2026年7月5日日曜日

『墓と石塔の中世―石に刻まれた死者供養』狭川 真一 著

石塔の造立について語る本。

石塔の造立については分厚い研究の積み重ねがある。本書は石塔研究の最前線をまとめるとともに、著者が携わったいくつかの事例を紹介し、石塔に対する観念について考察するものである。

石塔が本格的に造立されるようになったのは中世であるが、奈良時代にも石仏や摩崖仏があった。特徴的なのは、それらは硬い花崗岩製であり、東大寺との関係がある奈良周辺に造立されているということだ。これは新羅からの渡来系石工が作った可能性がある。

平安時代前期(8~9世紀)には軟らかい凝灰岩性の石塔がそれらとは別の系統として現れた。これは奈良・京都を中心としていたようだ。奈良時代から平安時代前期の石塔は、「数は少ないがほぼすべてで、山寺の小さな伽藍を構成する仏塔として造営されたもの(p.11)」で、具体的には舎利が安置されていたと思われる。

平安時代中期には、福島県磐梯町にある慧日徳一廟塔とされる五重塔が建立されており、これは個人の廟所としての伝承を持つ古代唯一の石塔である。

このように古代にも石塔の造立は行われたが、散発的かつ少数であった。それが変わった契機と思われるのが、治承の乱(1180)で東大寺や興福寺が灰燼に帰し、その復興事業が行われたことである。東大寺の復興を担った重源は宋から技術者を登用し、その石材加工技術が東大寺復興後に広まっていくのである。日本に定住した伊行末の作品は全て花崗岩が利用されており、その後の伊派の作品はやはり全て花崗岩である。ここで日本の石材加工は、軟質の凝灰岩利用から硬質の花崗岩利用に転換したと見られる。文永2年(1265)から弘安8年(1285)に行われた216基の高野山町石をすべて木造から花崗岩製に作り替えるという大事業は、硬質な石材加工技術の定着を象徴的に表している。

「石塔の種類と特徴」では、石塔の種類ごとにこれまでの研究がまとめられる。

層塔は最も古くから造立された。軸部と笠部を別々に作る別石式と、両者を一石で作る一石式がある。一石式の最古の例としては奈良市塔の森六角十三重石塔、鹿谷寺(ろくたんじ)の十三重石塔がある。別石式の最古の例としては、奈良の龍福寺五重石塔(天平勝正3年(751))がある。奈良時代のものは木造建築としての塔を模しているが、平安時代後期以降は簡略化したフォルムとなった。初期の石の層塔は、飛鳥・奈良時代に建立された木造の塔が廃絶した後、その代わりに建立されたと考えられている。

笠塔婆は、方形柱状の塔身に笠石を置いたものである。最古の例として熊本市円台寺の建久4年(1192)銘のものがある。『餓鬼草子』には木造の笠塔婆が描かれており、木造がより古い形態だったと思われる。最近、木造の残存・出土事例がいくつか知られるようになった。例えば石川県珠洲市野々江本江寺遺跡の出土品(12世紀後半以前)などである。

宝塔は、円筒状の塔身の上部にくびれがあり、その上に笠部と相輪を持つ。宝塔はほとんど石造で木造の例は少ない。多宝塔は宝塔が複数の層を持っており、石造の事例はほとんどなく基本的に木造である。宝塔の最古の例としては、京都市鞍馬寺京塚から出土した保安元年(1120)銘のものがある。岩手県平泉町の願成就院宝塔も古い。これら古い事例は、経塚の標識として造立されたものと考えられる。大分の国東塔とよばれる仏塔も宝塔の一種と認められる。これは塔身に納経をしていたと推測される。

五輪塔は、最も数多く作られた仏塔と言える。『大日経』などの経典に平面的に書かれたものが立体化されたものだが、立体化の考案者やその背景は未だ謎である。図案としての最古の例は、法勝寺(承保3年(1076)創建)出土の軒丸瓦の文様にある。当初は宝塔との区別が明確でなかったが、表面に梵字が記載されることで五輪塔が確立したと考えられている。その最古の例は、兵庫県姫路市の経塚から出土した瓦製五輪塔で、天養元年(1144)のものとされる。また石造五輪塔としての最古の例は、岩手県平泉町の中尊寺釈尊院墓地の五輪塔で仁安4年(1164)の銘がある。これは火輪以下の内部が空洞となっているので舎利の奉安が想定されるが、初期の五輪塔には奉籠孔がなく造立目的が不明なものもある。

宝篋印塔は、基礎・塔身・階段状の笠・相輪で構成される複雑な形態の塔で、宝篋印陀羅尼を収めたことから名称がついたが、名称としての最古は正安3年(1301)の銘のもので、それ以前の名称は不明である。宝篋印塔の祖型は、かつては銭弘俶塔とされたが形態的な隔たりが大きく疑問である。著者はこの祖型は阿育王塔であると考え、その成立は『高野山縁起』に記される明恵の髪爪を収めた塔婆と見なしている。宝篋印塔は京都で発祥したと見られ、最古の例として京都府生駒市輿山往生院宝篋印塔の正元元年(1259)がある。

板碑は、薄い石材の上部を山形に加工して二本線と梵字を刻んだものである。在銘最古の例としては、埼玉県熊谷市の嘉禄3年(1227)のものがある。ただしこれは梵字ではなく三尊仏である。板碑の源流については様々な説があったが、石川県珠洲市野々江本江寺遺跡(前出)から木製板碑が出土した。これは12世紀後半を下るものではない。また鳥取県米子市吉谷亀尾前遺跡からも同様の資料が出土していたことが判明した。これらの出土品から考えると、板碑は陀羅尼を収めるためのもので、上部の二本線は宝珠が変形したもののようである。

無縫塔は、卵型の塔身が須弥座に置かれたもので中国に祖型がある。最古の事例は京都市の泉涌寺の俊芿の墓塔で、以後僧侶の墓塔として用いられた。

「墓に石塔が建つ」では、墓塔が立てられるようになった事情が考察される。

京都府長岡京市の西陣織遺跡は、11世紀後期の火葬墓跡で、墳墓状の頂上に相輪が置かれたと著者は考え、これは「仏塔と墓が直接的に関係する初期段階の事例(p.62)」だという。京都市東山区の六波羅政庁音羽・五条坂窯跡でも墳墓や笠塔婆が確認された。「これらの墓遺構は11世紀中ごろから12世紀中頃の間に営まれた計画性を持った墓地群であり、中央の空閑地を挟んで一定のエリアを占有する一族の墓所であろうと推定(p.65)」された。

他の遺跡の出土品も踏まえ、著者は墓と近接した最初の石塔形式は笠塔婆であると考える。比叡山横川には全部で5基の笠塔婆があり、良源(985年没)、尋禅(988年没)、邏賀(998年没)、源信(1017年没)、覚超(1034年没)の墓塔である。全て花崗岩製で、塔内に陀羅尼が納められていたと考えられる。後世に復刻した可能性もあるが、これらは「10世紀後期から11世紀前期にはすでに墓と石塔が接近して造営されていることを示唆する(p.68)」。

天皇家の場合、仁明天皇に至って陵寺が成立した。陵寺とは陵墓の兆域と寺院の境内が一致するものである。また御一条天皇の墓に陀羅尼を蔵めた石の卒塔婆を建てたという記録が『類聚雑例』長元9年(1036)にあり、墓と石塔が一体になったことがわかる。そして白河上皇、鳥羽上皇、近衛天皇は木造の三重塔の下の石室などに遺骨・遺体が埋葬されている。「この段階で、明らかに木造の仏塔が釈迦の舎利を埋納するのではなく、天皇の遺骨あるいは遺体を埋葬する施設に変化している(p.71)」。これらが塔の画期である。

また同時期に、皇族や貴族も仏堂内への埋葬が行われるようになった。皇室関係者の遺骨が次々に埋納された円光院の事例は興味深い。仏堂内に埋葬する事例を一般に「墳墓堂」という。なお現存建物で墳墓堂と考えられるものは中尊寺金色堂のみである。

源頼朝や北条義時も墳墓堂に埋葬された。頼朝の墳墓堂は「法華寺」と呼ぶ寺と認識され、火災のつどに再建されたことがわかっている。また北条義時の墳墓堂も火災に際して再建された。これらの事例からは継続した祭祀が行われたことが窺える。北条氏では三代執権の北条泰時までは墳墓堂が作られたことがわかっている。

その後の動向が窺えるのが足利氏の墓所である栃木県足利市の樺崎寺跡である。この寺跡には同時期に9基あるいはそれ以上の五輪塔が造営されている。この遺跡では、12世紀末からしばらく墳墓堂が造営され続けてきたが、それが急に五輪塔に置き換わったと思われるのである。頼朝や義時の墳墓堂は継続して祭祀が続けられていたが、一般には財政的な負担から墳墓堂の再建はされなかったと思われる。また複数の墳墓堂の維持管理にも大きな負担があったであろう。そこで著者は「樺崎寺では13世紀後期~14世紀前半頃に墳墓堂を廃止し、いっせいに石塔墓に変更したのではないかと推定(p.84)」する。石塔墓にすることにより、樺崎寺は足利一門の墓所を永久的なものとして整備できたのである。また樺崎寺にはこれらの石塔と離れた場所に、一族の中で大型五輪塔を建立できなかった者を合葬したと思われる無種子の五輪塔があり、墓所の在り方が窺えて興味深い。

熊本県玉名市の宇佐市の一族墓所も同様の事情が窺える。ここでは3基の五輪塔の造立日が文応元年(1260)で揃っている。これは宇佐某が先祖二代の五輪塔を造営するとともに自身の逆修塔を建立したものだが、それは宇佐某がこの地を一族墓所と定めて文応元年に整備したことを物語っている。この墓所のその後の発展を見ると、14世紀には妻の墓塔が見られるようになり、領主個人から夫婦を供養する形になっていったようである。そして墓所は「継続的な支配を視覚的に誇示する装置(p.93)」となった。

奈良市都祁来迎時にある多田一族の五輪塔群を見ると、14世紀の五輪塔は数が大きいが少なく、15世紀になると造立数が増え、16世紀には小型化・量産化・規格化が進む傾向が看取できる。これは16世紀以降には五輪塔が商品的に生産されていたことを示唆するものである。

一方、僧侶の墓はそれに先立つ10世紀末頃から造営されており、天皇や皇族が仏塔に埋葬された時期と同時期から存在する。先述の笠塔婆に続いて、12世紀には五輪塔が高僧の墓所に採用されるようになっている。その例として、文覚(鎌倉時代前期)、重源(1206年没)、貞慶(1213年没)がある。俊芿の一派が無縫塔を採用しているほかは、鎌倉時代前期は僧侶墓は五輪塔が中心である。

墓塔としての五輪塔の普及に大きな影響があったのが西大寺流律宗である。その開祖叡尊の墓塔は3メートルを超える五輪塔で、現在地が間違いなく当初の立地であるとともに、この地が叡尊の荼毘所(火葬場)でもある。叡尊の没後(1290年)まもなく宝瓶に納めた遺骨が埋められ、その上に五輪塔を建てたという記録がある。なお大阪府羽曳野市には叡尊の分骨塔と思われる五輪塔もある。叡尊の弟子の忍性の墓所は、鎌倉の極楽寺にあり、叡尊よりは少し小さな五輪塔で遺骨を収めた舎利瓶が納められていた。また分骨塔も奈良県の額安寺にあり、こちらも舎利瓶を伴っていた。その後の律宗の墓塔を見ると、「歴代墓所造営はかなり計画的に実施されているようで(p.113)」ある。つまり祖師の叡尊を最大の大きさで作り、その後墓塔の高さを抑え、しかも分骨・合葬・追葬などがある程度体系的に整備されている。先ほどの武士の墓所の造営が墳墓堂→石塔群へというやや場当たり的な経過をたどっているのと比べ、最初から石塔を中心に考えていた様子が窺える。

また、奈良市の唐招提寺には中興覚盛上人のものとされてきた五輪塔があり、これも西大寺系のものである。この五輪塔の解体修理が行われたところ、忍性と親交のあった中興二世の證玄のものとわかった。この五輪塔の地下には特殊な銅製蔵骨器が埋納されており、半分ほどは證玄の遺骨が入っていたが、その上には計画的に弟子の骨が追葬されたことが分かった。この例からは、死して師匠の元にいたいという観念があったことが理解できる。

「共同体の墓と石塔」では、共同納骨について考察される。

大型の五輪塔を造れる人間はわずかであったが、その他大勢はどう葬られたのか。その一つが合葬である。12世紀後期からは、大きな甕を埋置し、そこに火葬骨を埋納した事例が見られ、また岩手県本町II遺跡でへは火葬骨を埋納する大きな土坑がある。しかしそれらの墓は上部構造はあっても簡易なものだったと考えられ、恒久的な石造物はなかった

これが五輪塔を中心にした合葬に変化していく。早い事例として、長野県飯田市の文永寺の墓がある。ここには弘安6年(1283)に石室の内部に五輪塔がある構造物が造営されている。特徴的なのは、その下部に骨を埋納するための甕が埋められていることである。これは、まず甕の納骨が12世紀後半に始まり、1283年にその上部に石室・五輪塔が設置され、その後も納骨が継続されたと考えられている。このような経過で総供養塔への合葬が15世紀頃まで続いたようである。

ここで著者はケーススタディとして奈良県山添村の中之庄墓地を取り上げるがここでは割愛する。また西大寺流律宗の動向について、三重県の伊賀地域(山添村が隣接する)での総供養塔の文化を検証している。律宗は、墓地に総供養塔として無銘で大きな五輪塔を造立し、そこに合葬するという文化を広めた。例えば伊賀では14世紀に阿弥陀寺へ西大寺流律宗が入り、徐々に広まっていった。一方、伊賀では宝篋印塔が造立された地域と五輪塔が造立された地域はあまり重なっておらず、宝篋印塔は別の宗教集団によるものであることが確実である。

しかし西大寺流律宗は総供養塔の文化を広めた立役者であっても、律宗が嚆矢となったわけではないらしい。例えば千日墓地十三重石塔、大阪府太子町の東福院墓地の層塔など、共同の納骨施設を有するものが見られ、「墓の要所に石塔を建立し、塔下に納骨するという形態が13世紀には始まっていた(p.144)」。しかし「造立の背景にはどういう教団や人々が活動していたのか、現状では不明と言わざるを得ない(p.145)」。ともかく「12世紀後期から13世紀前期頃に近畿の一部でこうした発想が生まれ、14世紀には大和を拠点として各地に広まっていった(p.146)」のである。

「霊場と石塔」では、高野山への納骨を中心に納骨信仰を述べる。

高野山への納骨行為は11世紀後半ごろから始まり、奥の院への納骨は12世紀末ごろから始まった。奥の院に納骨した最古の例は、治承3年(1179)の俊寛である。また身分の高いものは子院を建立してそこに納骨した。またそれ以前から尼法楽が埋納した経塚(天永3年(1113))に代表されるように埋経が行われていた。納骨の風習を広めたのは聖たちで、彼らは勧進活動の一環で各地で納骨を勧め、多くの人から少量の骨を預かって小型の容器に入れて納骨した。13世紀になると石塔内に納骨を行う事例が登場し、やがて膨大な石塔が建立された。そのピークは14世紀中頃から末ほどである。

14世紀中頃までの石造五輪塔には水輪部分に納骨孔があったが、室町時代以降の五輪塔には納骨孔を有するものが少なくなる。石塔の中へ納骨するという形式が急速に廃れ、代わりに素掘りの穴に少量の遺骨を埋納してその上または近くに石塔を建立するという形になっていったようだ。さらに一つの石から簡略に五輪塔を切り出す一石五輪塔が流行した。その傾向は次のようにまとめられる。(1)13世紀から14世紀前半には納骨孔がある少数の五輪塔が建立された。(2)14世紀前半から15世紀中頃まで、納骨孔がない五輪塔が大量に建立された。そのピークは14世紀末から15世紀初めである。(3)15世紀中頃から一石五輪塔が現れて非常に大量に建立され16世紀末には低減した。ピークは16世紀初頭である。(4)16世紀末からは近世の大型五輪塔が建立されるようになった。

なお最古の一石五輪塔は、大阪府貝塚市半田墓地にある応永6年(1399)のものだが、一石五輪塔は無銘のものが数多く、動されているものがほとんどのため、「実のところ本来の使用方法は具体的にはわかっていない(p.179)」。著者は逆修(生前に供養を済ますこと)が一定割合を示すことや、13世紀以降に埋納容器が小型化することを踏まえ、「石塔による納骨が始まるがそれは初期段階にとどまり、その後は拝殿への納骨が中心になった(p.181)」と考えている。つまり石塔と納骨は別々の場所でなされた、という考えである。

「中世都市・村落と石造物」では、都市と村落の墓地の在り方について考察している。

都市については、福井県敦賀市での石塔・石仏を分析し、15世紀にはかなりの石塔が作られるようになったこと、石塔がレリーフタイプになっていったことが述べられ、ケーススタディとして坂ノ下遺跡が取り上げられる。ここは12世紀後期から16世紀後期頃の中世墓である。一方、近隣の永建寺脇祠堂と鋳物師町会所横には、石造物が寄せ集められている。さらにこの両者の間に来迎時墓地があり、ここにも小規模ながら中世後期の石造物がある。これらから見える中世都市の墓地の様相は何か。これらは近世の寺壇制度の下の墓とは違う個人の墓だった可能性があり、都市域の外に立地した、しかも近世の墓標を含んでいないという特徴がある。つまり中世墓地は、近世の墓地の枠組みとはちょっと違い、近世に入って廃絶したと思われるのである。問題はその違いが具体的には何だったかであるが、著者ははっきりとは書いていない。

著者はさらに奈良市東部の中世墓塔がある場所を自転車で回って調査しており、その結果から抽出すると(1)石龕仏と舟形五輪塔が大半を占める、(2)近世のものを含む場所はない、(3)寺院や境内墓地とは無関係に存在している、(4)概ね町内に一カ所の単位で存在している、などがいえる。著者は「これらの石造物群は町内の祭祀に起因する資料であること、その祭祀は18世紀には終息もしくは下火になっている考えられる(p.203)」としている。そしてこれらは「中世後期から近世前期にかけての頃の葬送供養が、町内という単位の共同体の仕事であったことを意味している(p.206)」という。具体的には、死穢を避けるための無常堂があり、死期が近づくとそこへ運んで最期を看取り、死後は共同体の力で近在の墓所へ埋葬し供養の標識となる石造物だけは無常堂付近に安置する、という流れを著者は想定している。そしてそれらの石塔・石仏は寺院墓地に取り込まれることはなかった。

しかしながら、著者のこの想定には疑問が残る。それは、死穢を避けるための無常堂にわざわざ死にそうな人を運んでいるのに、共同体で葬送をしたらその参加者が死穢になってしまうということである。死穢を避けるならば葬送は家族親類で行わなくてはならないと思う。とすると、むしろ近世の町が成立した時に、中世からの墓地を整理して町内ごとにまとめたと考える方が筋が通る。いずれにせよ、中世までの墓地と近世以降の墓地には断絶があるということがこれらの事例から言える。

中世村落の墓地については、滋賀県多賀町の敏満寺石仏谷遺跡と京都府与謝野町の地蔵山遺跡について取り上げている。敏満寺石仏谷遺跡は12世紀後半ごろに成立した墓地遺跡で、当初は墳丘墓であったが、15世紀から五輪塔が建立され、16世紀には石仏・一石五輪塔が多くなっている。近隣の墓地を見ると、14世紀や15世紀に宝篋印塔・五輪塔の建立が見られ、16世紀にはやはり石仏・一石五輪塔となる。地蔵山遺跡は、13~14世紀ごろに塚墓の造営にっはじまり、15世紀には仏教的石造物が建立され、16世紀が主体となっている。面白いのは16世紀で造墓が断絶することである。これは造営主体だった国衆とその家臣団が没落したことを表しているのかもしれない。面白いのは、地蔵山遺跡には寺院の形跡がないことである。

「中世墓の終焉と石材の転用」では、石材の転用から墓と石塔の観念の変遷を推測している。

中世に成立した城には、石垣などに石造物が転用されていることがよくある。例えば奈良県大和郡山市郡山城跡、兵庫県神戸市兵庫城跡などである。京都府福知山市の福知山城跡では、石造物の最新の年号は天正3年、石垣の構築は天正7年であり、わずか4年の差しかない。これは何を意味するのか。著者は「石塔が供養の対象となっている時間(中略)が数年程度の短いものだったのではないか(p.238)」というが、石造である以上ある程度の期間存続を期待したことは間違いなく首肯しがたい。また、著者は墓地の強制接収(敗者の一族の墓の破壊など)ではなく、機能が停止した墓地の石材を運んできたと考えるが、その根拠も定かでない。

一方、神奈川県小田原市小田原城跡にある池の護岸には、五輪塔や宝篋印塔の部材が大量に使われている。その総数2000点のうちほぼ60%が未使用品であった。つまり石塔が大量生産されており、それが余っていたことが想像される。

しかし江戸時代以降には、城の石垣などに石造物が転用される事例は激減する。また、京都市大雲院跡の調査では、844基の石造物(墓塔)がまとめて整然と埋められていたことがわかった。これは火災の後に行われた墓地整理に伴うものと考えられる。中世では石垣などに転用されていたのに、整然と処分したのは「16世紀末から18世紀初期頃の100年強の間に、人々の墓石に対する認識が変化した(p.250)」ためと著者は考え、「役目が終了していても墓石は丁寧に扱わねばならないという認識(同)」になったとする。

著者はその他、墓石を転用しなければならないような状況がなかったといった社会経済的要因も指摘しているが、そちらの方が説得力を感じた。例えば鹿児島では昭和40~60年代に集落墓地が納骨堂に整理されるという趨勢があったが、その際、墓石は階段や石垣に転用されている。著者がいうような「墓石は丁寧に扱うべき」とする感覚は鹿児島にはなかったようだ。とすると、近世に墓石転用が激減したのは、わざわざ墓石を転用しなくても石垣を造れる社会経済的な実力があったからだと考えた方がよいような気がする。

「近世への胎動、墓塔から墓碑へ」では、近世の墓から現代までの墓石の変化が概括される。

近世の墓石は、中世と違って石塔ではなく墓標となった。著者は研究史を簡単にまとめ、墓標になっていた次第を奈良県大和郡山市美濃庄町念仏寺の墓地にあった舟形の墓石を紹介して概説している。その変化は、仏塔という形態が完全に失われて文字主体となり、種子(梵字)が失われ、戒名の記載が優先されるようになる、とまとめられる。そして「江戸時代の中頃くらいを境として墓石は故人を象徴するものとなり、そこに故人の霊が宿っていると解釈するように発展したのではないか(p.261)」という。

本書は全体として、最新の研究成果を援用しつつ、象徴的な事例を丁寧に紐解くことによって石塔を語っており、平易かつ簡明である。石塔の本には文字資料(金石文)が大きく取り上げられてその造立の背景が推測されるものが多いが、本書はそういう個別事例の片言隻句にとらわれず、建立そのものを重視して考察を加えている。

ところで、本書を読む前から思っていたことであるが、中世の石塔文化の発祥で気になることがある。それは最古の例が京都周辺ではないことが多いということだ。笠塔婆、五輪塔、板碑の古い事例を振り返ると、

  • 笠塔婆:熊本市円台寺の建久4年(1192)、石川県珠洲市野々江本江寺遺跡の出土品
  • 五輪塔:兵庫県姫路市の天養元年(1144)の瓦製五輪塔、岩手県平泉町の中尊寺釈尊院墓地の仁安4年(1164)の五輪塔
  • 板碑:埼玉県熊谷市の嘉禄3年(1227)、石川県珠洲市野々江本江寺遺跡の木製板碑、鳥取県米子市吉谷亀尾前遺跡出土品

となり、かなり広い範囲に広がっている。宝篋印塔、宝塔、無縫塔は京都周辺で生まれたと考えられるが、では笠塔婆、五輪塔、板碑は京都で生まれたかどうか。本書の記載からは何ともいえないが、少なくとも石塔を建立するという文化がかなりのスピードで日本全国に広まったことはいえる。これは、京都で生まれた文化が徐々に広まったとするにはあまりに早いように思う。私としては、武士には公家とは違った死生観があり、武士が中心となって石塔文化を作ったと考えたい

では公家は武士の石塔文化をどう見ていたか。例えば摂関家は墓地に石塔を建立したかどうか。摂関家の墓地は宇治の木幡にあり、浄妙寺が建立された。浄妙寺跡は発掘調査がされており、室町期まで存在したことが明らかになっている。にもかかわらず浄妙寺跡からは石塔は発掘されていない。これを踏まえると、公家は石塔を建てる文化に否定的だったのではないかと思われるのである。ではなぜ公家は石塔に否定的だったのか。また武士と公家の死生観の違いとは何なのか。これについては改めて考えてみたい。

中世石塔の最新の研究を平易に学べる良書。

【関連書籍の読書メモ】
『墓石が語る江戸時代—大名・庶民の墓事情』関根 達人 著
https://www.shokeishuyu.com/2019/12/blog-post_31.html
墓石によって江戸時代の社会を考察する本。墓石を通じて社会を見る視点が独特な本。著者の関根達人氏は近世墓塔研究で著名。

『中世の葬送・墓制—石塔を造立すること』水藤 真 著
https://www.shokeishuyu.com/2019/10/blog-post_4.html
中世の葬式がどうであったか検証する本。葬儀事例を数多く紹介することで中世の葬送を知る真面目な本。

『石造物が語る中世職能集団』山川 均 著
https://www.shokeishuyu.com/2019/12/blog-post_27.html
宝篋印塔の起源を考察する本。宝篋印塔の成立事情を伊派・大蔵派の動向によって推測した意欲作。ただしその起源説は本書のいう阿育王塔を祖型とするものとは異なる。

『石塔の民俗』石井 卓治 著
https://www.shokeishuyu.com/2020/10/blog-post.html
墓石の成立と石塔を関連づけて語る本。新鮮な角度から墓石の形式の成立を論じた良書。

『中世の板碑文化』播磨 定男 著
http://shomotsushuyu.blogspot.com/2020/09/blog-post_24.html
板碑の世界を概観する本。板碑の世界を手軽に俯瞰できる良書。

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