2026年7月24日金曜日

『明治東京畸人伝』森 まゆみ 著

谷根千の人々を描いた作品。

著者は、季刊誌『谷中・根津・千駄木』、通称「谷根千」の編集人である。この雑誌は地域の話題を取り上げる雑誌だが、地域にあるものを紹介するだけでなく歴史的に深掘りする特集が組まれており、本書はそこで取り上げられた地域ゆかりの人物について、雑誌の記事を補筆して書かれたもののようである。また特に畸人とされる人ばかりを取り上げているのではない。

よって、『明治東京畸人伝』というよりも、『明治谷根千人物誌』とすべき内容である。

さて、谷根千とは、皇居の北東に位置した下町的区域で、南・東は上野公園と東京大学、北・東側はJR(日暮里・西日暮里)、西側は駒込までのエリアであり、その面積はだいたい約1.5km四方くらいと思われる。この狭いエリアに、まさに多士済々の人物が暮らしていた。

こういう本の面白いところは、何の脈絡もなく人物が登場することである。何しろ、その共通点は谷根千に住んでいた、ということしかないのだから。もちろん、パリのモンマルトルのように、ある地域に特定の業界の人々が集まることはある。しかし谷根千の場合は良くも悪くも、いろんなタイプの人々が入れ代わり立ち代わり暮らした。

明治初年に写真館を開いた横山松三郎、宝丹という薬を売りまくった守田宝丹、最初期のピアニストで派手なパフォーマンスによって人気を得、ベルリンとウィーンに渡って絶望し自殺した久野久(くの・ひさ)、岡田式静座法という健康法・修養法で人気となった岡田虎二郎、藪蕎麦の元祖三輪伝次郎、とんでもない貧乏なのにサトウハチローの面倒を見ていた(同居させていた)詩人の福士幸次郎、『尋常小学読本唱歌』を編集し新作唱歌のリーダーだった吉丸一昌(「早春賦」、「おたまじゃくし」など)、ハーフの芸者春日とよ、上野公園一筋の名物園長古賀忠道、女遊びが激しい文筆家の物集高量(もずめ・たかかず)など、大文字の歴史を学んでいてはあまり登場しない人々が次から次に取り上げられるのが面白い。

とはいえ、やっぱり知っている人物が登場するといろいろ参考になる。一番面白かったのは幸田露伴が名著『五重塔』のモデルにした谷中五重塔(天王寺五重塔)の話である。谷中五重塔は昭和32年7月6日に放火心中で焼けて失われた。この五重塔の心柱が懸垂式で上からぶら下がっており土台には接していなかったとか、谷中共同墓地はこの五重塔があった天王寺の境内だった(土地が新政府に接収されて墓地にされた)といったトリビアルな話題が興味深かった。この他有名な人物としては、村山槐多、サトウハチロー、河口慧海、川端康成、北原白秋、三遊亭円朝などが取り上げられている。ちなみに章立てられてはいないが、森鴎外、宮本百合子、朝倉文夫(彫刻家)も谷根千に住んでいた。

そして本書の掉尾を飾るのが渡辺治右衛門である。明治の末での東京の地主は、1位が岩﨑家(22万1千坪)、2位が三井家(17万2千坪)などと続き、5位だったのが渡辺治右衛門(6万3千坪)だ。今では知る人も僅かだが、渡辺治右衛門は東京で五指に入る地主だったのである。渡辺家はもともと海産物問屋だったが、土地への投資で巨富を築き上げた(大概の金持ちがそうだが)。そして渡辺銀行を創業。金融業としては良心的な商売をしていたらしい。ところがこの渡辺銀行が一夜にして倒産する。

若槻礼次郎内閣で蔵相を務めた片岡直温(なおはる)が国会答弁中、むかっ腹を立てて「ただいま渡辺銀行が倒産した」と言ってしまったのだ。これは、直前に渡辺銀行から手形の決済が難しい旨の連絡を受けていたことを受け、つい口を滑らせて話を盛ってしまったもので、実際には渡辺銀行は別の銀行から融資をうけて事なきをえたものの、国会で「倒産した」と言われた打撃は大きく、とんでもない取付騒ぎが起こった。もちろん、手形の決済ができないくらいのなので経営が傾いていたことは事実であったが、預金者が大挙してお金を引き出しに来たのでどうしようもなくなったのだ。さらにこの騒ぎは他の銀行までも飛び火し、19行が倒産あるいは休業に追い込まれた。「わずか数日の間ではあったけれども、銀行の取付けが洪水のように市中のすべての銀行の前に殺到した時の物凄さは、今ふり返ってみても怖ろしいほどであった」と大阪毎日新聞経済部長だった下田奨見が述懐している。

ともかくこの騒ぎで預金がなくなってしまった(結果的に引き出せなかった)人が多く、谷根千では「ワタナベヂエモン」に対する恨みは激しい。しかし渡辺家の人たちは総じて良心的で、政府の失言によって倒産した部分もあったにもかかわらず政府を糾弾するようなこともせず、財産のほとんどを失いながらもそれなりに矜持をもってその後を生きた。

本書を読みながら、地縁というものの面白さを改めて感じた。地縁を中心に歴史を見ると、歴史の流れとは違ったところに目が行く。例えば鹿児島でいうと加治屋町をこんな風に描いたらどうなるだろう。よく知られる通り、加治屋町からは西郷隆盛や大久保利通、大山巌、東郷平八郎など明治の偉人とされる人がたくさん出た。だが、西郷家の隣、大久保家の隣にはどんな人が住んでいたのだろうか。それで明治維新が修正されるとは思わないが、これまでの明治維新とは違った断面が見えそうである。

地縁にこだわって歴史と人物を語る好著。

【関連書籍の読書メモ】
『五重塔』幸田 露伴 著
https://www.shokeishuyu.com/2018/05/blog-post_20.html
幸田露伴の若き日の傑作中編小説。

『チベット旅行記』河口 慧海 著
https://www.shokeishuyu.com/2015/05/blog-post.html
黄檗宗の僧侶によるチベット滞在の記録。チベットに興味があろうがなかろうが、エンターテインメントとして読める第一級の旅行記。

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