の友達の顔が見たい」、つまり、身分以上の男と結婚して友達を見返してやりたい、というだけで結婚相手を決めたのである。
しかし案の定、家庭は冷ややかで、お金はそれなりにあっても「夫人」にとっては万事が不如意であり、夫が支配権・決定権を持っている状態に甘んじるよりは、貧乏でも自由に生きた方がよいのではないかと考えるようになっていった。
こういう状況で「夫人」の心情を作者が説明する文章がまた面白い。曰く「夫人は最早小説を弄ぶ十六七の娘にもあらず、又西洋の女にもあらねば、学校に在りし時とは違ひ同権又は愛情と云ふ事を雛形の通りには思はねども」、それでも思い悩んでいたという。この小説が発表されたのは明治22年であるが、すでにこの頃、学校では「男女同権」や「男女の愛情を基盤とした婚姻」といったことが教えられ、それを「雛形」のように思う観念があったということになる。しかしそれが現実とは違うという認識もあったわけである。
この感覚は現代でも同じようなものではないだろうか。一応、男女同権は当然のこととされてはいるものの、未だに家事負担は女性に大きく偏っているなど男女同権とは程遠い現実があり、女性自身しょうがないことだと諦めている。そういう感覚をすでに「夫人」は持っているのである。男女同権の教育と、それが理想に過ぎないとする諦観は意外と早くから浸透したようだ。
ちなみに、この頃の小説の会話文は初めの括弧(「)はあるが終わりの括弧(」)はない。会話文の終わりには「ト言いつゝ」などと必ず「ト…」があるのでさほどわかりづらくはないのだが、最初は慣れなかった。
最後に小説としての面白さについていうと、最初の方はあまりドラマチックではない作品だと思ったが、徐々に筆が乗ってきたのか後半はなかなかスピード感があり、特にラストはシェイクスピアばりに劇的な悲劇となっていて読みごたえがあった。
明治20年代の上流階級の生活実態を活写した作品。
★Amazonページ
https://amzn.to/4bq8lYu

0 件のコメント:
コメントを投稿